龍神村の幼馴染と僕

栗金団(くりきんとん)

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【第9話】 赤い袴の少女

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「おじさん、畑手伝わせてよ」
「…いいぞ」
 おばさんと北斗がいなくなった家で、僕は土仕事で汚れてもいいようにジャージに着替えておじさんに話しかけ た。おじさんは北斗とおばさんがいなくなった後に僕が話しかけるがわかっていたのか、レースのカーテンごしに洗濯物が揺れる様子を眺めながらラジオの気象予報を聞いていた。
「この辺の稲は田んぼで育てる水稲じゃなくて、畑で育てる陸稲でな。
 今となっちゃ珍しい古くから続いている技法なんだが、雑草は生えるわ雨が降らんで駄目になるわで、とにかく手がかかる」
「た、大変なんだね」
 おじさんと二人で話すのはこれが初めてだったので、僕は紅葉の時とは違う緊張感に包まれていた。
 どう接したらいいのかわからずにいるうちに、おじさんはずんずん進んで畑に向かっていく。速足で追いかけながら、何とか早口の説明を聞きとる。
 とはいえ農作業なんて精々学校の農作業体験しかしたことがないし、今になって足手まといになるんじゃないかと不安になってくる。
「まぁ、結局どんなやり方だって自然相手の仕事は上手くいかないもんだ。
 それに、勤め仕事だって苦労するのは変わんねぇ」
「そ、そうだね」
「稲は機械を使うからな、お前はこっちの畑で作業していろ」
 おじさんはお米だけではなく野菜も育てていて、僕が連れて行かれたのは里芋が土から顔を覗かせた畑だった。
 家から徒歩で行けるこの畑は家庭農園として食卓に出せるような野菜を育てていて、余った分はご近所に分けて消費しているらしい。
 おじさんは小さい畑と言ったけど、僕が保育園の頃芋ほりをした畑よりずっと大きい。
 その真ん中で実りに実った里芋は、そろそろ家族総出で収穫をするつもりだったというのも納得できる。黒土から伸びる立派な茎の先には、僕の手より大きい心形の葉が何枚も垂れ下がっていた。
「この葉が黄色くなったら、収穫だ。
 先に鉈で茎を切り取ってから、根ごと芋を掘り起こしていく」
「茎も食べるの?」
「食べれんこともないんだが、うちは食わんな」
 おじさんは僕に鉈を使った収穫の仕方を教示しながら、里芋の周囲の雑草を摘まんで毟った。草の中に隠れていたコオロギが驚いてぴょんと高く跳ねると、どこかへ逃げて行った。
 それを見て、おじさんが僕に最後の確認をする。
「あぁ、そうだ。
 お前、虫は大丈夫か?」
「虫って、蜂とか百足とか?」
「いや、芋虫とか飛蝗だ」
「なら大丈夫だよ」
 この村でタツミと遊んできたお陰で、僕は都会っ子にありがちな虫嫌いがなかった。
 神社で取ってきたカブトムシやクワガタを育てていたこともあるけど、夏休みが終わって学校が始まると家を空ける時間が長くなると、すぐに死んでしまった。
「…昔は、触れもしなかったんだけど」
 それでも、初めの頃は苦手だった気もする。
 だって東京の家の周りで見る虫はせいぜい蟻やダンゴ虫くらいなのに、田舎のナツアカネやアブにスズメバチはその数倍大きくてよく動く。
 特に自然豊かな神社では、毎夏蝉が大量に発生して人間と樹木を間違えた個体が背中に飛びついてきたりする。
 タツミは、神社に来るそうした虫たちを誇らしげに見せつけてくるのだ。

『ミーンミーンミンミン!』
『見てみて!アブラゼミ!』
『やーー!気持ち悪いよ!』
『大丈夫だよ!ほらよく見て!』
『やーだーー!こっち来ないでよー!』
『わははは!!』
『ぎゃーー!!』

 そして僕が嫌がって逃げると、喜んで追いかけてくる。
 女の子に、それもタツミに馬鹿にされるのが悔しくて悔しくて無理をしてでも平気な振りを続けていたら、気づいた時には虫嫌いを克服していた。もちろん、毒虫なんかは別だけど。
 ただ、タツミと一緒になって虫を取るのは何だかんだ楽しかった。
「そうか、多恵も昔は虫がダメだったんだがな。
 だが、出荷前の米はカメムシなんかが多いだろう?だから今じゃすっかり慣れてなぁ。
 蜘蛛も触れなかったのに、カナブンを素手で掴んで外に出したときは驚いたもんだ。」
 おばさんはこの村に一人嫁いで来て、一から村のことを学び人間関係を築いた人だ。その苦労がどれほどのものか、僕は身をもって体験している。それを乗り越えたおばさんの人柄や忍耐力は、言うまでもない。
 今朝だって、彼女は彼女なりに僕にサボり癖がついたら困るからと思ってくれたのだ。
 そしておばさんのことを話すおじさんの口元が緩んだのを、僕は見逃さなかった。
 おじさんは僕の視線に気づいて気まずそうに視線を逸らすと、ポケットから軍手を取り出した。
「…しかし、それなら良かった。
 ほれ、お前の仕事はここの雑草取りだ」
「収穫は?しなくていいの?」
「素人には危ないからな、それは俺がやる」
「わかった」
「それと、こまめに水分はしっかりとっとけ。」
「ありがとう」
 もしかして、僕が来ることを見越して用意までしていてくれたのだろうか。
 おじさんから2Lの水筒を受け取ると、僕は中身の麦茶の重さに数歩よろけた。すぐに水筒を端に置いて、受け取ったぶかぶかの軍手を両手につける。
「……何だ、でかかったか」
「そんなことない、ちょっとだけだよ」
 ムキになって言い返して、はっとしておじさんの顔を見ると口角が僅かに上がっていた。強面だから子供に厳しい人だと思っていたけど、思いのほか寛容なのだろうか。
 何だかわからないけど気まずくなって、僕は足元の手ごろな雑草を見つけるとしゃがみこんで根本から抜いた。
「こ、こんな感じ?」
「そうそう、上手いじゃないか。
 根っこは残すんじゃないぞ、出ないとすぐにまた生えてくるからな」
「わかった」
「……じゃあ、俺は収穫していくから。近寄るときは声をかけるんだぞ」
「うん、わかった」
 おじさんは鎌を里芋の茎に当てると力を入れて引いて、いともたやすく数センチの厚みがある茎を切り落とした。 そのまま次の芋の茎を持って、同じ要領でどんどん切っていく。斬る瞬間、ミリミリと太い茎の繊維が切断される音がする。
 鉈を使った作業は力任せに見えて、本当はかなり高度な技術がいるのがわかった。僕がやるとしたら、きっと一度じゃ切り落とせないから倍以上の時間がかかる。
 作業が始まると、仕事だから当たり前かもしれないけどおじさんは一言もしゃべらなくなった。僕から何か話しかけるのも変なので、必然的に二人して広い畑の隅で黙々と作業を続けた。
「……」
「……」
 初めのうちは昼間から学校に行かずにいることに罪悪感や、いじめっ子たちは気楽に登校できていることへの怒りが心の中で湧いては、さざ波のように広がった。
 でも黙々と雑草を掴んで抜くうちに雑念はどこかへ抜けて、気づけばひたすら手を動かしていた。
「一角、」
「何?」
 途中からジャージは脱いで、僕は肌着で作業をしていた。おじさんが声をかけてくれなかったら、きっとそのまま夕方まで作業をしていただろう。
 日の光を受けての作業はきつかったけど、この作業をすることで美味しい食材ができて、矢倉家のみんなのご飯になるのだと思ったら不思議と苦痛にはならなかった。
 人の役に立つのというのはこんなにも良い気分になるものなのだと知ると、僕は今まで自分がそれをしてこなかったことにも驚いた。
「お前、学校でいじめられていないか?」
「…え?」
 青天の霹靂とはよく言ったものだ。
 僕は身体が硬直して、頭の中に「何故バレたのか」「どうしてこのタイミングなのか」「いつからわかっていたのか」とあらゆる質問が駆け巡って、せっかく眠りについた魚が岩の間から顔を覗かせた。すぐには答えず、質問の意図を探ろうと顔を上げる。
 ザクリ、と茎に鉈の刃が刺さって分離していった。おじさんは切り落とした茎を引き上げて投げ、次の茎に移る。彼は、ただ淡々と黙々と仕事をしていた。
「…うん、そうだよ」
「そうか」
 おじさんが鉈を引く手つきは極めて冷静で、その瞳には良くも悪くも同情の念が浮かんでいなかった。僕は本当のことを話しても、彼なら過度に騒がれることも心配されることもないだろうと思った。
「…何で分かったの?」
 振り返ると、雑草を抜いて禿げた地面が道になって続いていた。立ち上がって腰を伸ばすと骨盤の当たりがジンジンと痛んで、膝の内側で空気が破裂するような音が鳴った。
 傍に置いてあった水筒を持って蓋を開けると、両手で中身を傾けて麦茶を勢いよく飲んでいく。おじさんは里芋の収穫方法を語るときと同じ口調で、語り出した。
「俺も昔やられていたからな」
「おじさんも?」
「あぁ、」
「…そっか」
 何て言ったらいいかわからずに、僕は水筒の蓋を閉めておじさんの作業を眺めていた。
 おじさんは手を止めると鉈を横にして、刃こぼれがないか確かめるように角度を変えて見始めた。鉈は所々錆がついてはいるけど、柄には年季が入っていて長い間大事に使われてきたのがわかる。
「おじさんは……」
「何だ」
「おじさんは、どうやって、その…いじめを」
 止めさせたのか、あるいは乗り越えたのか。おじさんも腹の中にこの魚を飼っていたことがあるのか、聞きたいことはたくさんある。どうして今も平気な顔をしてこの村に住んでいられるのか、いじめっ子たちはどうなったのか。
 でも、いざ言葉にするのは弱さを吐き出すようで躊躇われた。おじさんは、鉈の柄の部分を握ったり放したりして感触を確かめているようだった。
「…別に、俺はただ一度。
 これで奴らをぶん殴ったことがあるだけだ」
「これで?」
「あぁ、5対1だったかな。親玉の頭に向けてな」
 おじさんは大滝山の切れ端と空の境界線を仰ぎ見ると、口角を上げた。
 まだ家に来て日が浅い僕でも、それが何かを懐かしんで思わず溢れた笑みであることがわかった。おじさんはいつかの情景を見つめて、遠くを見るような目をした。


「やーい、バイキン!バイキン」
 秋人は、声変わりもしていない幼い声で自分を罵倒する同級生を振り返った。
 何日も雨が降らずに、父も祖父も田んぼが日照りで駄目にならないか心配していた頃の話だ。昔ながらの耕作では、雨が降らなければどこからも水が得られないので、一年かけて育てた作物も大きくならない。
 彼は父と祖父がいつまでも古風なやり方と、川から距離があり不便な土地にある田んぼにこだわることが全く理解できなかった。
 まだ小学校も卒業していないような10歳の息子にもっといいやり方あるのではないかと問い詰められると、父は「それでも先祖代々受け継いできた土地だから」と繰り返した。
 当時は農家の子供は農家という考えが強く、子供とはいえ家業を手伝うのが当たり前だった。だから息子の意見も間違ってはいないのだが、父はまるで息子ではなく自分に言い聞かせるように同じことを言うのだった。
 矢倉秋人の少年時代は、一言でいえば貧しかった。体の弱い母が早くに亡くなり、父は祖父と二人で懸命に作業をしていたが、数年前に土砂崩れがあって畑が巻き込まれたことが打撃となってなかなか裕福な生活ができなかった。 
 幸い祖父母と暮らしていたので、秋人は家で寂しさを感じることはなかった。
 けれど、学校ではそうではなかった。
「おいバイキンが来たぞ!逃げろ~!」
「ぎゃははは!」
「……」
 きっかけは何だったか、秋人は学校でいじめられていた。
 その時代に珍しく一人っ子でシングルファーザーの家の子だったから、クラスの中でも浮いていたのかもしれない。母が流行り病で亡くなったことを理由に誰かがバイキンと言いだすと、その呼び名は一気にクラスに浸透した。
 秋人は廊下に出された自分の机を教室に運ぶと、教室の隅でニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる大柄の坊主頭とその取り巻きの少年たちに無言で対峙した。代々村で暮らしてきた家の子供たちの年寄みたいな訛りが、秋人は嫌いだった。
「生意気なんじゃ!矢倉の倅の癖に!」
「そうじゃそうじゃ!」
「……」
「わしらに土下座の一つでもしたら、こいつは返してやるぞ」
「謝れ!さっとケンちんに謝れ!」
「そうじゃそうじゃ!」
「…それはワシのじゃ、返せ」
 反抗的な秋人はいじめっ子たちにとって、面白くなかったらしい。
 龍神神社に呼び出されたのは、いつ頃だっただろうか。
 最初に秋人の背中に石を投げた健太郎は裕福な家の生まれで、一つ上の学年の男の子よりも恰幅が良い。秋人は貧しさのためか、同年代と比べても背が低かった。力でも権力でも叶わない相手を、取り巻きの少年たちは恥ずかしげもなく囃し立てた。しかし彼らは秋人がきっと睨むと小さく呻くような、小心者だった。
「なら、力ずくで取り換えせばいいじゃろ」
 いじめっ子が手の上で軽く投げて遊んでいるものに、秋人は見覚えがある。
 小豆のようなくすんだ赤茶の布袋に緑糸の刺繍が入った、御守り。それは、秋人が肌身離さず持ち歩いていた母の形見だった。
 すぐにでも奪い返したいが、5対1では分が悪い。さらに、健太郎はどこから持ってきたのか鉈を持っていた。
 この辺りの人間はみな農家の生まれなので、家の倉からでも持ってきたのだろうか。刃先が錆びて柄は汚れているが、その鋭さは農家なら誰もが知っている。
「そんなものを持って、臆病者はどっちかの」
「なんじゃ、ビビったのか。
 やはりカエルの子はカエルじゃのぉ!」
 その一言を引き金に、秋人は石畳を踏みつけて勢いよく駆け出した。まさか向かってくるとは思わず目を丸くする健太郎たちに拳を振り上げると、背の高い取り巻きの一人の顔面に振り下ろした。
「ぎゃっ!?」
「やりおった!やりおったぞ!」
「お前らぼさっとするでないわ!さっさとやり返せ!」
「そ、そんなこと言われても…痛いっ痛いっ!髪を掴むな!」
 子ども同士の決闘だからといって、秋人は手を抜かなかった。
 指先まで力を入れて作った握りこぶしで殴りつけ、倒れたところで体重を踵に込めて腹を蹴る。当初の思惑が外れた健太郎は、鉈を使わなかった。
 いや、使えなかった。
 乱闘状態で鉈を振り回したら仲間にも当たるとわかっていたからだ。
 精々人質代わりの御守りを握りしめて、逃げ回る。
「おい!そいつを捕かまえんか!」
「そんなの無理…うわぁ!?
 か、噛んだ!こいつ朔太郎の指を噛みおった!」
「グルルル…!」
「千切れる!千切れる!おかあさーーん!」
 都会から越してきた朔太郎は、訛りを忘れて生まれの標準語で喚いた。
 一番幼い朔太郎の右手に容赦なく噛みついて歯を立てる秋人の鬼の形相を見て、まさか多人数相手に反抗してくると思っていなかったいじめっ子たちはあっという間に戦意を喪失した。
 元より健太郎に言われたからついてきただけで、彼らは喧嘩を売る度胸もない。しかし泣きわめく朔太郎を放っても置けず、何とか秋人を引きはがそうとサイズの合っていない半そでを掴んで引っ張った。
「痛い!痛い痛い!」
「離せ!離れんか!」
「何じゃこいつ!亀みたいに離れんぞ!」
「どけ!ワシがやる!」
 数的不利を覚悟して挑んだ秋人の力はすさまじく、3人に引っ張られたところで精々よろける程度で朔太郎の腕をつかんだ両手や手に噛みついた頭は離れない。
 その間もワンワン泣きわめく朔太郎に、健太郎も頭が真っ白になって咄嗟に右手に持っていた鎌を持ち上げて振り下ろした。確かに、手ごたえがあった。
「お、お前が悪いんじゃ…朔太郎から離れないから…!」
「……」
 秋人は鎌が空を切る音と共に朔太郎から離れると、健太郎から距離を置いて自分の右腕を凝視していた。
 肘から手首の間に10センチほどの切り傷ができて、鮮血がにじみ出ている。丁度動脈を切ったのか、決壊したダムのように湧き出てくる血を前に、健太郎も取り巻きたちも青白い顔で突っ立っていた。
「ケンちゃん、さすがにまずいんじゃ…」
「う、うるさいうるさい!
 お前らも同罪じゃろうが!」
「…おい、良いからさっさとソレを返せ。
 そうすれば今日は見逃してやるぞ」
「な、何を」
「ワシがこのことを警察に言ったら、お主らは犯罪者じゃぞ。
 息子がそんなことをして、村長は何と思うじゃろうな」
「あ…あぁ…」
 秋人は内心ひどく怯えていた。彼もまた血を見るのは初めてで、今すぐ亡き母に泣きつきたいくらいには腕は痛いし、このまま死んでしまうのではないかと思うと心臓が冷たくなる。
 だが、健太郎に母の形見の御守りを奪われたままというのはそれ以上に恐ろしいことだった。
 取り巻きは犯罪という言葉に完全に動揺して、健太郎に救いを求めるように視線を向け、視線を向けられた健太郎も既に諦めたように唇を震わせていた。ところが村長の父に迷惑をかけるとようやく気付いた健太郎は、思いもよらない行動を起こす。
「ワシに指図するな!全部お前のせいじゃろうが!」
「…愚か者が」
 窮鼠猫を噛む、というより追い詰められすぎて馬鹿になった健太郎は鉈を再び振り上げて秋人に向かった。
 見下していた秋人に図星を指摘されて、余程プライドを傷つけられたらしい。怪我に気を取られていた秋人が視線を向けると、そのまま行けば頭をかち割るだろう場所から鎌が降ってきた。
 秋人は「あぁ、くだらない死に方をしたものだ」と思った。死ぬなら、せめてこいつの指を引きちぎってやればよかったとも。
 だが、妙なことに健太郎が鎌を下ろすよりも速くの横っ腹に取り巻きの身体が衝突した。
「痛い!」
「ぎゃあ!」
 仲良く一緒に転がって土塗れになった健太郎と朔太郎に、秋人も取り巻きも本人たちも何が起きたかわからずにいた。
 朔太郎が何故そんなことをしたのか、そして一番小さくて力のない朔太郎がどうやって健太郎を押し倒したのか、誰もわからずにいた。健太郎も腹の上に朔太郎を乗せて目を白黒させていたが、すぐに顔を真っ赤にして朔太郎に怒鳴りつけた。
「何じゃお前は!」
「ご、ごめん!」
「邪魔をしたな!
 俺を馬鹿にしてるんじゃろ!!そうなんじゃろう!?」
「違うよ!
 わざとじゃない、押されたんだよ!」
 朔太郎は秋人から矛先が自分に向かったとわかると、弁解を始めた。
 自分は人に押されて飛び出しただけで、健太郎を邪魔したり馬鹿にしたりする気持ちなんてこれっぽっちもないと。そうでもなければ体重差が倍近くある健太郎を押し倒すことなんてできないと正論を述べると、健太郎は朔太郎を押し出した犯人を捜して取り巻きを順番に睨んだ。
「誰じゃ!誰が押したんじゃ!」
「違うよ、あの子だよ」
「どこのどいつじゃ!ワシがおやじに話したら…」
「だから、あそこにいる子だよ!」
「あ…?」
 朔太郎は、ある一点を指さして訴えた。
 健太郎は勢いよく振り向いて歯型が残る朔太郎の指の先をまじまじと見て、怒鳴りつけた。その先には賽銭箱があるだけで、秋人も取り巻きもいない。
「誰もおらんじゃろうが!」
「だから、赤い袴を来た女の子だよ!」
「嘘をつくな!」
 秋人ですら押さえつけられなかったというのに、ただでさえ身体が大きく短気な健太郎が暴れたら誰も止められない。
 喧嘩の途中ということも忘れてリーダーの一挙手一投足を観察する取り巻きは、自分のところに飛び火しないよう気配を消すのにいっぱいいっぱいで、朔太郎を助けることは二の次だった。
 朔太郎は健太郎が手を伸ばして、それが服を掴み殴るためだと察知すると、尻尾を巻いて逃げ出した。
 健太郎の手が空ぶって、誰かがそれを笑った。
「うふふふ」
「誰じゃ!」
「僕じゃないよ!」
「ワシでもないぞ!」
「ワシもじゃ!」
「くっ、くくっ…ふふ…」
「え…?」
 健太郎は声の主を探して体を回転させると、くるくると回りながら青ざめだした。その笑い声は取り巻きのものでも、ましてや秋人でもない。
 鈴が鳴るような女の子の声だった。
 朔太郎の指さした見えない女が、自分を笑っている。
 健太郎の取り巻きも、自分たちの横で笑い声を抑える透明な存在の怪奇さに声を失っていた。ここには人ならざる者がいる、それを知るとあれだけ威勢の良かった健太郎も茫然自失としていた。
 秋人はその千載一遇の好機に、足元に転がってきた鎌を握りしめて腹に力を込めた。
「いい加減に…返せぇ!」
「うぎゃぁ!?」
「アハ!」
「切られた!痛ぇ!いてぇ!」
「もういやじゃあ!逃げろ!」
「アハハ!」
「こんなものいるか!ばーか!ばーか!」
「アハハハハハ!」
 驚いた拍子に後ろへ転がった健太郎の額を、鎌の先が数ミリだけ掠った。
 楽し気な笑い声と悲鳴が混じって、遂に耐えきれなくなって取り巻きが逃げ出した。健太郎は泣きながらポケットに入れた御守りを放り投げると、ポケットを裏返したまま階段を下っていった。
「あいつ御守りを投げおった…なんと罰当たりな」
 秋人はすぐに拾い上げて、袋の端についた泥やほこりを叩き落とす。
 騒がしい人間がいなくなった境内には黄昏時にも関わらず蛙一匹、蝉一匹たりとも鳴いておらず、静まり返っていた。どこか知らない場所に来てしまったかのような疎外感に、御守りを握りしめて鳥居の方に足を向けて、立ち止まった。
 そして振り返って賽銭箱の前まで歩みを進めると、縄を掴んで鈴を鳴らして二礼二拍手。
「…ありがとうございました」
 一礼して再び鳥居をくぐる。もう声は聞こえなかったが、彼はすぐ近くに誰かがいるような気がしていた。
 それ以来、取り巻きは手を出さなくなった。相変わらず秋人は学校で孤立していたが、不思議といつも誰かに守られているような安心感があった。
 あの時手に握っていた御守りは、今でも矢倉家の神棚に置いてある。秋人は黙り込んだ自分を不思議そうな顔で見つめる一角を見下ろすと、ふっと表情筋を緩めた。
「よし、昼飯にするか」
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