失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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第3章 初陣

33:すれ違う人々と知識

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 ハーデンブルグの市場は、活気に溢れていた。

 道の両脇には露店が軒を連ね、様々な物品が所狭しと並べられている。麦や豆等の穀物、野菜や果物、生きた鶏の入った籠と卵の脇には豚の脚が吊るされ、その隣の店には魚の干物が平積みになり、紐で一纏めに括られていた。

 反対側を見ると麻や木綿でできた布や皮が山積みになり、隣の店では魔物のものと思しき毛皮を持ったハンターが、露店の店主と価格交渉をしていた。

 道は混雑しており、荷車や馬車は入れない。時折背中に大きな荷物を抱えた男達が、道を行き交う。さらにその人込みを縫うように、丁稚奉公の子供達が店主の指示に基づいて走り回る。まだ経験の浅い子供は距離感がわからず、外套を羽織った小柄な女性とすれ違いにぶつかり、そのまま小走りに去って行った。

「いった…」
「ミカ、大丈夫?」
「あ、うん、平気。しかし、すごく混んでるのね、ここ」
「ええ、まだ朝市の真っ只中だから。もう1時間もすれば、潮が引くように人が疎らになるわ」

 同じ外套を羽織って隣を歩くレティシアに声をかけられ、美香は手を振って答える。そして顔を上げると、再び周囲を見渡した。

 その日、いつもより早く起床した二人は、護衛の騎士を伴って朝市に顔を出していた。騎士と言っても、この日はお忍びという事もあり、いつもと異なる革鎧を着てハンターの様な格好をしている。前後を2名ずつ分かれた騎士に守られ、美香はきょろきょろと周りを見ていた。

「レティシアは、朝市にもよく来るの?」
「朝市は流石にあまり来ないわ。これだけ混雑すると護衛も大変だしね。あ、今日は気にしないで。こういうところも見ておかないと、ミカも理解が進まないでしょう」
「ありがとう、レティシア。でも、朝市ってこうなっているんだね、初めて見たよ」
「元の世界ではこういった市場はないの?」
「市場そのものはあったけど、市民はそこでは買い物をしないの。市場で卸された品々は、大きな店で市民向けに陳列して、売られるの」

 海外に行った事のないごく普通の日本人であった美香は、自分の私生活で知る範囲でレティシアに説明する。そして、市場を行き交う人々を眺めた。

 行き交う人々は、時間に追われるように世話しなく動き回り、露店の店主たちは行き交う人々を引き留めようと、声を張り上げていた。彼らは一生懸命に働いており、時折会話の中で飛び出す笑い声を除けば、真剣そのもの。その生活は、決して余裕があるようには思えなかった。

 しかし、人々は悲嘆に暮れておらず、絶望してもいなかった。今は余裕がなくとも、明日の希望を見据えて働いていた。彼らはしっかりと大地を踏みしめ、日々を歩んでいた。その人々の姿を美香は脳裏に焼き付け、この世界を少しでも知ろうとしていた。

「ミカ、そろそろ朝食を取りましょう。あちらの通りに行けば、食堂があるわ」

 レティシアの声に美香は振り返り、護衛の先導で食堂へと向かう。朝市の通りを抜けると、道は一段広がり、人通りは若干疎らになった。朝市の通りは、どうやら露店が張り出した分、道が狭くなっていたようだ。

 一行は朝市の通りから2~3軒離れた所にある、木造の建物へと向かった。建物は道路側の壁がなく、中はテーブルと、椅子に座って食事を取る多数の人々で埋まっていた。一行は、建物の隅に空いていたテーブルに陣取り、思い思いに座る。

 この日は街の食事も体験してみようという事で、起きてから何も食べていなかった二人は早速従業員を呼び、食事を注文する。店主の娘と思しき少女は、注文を受けると小走りで厨房へと向かった。

 やがて、二人の前には、小麦粉の薄焼きパンに具が挟まれたタコスの様な食べ物と、スープが並べられた。久しぶりの、作法を気にしない食べ物の登場に、美香は思わず手を合わせた。

「いただきます」
「イタダキマス?何ですの、それ」
「元の世界で食事を取る時の挨拶なの。こちらと違って神に捧げる祝詞ではなく、作った人への感謝の言葉ってところかな」
「そうなのですね、では私も…イタダキマス」

 そう言ってレティシアも手を合わせた後、二人は食事に取りかかった。

 タコスの様な食べ物は、肉と野菜が挟み込まれており、大きく、味が濃かった。二人にとっては朝食には胃にもたれる重さだったが、早朝から働きづめの労働者にとっては、丁度良い濃さなのだろう。それでも、肉の味もしっかりしており、ボリュームのあるタコスもどきを、二人は日頃の作法も気にする事なく、黙々と食べ進んだ。スープも労働者向けに塩気の強い味付けであったが、タコスもどきと違いシンプルな味となっており、箸休めに丁度良い塩梅だった。

 一足先に食べ終わった美香は、まだ食べ続けるレティシアを見やる。日本でファーストフードを食べ慣れている美香と違い、大口を開けて食べる料理にレティシアは若干苦労している様だ。美香はレティシアから視線を外し、周囲を見渡す。周りは朝の一仕事が終わって一服する者と、これから仕事をするために早々に店を出る者達で、目まぐるしく入れ替わっていた。ここにも悲嘆や絶望は欠片も存在せず、人々は前を向いて歩いていた。

 頬に視線を感じ正面を見ると、食事の終わったレティシアがこちらを見つめていた。美香は笑みを浮かべ頷き、もう一度手を合わせる。美香を見て、レティシアも真似をした。

「ご馳走様でした」
「…ゴチ、ソウサ、マデシタ」



 ***

 食事が終わった一行は店を出ると、ハンターギルドハウスへと向かった。対ガリエルの最前線だけあって、周囲は魔物が跋扈しており、それに対抗するためにこの街を根拠地にするハンターも多い。定期的な討伐はディークマイアーの軍が組織的に行っているが、すり抜けてくる魔物の殲滅に、ハンターは欠かせない存在だった。

 ギルドハウスへと向かう途中、進行方向にある区画壁の城門が開き、騎馬の一団が進入してきた。その数、約50騎。ディークマイアー邸へと向かう一団と、美香達の一行がすれ違う。

 その時、先頭を進む騎士がレティシアを一瞥し、その視線が美香へと流れる。一団を眺めていた美香の視線と交差した。

 漆黒の瞳、漆黒の髪。目鼻立ちの整った精悍な顔つき。鎧まで漆黒に染まった男は、しばらく美香の顔を見つめていたが、やがて進行方向に顔を向けると、そのまま歩み続ける。視線に引き摺られるように歩みを止めた美香は、そのまま一団が過ぎ去るのを振り返って眺めた。

「オズワルド・アイヒベルガー。ディークマイアー騎士団第1大隊長。魔物討伐から無事帰還したのね。私がお忍びだと気づいて、声をかけなかったのでしょう。ミカ、何か気になったの?」

 レティシアが美香に声をかける。

「うん。黒髪と黒い目は、こっちでは先輩以外見てないから」
「そうね、この世界では、黒髪黒目はあまりいないわね。ミカの世界では多かったの?」
「私がいた国は、ほぼ全員黒髪黒目だったの。私の国の周りも、もっぱら黒髪黒目だった。レティシアみたいな髪の人は、世界の反対側にいたわ」

 レティシアの豊かなブロンドの髪を見て、美香は説明する。その説明を聞いたレティシアが疑問を呈した。

「え、世界の反対側って何?」
「え、反対側って言ったら、反対側よ。この世界がある星を何て言うか私はまだ知らないけど、この星の反対側に住む人よ」
「え、星って、夜天に光っているあの星でしょ?あの星の反対側って事?」
「え、いや、私達がいる、この星の事よ」

 そう言って、美香は地面をつま先で突く。レティシアは地面を向いて質問を続ける。

「え、この下に星があるの?」
「え、これ星じゃないの?」
「え?」
「え?」

 美香とレティシアは、顔を見合わせる。ちょっと待て。致命的に会話が噛み合わない。

「レティシア、教えて。この世界では、私達が立っている『これ』は何て呼ばれているの?」

 そう言った美香は、再度地面をつま先で突く。

「地面よ」
「いや、もっと大きい意味で言ったら?」
「陸地よ」
「もう一声」
「世界よ」
「世界…、星じゃないんだ?」
「ええ、星ではないわ。星は天空にあるものよ」

 途中よくわからない合いの手を入れてしまったが、レティシアには通じたようで、美香が求める答えを得る事ができた。この世界では、「地球」に相当する概念がない。おそらく「天動説」が未だ信じられているのだろう。あるいは、本当に天が動いている世界なのかも知れない。太陽や月の動きを見る限り、前者だとは思うが。

「ありがとう。私、やっぱりこの世界の事、全然知らなかったんだな」

 何となく、諦観の念を入れて、美香はレティシアに微笑む。自分が異世界に来たと知っていたつもりでいたが、その事実を改めて突き付けられた瞬間だった。

 美香の内心を何となく察したレティシアは気遣わし気な表情を浮かべたが、それ以上は踏み込まず、話を転じる。

「いいえ、気にしないで。長話になってしまったわね。そろそろ、ハンターギルドに向かいましょうか」

 レティシアの宣言をきっかけに一行は会話を切り上げ、ハンターギルドへと向かった。
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