おまさの歩 本郷将棋料理屋

白塚ゆき

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第四章 天空の城

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   一

 対局後の二人は、茶を呑みながら対局の感想を述べ合った。
 立会人の大橋宗与や不鳴不飛もまじえ、初めから並べ直しながら細かく検討していった。
 この振り返りが何より力になる。
「このあたりは、もうわけが分からなくて」
 おはるが苦笑いを浮かべた。
「わたしも、十のうちに指すのが精一杯で」
 おまさが言った。
 勝ったこともあって、終局直後よりは表情がやわらいでいる。
 さらに検討が続いた。
「そこで銀を上がったらどうなったかね」
 立会人の宗与が指さした。
「ああ、そのほうがよかったですか」
 おはるが言った。
「たしかに、そのほうが嫌だったかもしれません」
 おまさは素直に認めた。
 そんな調子で、検討はひとしきり行われた。
 一段落したところで、双方の見世の話になった。
 おはるの見世の座敷にも将棋盤が二つ据えられ、酒肴を楽しみながら将棋を指すことができるという話だ。
「ぜひ来てください。おまさちゃんの次の対戦相手は、指したことがある人ばかりだから」
 おはるはそう申し出てくれた。
「そりゃあ、願ったり叶ったりですな」
 不鳴不飛が言った。
「相手の戦法が頭に入っているのといないとでは、ずいぶん違うからね」
 宗与も言う。
「では、こちらが休みの日にお邪魔します」
 おまさは好意に甘えることにした。
 かくして、段取りが決まった。


   二

「ちゃんと手土産を提げていかないと」
 母のおたつが言った。
「ええ。将棋を教わるんだから」
 おまさが答えた。
 おはるの見世は南八丁堀の越前堀えちぜんぼりに近いところにある。
 名は「はるや」だ。
 桜色ののれんが出ているからすぐ分かる、とおはるは言っていた。
「ほかにもいろいろ学びになるだろうよ」
 家主の善吉が言った。
「向こうも将棋盤があって料理を出すんだからな」
 便利屋の大造がそう言って、駒音高く歩を打ちつけた。
 先ほどから対局が続いているが、落手の応酬でいい勝負になっている。
「いい肴があったら教わっておいで」
 おたつが言った。
「将棋と料理の両方の学びで」
 おまさは笑みを浮かべた。
「何事も学びだからね」
 と、おたつ。
「次の勝負もあるから」
 家主が言う。
「秘策を教わりゃ無敵だぜ」
 大造がそう言って、敵陣に角を打ちこんだ。
「そいつぁ、ただだよ」
 家主がすかさず飛車を動かした。
「あっ、しまった」
 便利屋が頭をかかえたから、本郷の八一屋に笑いが響いた。


   三

 次の休みの日――。
 おまさは菓子折りを提げて八丁堀に向かった。

 あっ、あれね……。

 おまさは少し足を速めた。
 行く手に桜色ののれんが見えた。
 おはるが営む「春や」だ。
 見世に近づくと、中から声が響いてきた。

 いやあ、まいったね。
 受け損じてしまったよ。

 客の声だ。
 ちょうど対局をしているようだ。
 おまさは胸に手をやった。
 ふっ、と一つ息を吐く。
「こんにちは」
 ひと声発して、おまさはのれんを開けて中に入った。
「まあ、おまさちゃん」
 おはるがすぐに気づいた。
「知り合いかい?」
 対局相手が訊いた。
 隠居然とした好々爺だ。
「ええ。先日対局した本郷のおまさちゃんです」
 おはるが答えた。
「ああ、そうかい。話は聞いてるよ」
 先客が笑みを浮かべた。
 存外に奥行きのある構えだった。
 小上がりには将棋盤が三つ並んでいる。品のいい色の座布団も据えられていた。
 そのほかに一枚板の席もあった。
 座り心地のよさそうな長床几が据えられている。おかみがつくった小料理をすぐ味わいながら酒を呑むことができる。
 将棋と酒肴。
 どちらも楽しめるつくりだ。
「この一局が終わったら、またお相手を」
 おはるが将棋盤を手で示した。
「ええ、それはぜひ。これはつまらないものですが、召し上がっていただければ」
 おまさは緊張気味に手土産を渡した。
「まあまあ、気を遣っていただいて。どうぞ上がって」
 手土産の菓子折りを受け取ると、おはるは身ぶりで示した。
「では、失礼します」
 おまさは座敷に上がった。
「わたしの将棋はもういけないから、ここで投了だね。見物側に回ることにするよ」
 先客がそう言って駒を投じた。
 南新堀みなみしんぼりの醤油酢問屋、池田屋いけだやの隠居の宗右衛門そうえもんだ。せがれに身代を譲り、好きな将棋を指すのを何よりの喜びとしている楽隠居だ。下り醤油などを扱っている大店おおだなで、春やのいちばんの後ろ盾でもある。
「さようですか。なら、仕度が整ったら、さっそく一局」
 おはるが笑みを浮かべた。
「はい、お願いします」
 おまさは素直に頭を下げた。


   四

 春やはおはるが一人で切り盛りしている見世だ。
 将棋の対局中に厨で料理をつくるわけにはいかないから、先に食べ物と呑み物を訊かれた。
 おやきができるそうだから、おまさは所望した。呑み物は番茶だ。
 こうして支度が整った。
「では、次の試合の稽古になるように指してみるわね」
 おはるはそう言ってくれた。
「相手はもう決まったのかい」
 池田屋宗右衛門が訊いた。
「池田菊さんと大橋浪さんですけど、どちらも指したことがあるので」
 おはるは笑みを浮かべた。
「そうかい。それは心強い指南役だね」
 隠居が笑みを返した。
「では、よろしゅうお願いします」
「お願いします」
 二人が一礼し、稽古将棋が始まった。
 おまさとの対局は相居飛車だったが、このたびは違った。
 おはるは飛車を振った。
 四間飛車だ。
「どちらも振り飛車なので。浪さんは三間が多いんだけど」
 おはるが言った。
「はい」
 おまさがうなずく。
「どうぞおやきを食べてくださいね」
 おはるが皿を手で示した。
「ええ、いただきます」
 おまさはそう答えると、ほどよく焼き目がついたおやきに手を伸ばした。
「ここのおやきはいろいろあるんだよ」
 宗右衛門が言う。
「あっ……切干大根の煮つけが入ってる」
 食してみたおまさが声をあげた。
「甘い餡のときもあるんだけど、今日は切干大根で」
 おはるはそう言って指し手を進めた。
「とってもおいしいです。うちでも出したいくらい」
 おまさが答えた。
「それならあとでいくらでも教えますよ」
 おはるは快く言った。
「ほんとですか?」
 と、おまさ。
「教え惜しみはしないから」
 おはるは笑って答えた。
「わらべ向きだと餡が入るんだ」
 隠居が教えた。
「それもおいしそうです」
 おまさは笑みを浮かべた。


   五

 おやきとお茶を味わったあとは、稽古将棋が続いた。
 飛車を四間に振ったおはるは、じっくりと美濃囲いに組んだ。
 対するおまさは左美濃だ。
 互いにがっちりと組み、戦機をうかがう構えになった。
「長くなりそうだね」
 宗右衛門が言った。
「まだまだ駒組で」
 おはるがそう言って歩を突いた。
 狙いが見えた。高美濃囲いに組み替えるつもりだろう。
「では、こちらも」
 おまさも少し考えてから歩を突いた。
 相手が高美濃なら、こちらは銀冠だ。
 いずれ玉頭戦になったら堅陣が活きる。
「うーん……」
 数手進んだところでおはるが腕組みをした。
「行くとしたらここだね」
 観戦の隠居が言う。
「そうですね。もう言って銀を上がれば銀冠ができあがってしまいますから。ここは目をつぶって……」
 おはるはそう言って端歩を突いた。
 開戦は歩の突き捨てからと言われる。いよいよここからいくさだ。
 そこからのおはるの攻めは巧妙だった。
 いかにも細い攻めだったが、歩を巧みに使い、おまさの陣に食いついていった。
「こりゃあもう切れないね」
 宗右衛門が言った。
 攻めが途切れてしまうことを「切れる」と言う。さりながら、おはるは巧妙な手順でと金をつくった。これでもう切れることはない。
「うーん……」
 今度はおまさがうなった。
 このまま受けていても、じりじりと圧されていくばかりだ。
 かくなるうえは……。
 おまさは意を決した。
 ぴしっと音を立てて歩を突く。
 攻め合いだ。
「ああ、やっぱり」
 おはるが笑みを浮かべた。
「これは攻め合いだね。さて、どちらが早いか」
 宗右衛門が少し身を乗り出した。
 その後は一進一退の攻防が続いた。
 攻め合いとはいえ、受けるべきところは受けなければ形勢を一気に損じてしまう。難しい局面が続いた。
 一手指すごとに、指したほうが有望に見える。
 負けじとまた指し返す。
 きわどい局面が続き、いよいよ最終盤になった。
 詰むや、詰まざるや。
 おまさは迷った。
 相手の玉に詰みはなさそうだが、詰めろをかけることはできる。ほどくのが難しそうな詰めろ、すなわち、次の手番には詰ませられる局面だ。
 問題は、自玉に詰みがあるかどうかだ。
 詰まないような気もするが、おはるの持ち駒は豊富だ。詰まされても文句は言えない。
 おまさは腹をくくった。
 ここは勝負だ。
「さあさあ、ここだ」
 宗右衛門が座り直した。
 おはるはあごに手をやって考えに沈んだ。
 やがて……。
 その動きが変わった。
 座り直すと、おはるは捨て駒の桂馬を打ち下ろした。
 その手つきを見たとき、おまさは負けたと思った。
 あとは流れるような手順だった。
 続けざまに捨て駒を放っておまさの玉の退路を断ち、少しずつ着実に追いつめていく。
「……負けました」
 ややあって、おまさは頭を下げた。
 おはるも会釈を返した。
    

   六

 その後は検討が続いた。
 一局を振り返るのが何よりの学びになる。
「四間飛車がお相手なら、父が編み出した陣形に組むことも考えたんですけど、何だこれはと言われそうな気がしたので、普通に左美濃に組みました」
 おまさはそう明かした。
「へえ、お父さんが編み出した陣形があるの」
 おはるが興味を示した。
「どんな陣形だい」
 宗右衛門が問うた。
「では、初手から動かしてみます」
 おまさは駒を動かしだした。
「相手は普通の四間飛車ね」
 おはるも手を貸す。
「ええ。美濃囲いで」
 手を動かしながら、おまさが答えた。
「ほう。角がそこに上がるのか」
 隠居が驚いたように言った。
 おまさの角は七七ではなく六六に上がった。
 六五の歩が危うそうに見えるが、これは七七に桂を跳ねて支える。
 さらに、二枚の銀が角を守る。
 面妖な陣形だ。
 まるで天空に城が築かれたかのようだ。
 金はひとまず七八と五八に据えて守る。
 飛車は二八に回るから、振り飛車ともいえる。
「ここから飛車先の歩を突いていって、一歩得をしたら下段に構えます」
 おまさは手順を示した。
「なるほど。下段を滑るように横に動くわけだね」
 宗右衛門がうなずいた。
「うっかり割り打ちの銀は打てないわね。タダで取られちゃうから」
 おはるが笑みを浮かべた。
「ええ。飛車が五筋に回って逆襲することもできますし、雀刺しからの端攻めも狙えます」
 おまさは説明した。
「これは使えるわね」
 おはるの声に力がこもった。
「いけそうな気がするよ」
 宗右衛門も和した。
「次の相手が池田菊さんだったら、ぶつけてみてもいいかも。きっと面食らうと思うから」
 おはるが水を向けた。
「分かりました。父の形見の戦法ですから、もしそうなったらやってみます」
 おまさは引き締まった顔つきで答えた。   






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