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第七章 御城将棋
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その日が来た。
次の辰の日だ。
おまさはずいぶん朝早くに目を覚ました。
今日はいよいよ駕籠が来る。それに乗って、老中の屋敷へ行かなければならない。
そう思うと、目が冴えてしまい、もう眠ることができなかった。
おまさは思い切って起きることにした。
厠を済ませ、母を起こさぬように気をつけながら顔を洗う。
頭の芯が冴えた。
それから、仏壇に向かって両手を合わせた。
おとっつあん……
亡き父に語りかける。
これからご老中のお屋敷へ行って、将棋を指すことになったの。
おとっつぁんから教わった戦法で、気張って指すから、力を貸してね。
おまさは心の中でそう告げた。
遠くで一番鶏が鳴いた。
その声が、心にしみた。
身の引き締まる思いがした。
負けてもともとだ。
精一杯、指してこい。
父の声が聞こえたような気がした。
二
迎えの駕籠が来るまでに、不鳴不飛が八一屋に姿を現した。
紋付き袴のいでたちだ。
「ここまで来るのに難儀しましたな」
戯作者が言った。
「見違えるかのようで」
おたつが笑みを浮かべた。
「そりゃあ、大事な将棋の帳面係だから」
不鳴不飛がいつもより引き締まった顔つきで言った。
ほどなく、家主の善吉が姿を現した。
「いよいよだね」
いつもの温顔で言う。
「ええ。もう胸がどきどきしています」
おまさは胸に手をやった。
「勝負は時の運だから、気楽に」
不鳴不飛が肩の力を抜くしぐさをした。
「そうは言っても、ご老中のお屋敷へ行くんだから大変だよ。わたしなんか、考えただけでくらくらしちまう」
家主がこめかみに指をやった。
ややあって、駕籠が来た。
「二挺来てくれたな」
不鳴不飛がほっとしたように言った。
「なら、気をつけて」
おたつが言った。
「いつもここで指してるつもりでね」
善吉が座敷を手で示した。
「はい、気張ってきます」
おまさは一礼すると、駕籠のほうに向かった。
三
はあん、ほう……
はあん、ほう……
先棒と後棒が声を合わせて進む。
老中の屋敷から遣わされた駕籠だ。町娘が乗るには不似合いな構えで、いささか落ち着かなかった。
「駕籠がどこへ向かっているか、道筋などは詮索しないでください」
不鳴不飛からはあらかじめそう言われている。
おまさはときどき目を閉じて、ただ駕籠に揺られていた。
頭の中で定跡を再現する。
父から教わった戦法のおさらいもする。
一手一手、気を入れてたしかめながら再現していくうちに、時はどんどん経っていった。
そして、ある場所に着いた。
「こっちへ」
先に駕籠を下りた不鳴不飛が身ぶりで示した。
見知らぬお屋敷の中で身のすくむ思いがしたが、とにもかくにもついていくことにした。
老中の屋敷はさすがに広壮だった。一つの書院に案内されたおまさは時を待つことになった。
茶が出たが、ろくに味も分からなかった。
そのうち、不鳴不飛が呼び出しを受けた。
ずいぶん長く感じられたが、戻ってきたときはほっとした。大橋宗与と一緒だったからだ。どうやらべつのところから屋敷に入っていたらしい。
「ご苦労様だね」
宗与はいつもの温顔で言った。
「はい、何とかここまで」
おまさは頭を下げた。
「対局相手は先に対局場に入っているようだ。仕度ができているのなら、これから一緒に行くことにしよう」
宗与が言った。
「はい」
おまさの表情が引き締まった。
「帳面係のやつがれもいるので」
不鳴不飛が笑みを浮かべた。
おまさもやや硬い笑みを返した。
四
対局場は奥の書院のようだった。
廊下を一歩進むたびに胸がどきどきしてくる。
「ここだな」
宗与が行く手を手で示した。
戸が半ば開いている。
「御免」
宗与がひと声発し、先に入った。
不鳴不飛とおまさが続く。
先に入室していた若者が一礼した。
つややかな総髪だ。
顔を上げる。
おまさは息をのんだ。
若者の涼やかな目には、勁い光が宿っていた。
「紹介しましょう」
不鳴不飛が言った。
「将棋家の血筋を引く大橋宗秀さん」
手で若者を示す。
「大橋宗秀です」
若者が折り目正しい礼をした。
おまさはいくらか離れたところに座った。
「こちらは、対局相手の本郷まさ女さん」
不鳴不飛が紹介した。
「まさと申します。どうぞよろしゅうに」
おまさは緊張気味に一礼した。
顔を上げる。
若い二人の目と目が合った。
おまさは息を呑んだ。
総髪の若者は、いままで見たことがないような涼やかな目をしていた。
「では、まず検分を」
宗与が段取りを進めた。
「まずは着座を」
不鳴不飛が手で示す。
「失礼します」
おまさがゆっくりと下座に座った。
「上座で失礼します」
宗秀が軽く頭を下げる。
「いえ」
おまさのほおが赤らんだ。
「まずは盤駒をあらためてください」
宗与が言った。
盤も駒もほれぼれするような品だった。駒は水無瀬の書体が美しく、きれいに盛り上がっている。
「座布団はいかがです?」
世話人の不鳴不飛が問うた。
「これでお願いします」
宗秀がすぐさま言った。
「わたしも」
おまさが緊張気味に答えた。
「ここがご老中の席だね」
宗与が手で示した。
帳面係と時読みの隣に、座布団が二つ置かれている。片方は金彩が施されたひときわ立派なものだ。脇息もある。
「いつ見えるのでしょう」
不鳴不飛が問うた。
「それは分からないね。結局、見えなかったということもありうるが、それはそれとして、気張って対局してください」
宗与が言った。
「承知しました」
宗秀が答えた。
おはるはぐっと唇をかんでうなずいた。
五
支度は整った。
時読み係の宗与の弟子と、帳面係の不鳴不飛が持ち場に着く。
二つの大きな砂時計も据えられた。いよいよ、御城将棋の始まりだ。
立会人の宗与が最後に腰を下ろした。
「よろしゅうございますか」
宗与が両対局者の顔を見て言った。
「はい」
宗秀が短く答えた。
おまさは頭を下げた。答えようと思ったが、声が出なかった。
「では、振り駒を」
宗与が弟子のほうを見た。
時読み係が立ち上がり、一礼してから歩を五枚取り上げた。
「大橋宗秀様の振り先にて」
合わせた掌の中で小気味よく駒を振ると、時読み係は広げてあった白い布の上にばっと広げた。
と金が四枚出た。
おまさの先手だ。
おまさは小さくうなずいた。
勝敗の決着がつかぬかもしれぬ御城将棋とはいえ、有利な先手のほうがありがたい。
「振り駒の結果、本郷まさの先手番と決まりました。砂時計の砂が落ちきれば、一手十の時読みとなります。では、始めてください」
立会人が告げた。
「お願いします」
宗秀が一礼した。
「お願いいたします」
おまさもていねいに頭を下げた。
六
ふっ、と一つ、おまさは息をついた。
少しのどが渇く。
おまさは湯呑みに手を伸ばした。
お茶を啜ると、気が落ち着いた。
駒に指を伸ばす。
おまさは静かに歩を突き、角道を開けた。
次の一手が、早くも分かれ道だった。
相手の宗秀は将棋家の傍流で、棋譜を見たことがない。振り飛車か、居飛車か。それすら分からない。
飛車先の歩を突けば居飛車だ。
宗秀は落ち着いた手つきで着手した。
角道を開ける手だ。まだ居飛車か振り飛車か分からない。
ここで角を交換する角換わりは、おまさはあまり得手ではないから、迷わず角道を止めた。
宗秀も同じように角道を止める。
それから数手進んだ。
おまさは息を呑んだ。
宗秀が飛車を四筋に振ったのだ。
四間飛車だ。
敵の戦法が分かった。
これなら、亡き父が得意だったあの戦法を使うことができる。
おまさの身の内に力がわきあがってきた。
駒組が進んだ。
おまさは角を天空の位置に上がり、桂馬を跳ねて角頭の歩を支えた。
宗秀の顔がにわかに紅潮してきた。
初めて相対する戦法だということはすぐさま察しがついた。
おとっつぁんが編み出した戦法ですもの。
どんな棋書にも載っていないはず。
おまさは手ごたえを感じた。
それに……。
宗秀の双肩には、ただならぬ重みがかかっているように見受けられた。
無理もない。
傍流とはいえ将棋家の代表としてこの御城将棋の場に臨んでいる。もし町場の小娘に負けたりしたら、これは名折れもいいところだ。絶対に負けるわけにはいかぬ。そんなただならぬ重みだ。
宗秀の額には脂汗が浮かんでいた。
前屈みになって読みにふける。おまさにも息づかいが伝わってきた。
ややあって、宗秀は意を決したように着手した。
数手進んだところで、相手の狙いが読めた。
桂馬だけで支えているおまさの角頭の歩。そこに狙いを定めているのだ。たくさんの駒を利かし、その歩を取り払ってしまえば、角を攻めることができる。
おまさは受けに回った。
下段に構えた飛車を五筋に回して援軍を送る。
負けじとばかりに、宗秀も銀を出た。
まさに一触即発、双方の駒組が進み、のっぴきならぬところまで来た。
宗秀がちらりと砂時計を見た。おまさも見る。砂は着実に減っていた。
ややあって、駒音高く、宗秀が歩を突いた。
開戦は歩の突き捨てから、と言われる。
同歩と取れば、いよいよいくさが始まる。
ふっ、と一つ、おまさは息をついた。
そして、静かに着手した。
同歩だ。
その刹那――
どん、と一つ太鼓が鳴った。
おのれが着手したから太鼓が鳴ったのか。
初めはそう思った。
しかし、違った。
もう一度、太鼓が鳴り、声が響いた。
「ご老中様、御成りにござりまする」
老中が将棋を見物しに姿を現したのだ。
七
対局場所が老中の屋敷とはいえ、かたちのうえは御城将棋だ。ただし、将棋好きと言われる老中が本当に姿を現すのかどうか、これは蓋を開けてみないと分からなかった。
その老中が現れた。
おまさは身の引き締まる思いがした。
上座は老中のために空けてあった。隣に座った帳面係の不鳴不飛が居住まいを正す。
「ほう、若いな」
対局場に入るなり、老中がおまさを見て言った。
おもむろに色合いの異なる座布団に座る。
「いくつだ」
五十がらみの老中がたずねた。
切れ者で鳴る幕閣の中枢を占める人物だ。眼光が鋭い。
「十四でございます」
おまさは答えた。
「将棋はだれに教わった」
老中が問うた。
「父でございます」
おまさは答えた。
「そうか」
と、老中。
「この構えも、父から教わりました」
おまさは盤面を手で示した。
「あまり見たことのない構えだな」
老中が身を乗り出した。
「はい」
おまさがうなずく。
「何という名の構えだ? 美濃でも矢倉でもないな」
老中があごに手をやった。
将棋に関して、なかなかの知識を有しているようだ。
「名はついておりません」
おまさは答えた。
「角の頭に歩。それを支える桂馬に金銀。さながら天空の城のごとし」
老中は腕組みをした。
「天空の城でございますか」
立会人の宗与が言った。
「そうだ。そういう名の囲いはあるか」
老中がたずねた。
宗与とはかねて見知り越しのようだ。
「いえ、ございません」
宗与はすぐさま答えた。
「ならば、天空の城囲いでよかろう。余が命名の立会人だ」
老中がおまさに向かって笑みを浮かべた。
「恐れ入りましてございます」
おまさは緊張の面持ちで頭を下げた。
「では、勝負のつづきだ。いましばし見物してまいろう」
老中が言った。
「対局の続きを」
宗与が言った。
「承知しました」
手番の宗秀が答えた。
八
指し手が進んだ。
駒がさばけ、双方の玉が薄くなってきた。
駒箱に載せた駒の数が増える。
ちなみに、当時は駒台はなく、取った相手の駒は伏せた駒箱の上に載せていた。
おまさは長考に沈んだ。
受けるか、攻めるか。
受けるにしても、駒を投入するか、はたまた玉の早逃げか。
思案を始めたらきりがない局面だった。
ここで動きがあった。
見物を続けていた老中のもとへ武家が歩み寄り、何事か耳打ちをしたのだ。
老中はうなずいた。どうやら急用ができたようだ。
「名残惜しいが、中座する。双方、励め」
老中はそう言って立ち上がった。
「はっ」
宗秀が短く答えた。
おまさは無言で一礼した。
のどが渇いて、声が出なかった。
おまさは盤面に集中した。
いくたびも読みを入れたが、そのたびに気になる筋が浮かんでくる。
これしかないという解になかなかたどり着かない。
攻める手を思案したが、どうしても切れてしまう。ここで攻めつぶしに行くのは剣呑だ。
まずは受けに回る。相手に攻めてもらい、隙を突いて反撃に転じる。勝機があるとすればそれしかない。
そう結論が出た。
では、どう受けるか。
持ち駒を使うか、早逃げか。
二つに一つだ。
おまさは砂時計を見た。
残りは乏しい。
一手十の時読みになれば、悪手も出るだろう。
早く指さねば。
おまさは焦った。
その焦りゆえに、指が動いた。
つい動いてしまった。
おまさは玉を逃がした。
早逃げだ。
だが……。
指が駒から離れた刹那、背筋を冷たいものが伝った。
汗だった。
九
指した刹那に、嫌な筋が見えた。
しかし、ひとたび動かした駒を元に戻すことはできない。
玉の早逃げに賭けたおまさだが、攻めは最大の守りとも言われる。ここは攻めるべきだった。
宗秀が一つうなずいた。
手ごたえありげな顔つきだ。
ややあって、将棋家の俊秀が着手した。
ぴしっ、と指がしなった。
おまさは気づいた。
好機を逃してしまった。
さらに受けても、一手指すごとに圧されていってしまう。
おまさの玉は守りの要でもあった。早逃げをしてしまっては、もはや陣を維持することはできない。
おまさは意を決した。
かくなるうえは、刺し違える覚悟でいくさに臨むしかない。
ここで砂時計の砂が尽きた。
いよいよ時読みだ。
「先手の砂が尽きました。これより一手十の時読みを始めます。……三、四……」
時読み係が無情に告げた。
帳面係の不鳴不飛が筆を動かす。
八まで読まれたところで、おまさは着手した。
駒が足りないかもしれないが、攻めるだけ攻めるしかない。
懸命の着手が続いた。
「……八、九」
ときには九まで読まれたところで着手する。
それは読みに入っているとばかりに、宗秀もすかさず駒を動かした。
いよいよ大詰めだ。
おまさは敵陣に必死に食いついた。
駒をふんだんに渡してしまっている。もはや受けはない。敵玉を詰ませるしか望みはなかった。
だが……。
どうしても歩が一枚足りなかった。
もう一枚、歩があれば、ぴったり詰む。
その歩がない。
万策尽きた。
「七、八……」
時読みが進む。
「負けました」
おまさは駒を投じた。
これまでの人生で最も大きな勝負。
御城将棋は、敗戦に終わった。
0
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