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1巻
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プロローグ
食われる。
まさにそんな言葉が正しい。
獰猛な肉食獣に捕まった私は、その鋭い目に縛られて、今まさに食まれようとしている。
「あぁっ、イヤッ……」
胸を揉みしだく大きな手から逃れようとするも許してもらえず、シーツを強く握りしめて体をよじった。
「イヤ? こんなに濡らしておいて?」
ショーツの中に手を滑り込ませて不敵に微笑む彼は、滴る愛液を無骨な〝男〟の指に纏わせて私の耳元でささやく。
「やっぱり、こんなことしちゃ――んっ」
その先を言えなかったのは、彼の熱い唇に口をふさがれたからだ。
「俺を煽っておいて、いまさらやめられると思っているのか?」
「でもっ……」
「気持ちよくしてやるから、力を抜け」
そんなことを言われても……
わずかに残った理性が、ダメだと叫んでいる。
首を振って抵抗するも、彼に腕をつかまれた途端、動けなくなった。
そんなに見ないで。
犯すような視線に、双丘の真ん中の尖りが硬くなっていくのがわかる。まるで触ってと主張しているようで、恥ずかしくてたまらない。
「今は全部忘れて俺に溺れろ」
その強引な言葉とは裏腹に頬に触れる指は優しくて、心臓がドクンと大きな音を立てる。
「お前はいい女だ」
甘い声でささやかれて、なぜだか泣きそうになった。
自信をすっかりなくした私にとっては、最高の褒め言葉だったのだ。
「ほんと、に?」
「ああ」
この優しさにすがりたい。なにもかも忘れて彼に溺れてしまいたい。
私はたくましい腕に包まれながら、彼とこんな関係になった経緯を頭に思い浮かべた。
鬼上司といきなり結婚⁉
「有馬、ちょっと来い」
「はい」
突然かけられた男性の声に、ビシッと背筋が伸びる。
ここは、カフェを経営する会社『ラ・フィエルテ』の本社営業部。営業部一課に勤める私、有馬早緒莉は、少々身構えながら声の主――営業部部長の柳原賢太さんに視線を送った。
「お前、なにやったの?」
隣の席の先輩、二十六歳の私より三つ年上の男性、西村さんにつっこまれる。
「なにもしてませんよ」
「でも、叱られそうな雰囲気だろ」
たしかに。『ちょっと来い』から、褒められるとは思えない。
「世界一のブレンドの生みの親は、世界一厳しいかも」
小声で話していると「有馬」と、もう一度呼ばれてしまった。
「は、はい。ただいま」
慌てて立ち上がり、少し離れた柳原さんのデスクに向かう。
顔が引きつってしまうのは、彼が鬼上司だからだ。
三十一歳になる柳原さんは、フィエルテの親会社『YBFコーポレーション』の現社長の次男にあたる。今はフィエルテの営業部部長という地位にあるが、近々フィエルテ、もしくはYBFコーポレーションの社長に就任すると噂されている、私から見れば雲の上の人物なのだ。
とはいえ、彼がその地位にいるのは決して親の七光りというわけではなく、その能力は誰もが認めている。
彼が入社する前、フィエルテは業績不振で倒産の危機にあったという。しかし柳原さんの戦略があたって、売り上げがV字回復したらしい。
カフェ業界では昨今、海外資本の会社が業績を伸ばしているが、生粋の日本法人でそれに張り合える売り上げを誇るのは我がラ・フィエルテしかない。
それを成し遂げた柳原さんは、その手腕が評価されて、あっという間に営業部部長に駆け上がったのだとか。
特に、彼がこだわり抜いて豆を配合したブレンドは、今や我が社の看板商品として君臨している。
フィエルテのブレンドは、苦みはしっかりあるのに決して飲みにくいわけではなく、甘みと酸味の調和が絶妙で、香りも抜群。私がフィエルテに就職を決めたのは、このコーヒーに惚れ込んだからだ。
入社してから、厳選した豆を使用するだけでなく、焙煎方法や挽き方、抽出時間など、気が遠くなるほどの数を試してしてようやくできあがった逸品だと知った。
まさか、そのブレンドを生みだした人の下で働けるとは思っていなかったので、配属当初は舞い上がったけれど、〝妥協〟という文字を知らない彼は、とにかく厳しかった。
そのせいで声をかけられるたびに、背筋が伸びるのだ。
緊張でカチカチになりながら柳原さんの前に立つと、彼は書類から目を上げ、鋭い眼光を私に向ける。
「こんないい加減な企画はいらない」
「いい加減?」
濃紺のスリーピースを着こなす彼が突き返してきたのは、私が新規出店を目論んで上げた企画書だ。
一課は新規出店を手がけており、店舗向けのいい物件がないか、常に情報に目を光らせている。そして、ここと思う場所があれば、すぐに企画を上げてその土地を押さえる。
今回は、とある大学の近くにあった大型雑貨店が閉店して売りに出されるという情報を聞きつけ、そこを買いつけたいがために企画書を提出したのだ。
「ひとつ成功したからといって、次もそうとは限らない。前回とは環境が違いすぎる。同じ方法で成功すると思ったら大間違いだ。この周辺は大学以外なにもないじゃないか。集客できるのか?」
彼は右の眉を少し上げて、不信感全開の表情で質問してくる。
前回私が担当したのは、とある地下鉄の駅前の店舗だ。面積は狭いが地下一階、地上二階建ての店を作り、大成功。混雑時は行列ができる店になっている。
「もちろん、わかっています。今回はその大学の学生がターゲットです。マンモス校ですので、この校舎だけでも一万五千人ほどの学生が在籍しています。学生のみをターゲットにしても十分採算は取れると踏んでいます」
決して適当な提案をしているわけではない。きちんと下調べをして企画書を書いているので、堂々と主張した。
すると彼は、切れ長の目で私をじっと見つめた。
軽くパーマがかかっている柔らかそうな髪は清潔感あふれていてさわやかさ全開だが、長めの前髪から覗く目は鋭く、ロックオンされると動けなくなる。
眉目秀麗という言葉がふさわしく、御曹司という最高の条件までのっている彼には、女子社員のあこがれの眼差しが常に注がれている。しかし、とんでもなく厳しいのが玉に瑕。
道ですれ違ったら目で追ってしまうような人なのに、今は視線をそらしたくてたまらない。
「な、なんでしょう」
沈黙が苦しくて口を開くと、柳原さんはニヤリと笑う。彼がこういう笑い方をするときは、なにか裏がある。
「一万五千ねぇ。キャンパスが大きいから、学生が使う鉄道の駅はふたつある。有馬が出店したい場所はそのうちのひとつの近くだが、こちらを使用する学生は三分の一ほど。つまり一万五千ではなく、多くても五千の間違いだ」
最寄り駅がふたつあるのは承知していた。でも、二分の一じゃなくて?
朝の登校時に実際に駅に行ってみて、そちらの駅の出口から出てくる学生らしき人の数を地道に数えたりもした。もちろん毎日授業がない生徒もいるし、一時間目から登校するとは限らない。当然、電車を使わない生徒もいる。それでもその日は二時間ほどの調査で二千人近くをカウントしたので、いけると踏んだのだ。
「えっと、それは……」
どこ情報?
「大学の構内図、見たことがあるか?」
「いえ……」
構内図なんて関係あるの?
首をひねっていると、彼は厳しい表情でプリントアウトされた構内図を私の前に差し出した。大きな大学なので、さすがに校舎も多い。
「主に授業が行われる校舎はこの周辺に集まっている。こちらはグラウンドと部活の部室などが多い」
「あ……」
私が出店を目論んでいた場所は、グラウンド側だ。
「そしてグラウンドの横は理工学部の実験棟。実験があるときにしか使われない。学食などが入っていて、学生が集まる管理棟は反対側。構内を端から端まで歩くと、二十分はかかる」
そうか。敷地は両駅方面にまたがっていても、普段授業を受ける際に便利なのは、もうひとつの駅なんだ。
こんなこと、考えもしなかった。
「一日あたりの駅の利用者数を調べたか?」
「いえ。自分の目で確かめたほうがいいと思ったので……」
駅を利用するのは学生だけではないので、利用者数だけでは正確なところはわからないと思い、実際に足を運んで調べた。それで大丈夫だと確信したのだ。
「有馬が調査に行ったのは、いつだ?」
「一月二十三日です」
忘れもしない。あの日は雪がはらはら舞っていて、体が冷えたせいか翌日熱を出してしまった。
「一月二十日が大学の創立記念日だ。そのため、その前後に特別授業が組まれている。二十三日はノーベル賞を受賞した名誉教授の公演があったのだが……」
「嘘……」
それでいつもより人が多かったの?
そこまで調査していなかった私は、すーっと血の気が引いていくのを感じた。もし知らずに意気揚々と出店していたら大失敗していたかもしれない。
「それと」
彼はさらに別の資料を私に提示する。
「これは……?」
「今の管理棟の隣に建設中の新しい管理棟の概要だ。ここに入居するカフェを外部から募集するようだ。大学の生徒を狙うなら、断然こちらだな」
その資料は、大学構内に作る新たなカフェに関する資料だった。
建築科を持つその大学が、学内コンペで学生から案を募って新しい管理棟を造っているのは知っていた。その中に安く食べられる学食のスペースを作ることも。ただ、カフェは初耳だ。
「どうしてご存じなんですか?」
その書類をよく見ると、六日後の月曜の日付になっている。
「カフェらしきものを作る予定なのは、設計図と外観図を見ればわかる。あとは直接大学に聞いたら、もうすぐ募集をかけると教えてくれた」
設計図……。コンペの受賞作なので、おそらく誰でも見られる形でどこかに掲載されているのだろう。そこから予測して先手を打つとは。あんぐり口を開けるしかない。
「すみません。調査不足でした」
「そうだな。業績の足を引っ張られては困る」
うわ、そんなにズバリ言わなくても。少しくらい言葉をオブラートに包んでくれてもいいのに。
「で?」
あきれたような声を出す彼は、万年筆でデスクをトントンと叩いている。間違いなく不機嫌だ。
「はいっ?」
『で』ってなに?
「これ、有馬がやるか? 数字を上げる自信がないなら、別の者にやらせるが」
彼が浮かべるかすかな笑みが、失態を指摘されてショックを受けている私の心にじわじわ痛みをもたらしてくる。コテンパンに叩きのめされたあとに、この余裕を見せつけられるのはつらい。自分の力のなさをより実感してしまうからだ。
けれども、こんなふうに言われて、引き下がるわけにはいかない。
「やらせていただきます」
反発心と悔しさをぐっとこらえて、そう答えた。
「お手並み拝見といくか。当然外資も狙ってくるだろうが、有馬なら落とせるだろ」
「当然です」
しまった。乗せられて大口を叩いてしまった。でもあとには引けない。もちろん落とすつもりで取りかかる。
「それじゃ、よろしく」
「はい」
内心冷や汗たらたらになりながら、笑顔で返事をしてデスクに戻った。
「なんだった?」
「例の大学前、却下でした」
「マジか」
調査に協力してくれた西村さんが、眉をひそめる。
「これ……」
柳原さんに渡された構内カフェの出店に関する書類を渡すと、西村さんはざっと目を通し、「出店したら危ないところだった」とつぶやいた。
「そうですね。助けられました」
「でもこれ、なんで柳原さんが知ってるんだ?」
設計図からカフェの新設を予測したらしいことを話すと、西村さんは目を点にしている。
私と同じ反応だ。
「我らがボスは恐ろしいな」
「味方でよかったです」
ライバル社にいたらと思うとぞっとする。
「それで、有馬がやるの?」
「はい。今度こそ柳原さんをギャフンと言わせます!」
数々の成功例はあれども、柳原さんに助言を受けたものばかりなのだけど。
「おお、頑張れ」
柳原さんは誰もが認める有能な上司だが、部下の仕事にいちいち口を挟むようなことはなく、ある程度自由にやらせてくれる。しかし、今回のように肝心なところはしっかり手綱を締めてくるのだ。ある意味、私は前を向いてひた走る馬だ。暴走しそうになると、柳原さんに止められる。
気合を入れるために胸のあたりまであるストレートの髪をひとつに束ねて、書類を再び手にした。
いつも危ういところで手綱を締められているのに、柳原さんをギャフンと言わせられる日が来るのだろうか。
「はぁ、私は馬か……」
「なんか言った?」
「なんでもないです」
西村さんにひとり言を拾われた私は、慌てて書類を読み始めた。
「どうしよう、これ……」
柳原さんから書類を受け取り、はや五時間。時計の針は二十時を指そうとしている。気がつけば残っているのは私だけになっていた。
大学構内のカフェ出店のために企画書を作っていたのだが、ありきたりすぎてライバル会社に勝てる気がしない。絶対に落とすと柳原さんに啖呵を切ったくせして、なにをアピールしたらいいのかわからないのだ。
正直、最近伸びてきたフィエルテよりも、外資系のカフェのほうが知名度が高く、学生の間にもその名が知られている。期間限定の新商品が出るたびに売り切れになる他社と戦うにはそれなりの武器がいるのだが、なにを武器に据えたらいいのかわからない。
うちはコーヒー豆にこだわりがあり、味には自信を持っている。〝フィエルテ〟とはフランス語で〝誇り〟という意味であり、その名に恥じないブレンドコーヒーを出しているとは思う。けれど、豆の違いをアピールしても弱い気がするのだ。学生にそこまでのこだわりがあるようには思えない。
それに、店内も外資系のカフェに比べると落ち着いていて地味な印象があり、どうしても話題性に欠ける。そのせいか〝カフェに行こう〟となったときに選ばれづらい。
私は落ち着いているところが気に入っているのだけれど……
今回、大学近くに店舗を出そうと考えたのは、大学生にもフィエルテの名を浸透させたいという想いがあったからだ。この店舗をきっかけに若い層へのアピールを、と考えた。
しかし、出店が大学構内と決まっており、なおかつ他社と競合して、となると簡単ではない。
構内ならば、客はほぼ大学生だ。もちろん、学食もカフェも外部の利用者が訪れるケースはあるが、割合から言ってごく少数だろう。
「うーん」
私はカフェの外観予定図をもう一度見直した。
名高い建築科で行われたコンペだけのことはあり、学生の案であっても完成度が高い。白レンガの壁に深緑のドアや窓枠が印象的で、まるでパリの小径を歩いているかのような錯覚を起こしそうなほどおしゃれ。ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。かと思えば、二階は一転、窓が大きく開放的なスペースになっていて、実に現代的だ。
この空間でフィエルテのコーヒーを飲めたら素敵だな。
妄想は膨らむばかりだが、問題はなにも解決していない。
学生相手になにをアピールすべきなのだろう。
行き詰まった私は、デスクの上に置いておいたスマホに手を伸ばした。
「来てないか……」
画面を見て、ふぅ、とため息が出てしまうのは、彼氏の雄司に送った週末デートのお誘いへの返事が一向にないからだ。最近、雄司とは少し距離を感じていて、ついスマホをチェックしてはへこんでいる。
もう一度メッセージを送信しようか迷ったけれど、できなかった。また既読スルーされたらと思うと怖い。
「まだ終わらないのか?」
「えっ!」
誰もいないと思っていたオフィスで突然話しかけられて、イスから転げ落ちそうになるほど驚いた。
「お前、反応よすぎだろ」
あきれ顔で近づいてくるのは柳原さんだ。私は慌ててスマホの電源を落としてデスクの上に戻す。
「もうお帰りになったのかと。どちらにいらっしゃったんですか?」
「どちらって、自分の席だけど? お前、没頭すると周りが見えなくなるタイプだな」
柳原さんのデスクは私の後方にあるので、振り向かなければ姿は確認できない。ただ、気配すらしなかった……と思ったけれど、私が没頭していただけか。
「帰るつもりだったが、仕事が終わる気配のない部下がひとりいてね」
「あ、すみません。お待たせしました?」
「まあ、俺がやれと命じたのだから、それなりに責任はあるし」
柳原さんは私の隣の席に座り、カフェの外観予定図を手に取った。
「ポンコツですみません……」
企画書くらいさっさと作れとお小言を食らう前に、謝っておく。
「なに予防線張ってるんだ? 俺にポンコツと言われたいのか?」
「言われたくないから謝ってるんです」
思わず本音をこぼした。
常日頃から厳しい柳原さんだが、特に叱るときの冷めた表情は震えあがるほど怖い。声を荒らげるでもなく淡々と間違いを指摘される時間は、エンマさまの前で断罪されるときのよう。直接的な言葉はなくとも「お前は無能だ」とじわじわ責められているかのようで、たとえ短時間でもへとへとになるのだ。
「まあ、ポンコツだな」
小さなため息とともに吐き出された言葉に、冷や汗が出る。
ああ、この強烈なひと言は胸に刺さってしばらく抜けないかも。先手を打ってみたが、結果は同じだった。いや、むしろ墓穴を掘った気さえする。
「だが、有馬が大学前に出店しようとしたのは、フィエルテの未来を考えてのことだろう?」
彼は外観予定図をデスクに戻して言った。
「未来と言うと、大げさすぎますけど……」
たしかに、現状の一歩先は考えていた。大人に人気のカフェという地位は得られてきているが、もっと若い層にも広げたいと思っての行動だったからだ。
「いや、結果的にそうだろう。フィエルテは若年層に弱い。皆それを知っているが、あえてそこに切り込もうとする者はいない。失敗する可能性が高いからだ」
失敗という言葉を聞いて背筋が伸びる。
この大学構内のカフェも、そうなる可能性がある。フィエルテがカフェ経営の権利を手にしても、うまくいくとは限らない。でも、成功させなければならない。
「若年層の攻略が課題だとわかっていても、他の誰かがやってくれると思っているヤツばかりだ。ただひとり、無謀にチャレンジし続ける社員を除いてね」
無謀と聞こえたような。もちろん、私のことだよね。
「無謀ですみません」
「へぇ、認めるのか」
まさか、またじわじわ叱られるパターン?
「自信がないのかと思ってたけど、あるんだな」
「自信?」
どういう意味?
「俺、一応褒めたんだけど。今のフィエルテに必要なのは、有馬みたいに未来を見据えて動ける人間だ。今までと同じことしかできなければ、いつか頭打ちになる」
「褒めたんですか? それじゃあ、無謀はいらなくないですか?」
そこだけが強烈に刷り込まれて、褒められた気がしなかった。
「いるだろ。実際、無謀なんだから」
彼はデスクに頬杖をついて、冷たく言い捨てる。
褒めているのなら、少しくらい笑ってほしい。
「大学の件は時間をかけよう。フィエルテの新しい第一歩になるかもしれないんだ。必ず成功させて、フィエルテを誰からも認めさせる」
柳原さんの強い宣言に、空気がピリッと引き締まった。
こうして毎日叱られてばかりで怖いのに、近い将来、彼がトップに立ったらフィエルテはますます発展していくんだろうなと素直に思える。
彼の指摘は厳しいけれど的確で、反論の余地がない。新規出店を担当する一課だけでなく、既存店を回りフォローをしている二課もまとめていて、とてつもない仕事量だろう。それなのに、いつなにを尋ねてもすぐさま答えが返ってくる。しかも、内情をよく知っていないと出てこないような言葉ばかりで、隅々まで目が行き届いているんだなと、部下ながらに感心しているのだ。
でも……もしかしたらフィエルテを出てしまうかもしれない。
親会社であるYBFコーポレーションの現社長――彼のお父さまには三人の息子がいる。長男は同じくYBFコーポレーション傘下の食品輸入会社、三男も同じく傘下のレストラン経営に携わっており、三人とも近々それぞれの会社のトップに立つと予想されている。
しかもこのうちひとりは、おそらくYBFコーポレーションの社長に就任するため、社内ではそれが誰になるのだろうといつも噂話が飛んでいるのだ。
一番有力なのは長男、学さん。三社の中では食品輸入会社が群を抜いた成績を残しており、今は専務として働いている。なんといっても長男であることから、ほぼ確定路線だともささやかれている。
三男の誠さんは堅実派と噂される。彼はレストランの運営会社で店舗開発本部長として活躍中だ。派手な改革はしたがらないようだが、市場の見極めがうまいらしく、新規出店や他社の買収などに能力を発揮しているとか。
そして、長きにわたり業績不振だったラ・フィエルテを任された次男の柳原さんは、貧乏くじを引かされたなんて陰口を叩かれていたそうだ。たしかにいまだ三社の中では売り上げは一番少ないが、成長率は高い。彼が『フィエルテを誰からも認めさせる』と力強く宣言したのは、他の二社を意識してのことに違いない。
そんな柳原さんを近くで見ていると、十分親会社のトップが務まりそうだなと思うのだけど、他のふたりをよく知らないのでなんとも言えない。彼より有能だったら、三兄弟のレベルの高さは凡人では想像できないほどなのだろう。
まあ、社長のイス争いなんて、私には関係がないのだけれど。
「今日はもう帰れ」
「そうですね。お待たせしてすみません」
どうやら、私が残っているせいで帰れなかったようだし。
「かなり待たされたな。だから車に乗っていけ」
柳原さんらしい皮肉めいた言い方だったが、意外にも親切な提案だ。
「でも、彼女さん怒りません?」
尋ねると、彼は一瞬眉を上げたあと私に冷たい視線を注ぐ。
訊いたらまずかった?
「なるほど。自分には俺の女を怒らせるくらいの魅力があると言いたいんだな」
「ち、違いますよ!」
食われる。
まさにそんな言葉が正しい。
獰猛な肉食獣に捕まった私は、その鋭い目に縛られて、今まさに食まれようとしている。
「あぁっ、イヤッ……」
胸を揉みしだく大きな手から逃れようとするも許してもらえず、シーツを強く握りしめて体をよじった。
「イヤ? こんなに濡らしておいて?」
ショーツの中に手を滑り込ませて不敵に微笑む彼は、滴る愛液を無骨な〝男〟の指に纏わせて私の耳元でささやく。
「やっぱり、こんなことしちゃ――んっ」
その先を言えなかったのは、彼の熱い唇に口をふさがれたからだ。
「俺を煽っておいて、いまさらやめられると思っているのか?」
「でもっ……」
「気持ちよくしてやるから、力を抜け」
そんなことを言われても……
わずかに残った理性が、ダメだと叫んでいる。
首を振って抵抗するも、彼に腕をつかまれた途端、動けなくなった。
そんなに見ないで。
犯すような視線に、双丘の真ん中の尖りが硬くなっていくのがわかる。まるで触ってと主張しているようで、恥ずかしくてたまらない。
「今は全部忘れて俺に溺れろ」
その強引な言葉とは裏腹に頬に触れる指は優しくて、心臓がドクンと大きな音を立てる。
「お前はいい女だ」
甘い声でささやかれて、なぜだか泣きそうになった。
自信をすっかりなくした私にとっては、最高の褒め言葉だったのだ。
「ほんと、に?」
「ああ」
この優しさにすがりたい。なにもかも忘れて彼に溺れてしまいたい。
私はたくましい腕に包まれながら、彼とこんな関係になった経緯を頭に思い浮かべた。
鬼上司といきなり結婚⁉
「有馬、ちょっと来い」
「はい」
突然かけられた男性の声に、ビシッと背筋が伸びる。
ここは、カフェを経営する会社『ラ・フィエルテ』の本社営業部。営業部一課に勤める私、有馬早緒莉は、少々身構えながら声の主――営業部部長の柳原賢太さんに視線を送った。
「お前、なにやったの?」
隣の席の先輩、二十六歳の私より三つ年上の男性、西村さんにつっこまれる。
「なにもしてませんよ」
「でも、叱られそうな雰囲気だろ」
たしかに。『ちょっと来い』から、褒められるとは思えない。
「世界一のブレンドの生みの親は、世界一厳しいかも」
小声で話していると「有馬」と、もう一度呼ばれてしまった。
「は、はい。ただいま」
慌てて立ち上がり、少し離れた柳原さんのデスクに向かう。
顔が引きつってしまうのは、彼が鬼上司だからだ。
三十一歳になる柳原さんは、フィエルテの親会社『YBFコーポレーション』の現社長の次男にあたる。今はフィエルテの営業部部長という地位にあるが、近々フィエルテ、もしくはYBFコーポレーションの社長に就任すると噂されている、私から見れば雲の上の人物なのだ。
とはいえ、彼がその地位にいるのは決して親の七光りというわけではなく、その能力は誰もが認めている。
彼が入社する前、フィエルテは業績不振で倒産の危機にあったという。しかし柳原さんの戦略があたって、売り上げがV字回復したらしい。
カフェ業界では昨今、海外資本の会社が業績を伸ばしているが、生粋の日本法人でそれに張り合える売り上げを誇るのは我がラ・フィエルテしかない。
それを成し遂げた柳原さんは、その手腕が評価されて、あっという間に営業部部長に駆け上がったのだとか。
特に、彼がこだわり抜いて豆を配合したブレンドは、今や我が社の看板商品として君臨している。
フィエルテのブレンドは、苦みはしっかりあるのに決して飲みにくいわけではなく、甘みと酸味の調和が絶妙で、香りも抜群。私がフィエルテに就職を決めたのは、このコーヒーに惚れ込んだからだ。
入社してから、厳選した豆を使用するだけでなく、焙煎方法や挽き方、抽出時間など、気が遠くなるほどの数を試してしてようやくできあがった逸品だと知った。
まさか、そのブレンドを生みだした人の下で働けるとは思っていなかったので、配属当初は舞い上がったけれど、〝妥協〟という文字を知らない彼は、とにかく厳しかった。
そのせいで声をかけられるたびに、背筋が伸びるのだ。
緊張でカチカチになりながら柳原さんの前に立つと、彼は書類から目を上げ、鋭い眼光を私に向ける。
「こんないい加減な企画はいらない」
「いい加減?」
濃紺のスリーピースを着こなす彼が突き返してきたのは、私が新規出店を目論んで上げた企画書だ。
一課は新規出店を手がけており、店舗向けのいい物件がないか、常に情報に目を光らせている。そして、ここと思う場所があれば、すぐに企画を上げてその土地を押さえる。
今回は、とある大学の近くにあった大型雑貨店が閉店して売りに出されるという情報を聞きつけ、そこを買いつけたいがために企画書を提出したのだ。
「ひとつ成功したからといって、次もそうとは限らない。前回とは環境が違いすぎる。同じ方法で成功すると思ったら大間違いだ。この周辺は大学以外なにもないじゃないか。集客できるのか?」
彼は右の眉を少し上げて、不信感全開の表情で質問してくる。
前回私が担当したのは、とある地下鉄の駅前の店舗だ。面積は狭いが地下一階、地上二階建ての店を作り、大成功。混雑時は行列ができる店になっている。
「もちろん、わかっています。今回はその大学の学生がターゲットです。マンモス校ですので、この校舎だけでも一万五千人ほどの学生が在籍しています。学生のみをターゲットにしても十分採算は取れると踏んでいます」
決して適当な提案をしているわけではない。きちんと下調べをして企画書を書いているので、堂々と主張した。
すると彼は、切れ長の目で私をじっと見つめた。
軽くパーマがかかっている柔らかそうな髪は清潔感あふれていてさわやかさ全開だが、長めの前髪から覗く目は鋭く、ロックオンされると動けなくなる。
眉目秀麗という言葉がふさわしく、御曹司という最高の条件までのっている彼には、女子社員のあこがれの眼差しが常に注がれている。しかし、とんでもなく厳しいのが玉に瑕。
道ですれ違ったら目で追ってしまうような人なのに、今は視線をそらしたくてたまらない。
「な、なんでしょう」
沈黙が苦しくて口を開くと、柳原さんはニヤリと笑う。彼がこういう笑い方をするときは、なにか裏がある。
「一万五千ねぇ。キャンパスが大きいから、学生が使う鉄道の駅はふたつある。有馬が出店したい場所はそのうちのひとつの近くだが、こちらを使用する学生は三分の一ほど。つまり一万五千ではなく、多くても五千の間違いだ」
最寄り駅がふたつあるのは承知していた。でも、二分の一じゃなくて?
朝の登校時に実際に駅に行ってみて、そちらの駅の出口から出てくる学生らしき人の数を地道に数えたりもした。もちろん毎日授業がない生徒もいるし、一時間目から登校するとは限らない。当然、電車を使わない生徒もいる。それでもその日は二時間ほどの調査で二千人近くをカウントしたので、いけると踏んだのだ。
「えっと、それは……」
どこ情報?
「大学の構内図、見たことがあるか?」
「いえ……」
構内図なんて関係あるの?
首をひねっていると、彼は厳しい表情でプリントアウトされた構内図を私の前に差し出した。大きな大学なので、さすがに校舎も多い。
「主に授業が行われる校舎はこの周辺に集まっている。こちらはグラウンドと部活の部室などが多い」
「あ……」
私が出店を目論んでいた場所は、グラウンド側だ。
「そしてグラウンドの横は理工学部の実験棟。実験があるときにしか使われない。学食などが入っていて、学生が集まる管理棟は反対側。構内を端から端まで歩くと、二十分はかかる」
そうか。敷地は両駅方面にまたがっていても、普段授業を受ける際に便利なのは、もうひとつの駅なんだ。
こんなこと、考えもしなかった。
「一日あたりの駅の利用者数を調べたか?」
「いえ。自分の目で確かめたほうがいいと思ったので……」
駅を利用するのは学生だけではないので、利用者数だけでは正確なところはわからないと思い、実際に足を運んで調べた。それで大丈夫だと確信したのだ。
「有馬が調査に行ったのは、いつだ?」
「一月二十三日です」
忘れもしない。あの日は雪がはらはら舞っていて、体が冷えたせいか翌日熱を出してしまった。
「一月二十日が大学の創立記念日だ。そのため、その前後に特別授業が組まれている。二十三日はノーベル賞を受賞した名誉教授の公演があったのだが……」
「嘘……」
それでいつもより人が多かったの?
そこまで調査していなかった私は、すーっと血の気が引いていくのを感じた。もし知らずに意気揚々と出店していたら大失敗していたかもしれない。
「それと」
彼はさらに別の資料を私に提示する。
「これは……?」
「今の管理棟の隣に建設中の新しい管理棟の概要だ。ここに入居するカフェを外部から募集するようだ。大学の生徒を狙うなら、断然こちらだな」
その資料は、大学構内に作る新たなカフェに関する資料だった。
建築科を持つその大学が、学内コンペで学生から案を募って新しい管理棟を造っているのは知っていた。その中に安く食べられる学食のスペースを作ることも。ただ、カフェは初耳だ。
「どうしてご存じなんですか?」
その書類をよく見ると、六日後の月曜の日付になっている。
「カフェらしきものを作る予定なのは、設計図と外観図を見ればわかる。あとは直接大学に聞いたら、もうすぐ募集をかけると教えてくれた」
設計図……。コンペの受賞作なので、おそらく誰でも見られる形でどこかに掲載されているのだろう。そこから予測して先手を打つとは。あんぐり口を開けるしかない。
「すみません。調査不足でした」
「そうだな。業績の足を引っ張られては困る」
うわ、そんなにズバリ言わなくても。少しくらい言葉をオブラートに包んでくれてもいいのに。
「で?」
あきれたような声を出す彼は、万年筆でデスクをトントンと叩いている。間違いなく不機嫌だ。
「はいっ?」
『で』ってなに?
「これ、有馬がやるか? 数字を上げる自信がないなら、別の者にやらせるが」
彼が浮かべるかすかな笑みが、失態を指摘されてショックを受けている私の心にじわじわ痛みをもたらしてくる。コテンパンに叩きのめされたあとに、この余裕を見せつけられるのはつらい。自分の力のなさをより実感してしまうからだ。
けれども、こんなふうに言われて、引き下がるわけにはいかない。
「やらせていただきます」
反発心と悔しさをぐっとこらえて、そう答えた。
「お手並み拝見といくか。当然外資も狙ってくるだろうが、有馬なら落とせるだろ」
「当然です」
しまった。乗せられて大口を叩いてしまった。でもあとには引けない。もちろん落とすつもりで取りかかる。
「それじゃ、よろしく」
「はい」
内心冷や汗たらたらになりながら、笑顔で返事をしてデスクに戻った。
「なんだった?」
「例の大学前、却下でした」
「マジか」
調査に協力してくれた西村さんが、眉をひそめる。
「これ……」
柳原さんに渡された構内カフェの出店に関する書類を渡すと、西村さんはざっと目を通し、「出店したら危ないところだった」とつぶやいた。
「そうですね。助けられました」
「でもこれ、なんで柳原さんが知ってるんだ?」
設計図からカフェの新設を予測したらしいことを話すと、西村さんは目を点にしている。
私と同じ反応だ。
「我らがボスは恐ろしいな」
「味方でよかったです」
ライバル社にいたらと思うとぞっとする。
「それで、有馬がやるの?」
「はい。今度こそ柳原さんをギャフンと言わせます!」
数々の成功例はあれども、柳原さんに助言を受けたものばかりなのだけど。
「おお、頑張れ」
柳原さんは誰もが認める有能な上司だが、部下の仕事にいちいち口を挟むようなことはなく、ある程度自由にやらせてくれる。しかし、今回のように肝心なところはしっかり手綱を締めてくるのだ。ある意味、私は前を向いてひた走る馬だ。暴走しそうになると、柳原さんに止められる。
気合を入れるために胸のあたりまであるストレートの髪をひとつに束ねて、書類を再び手にした。
いつも危ういところで手綱を締められているのに、柳原さんをギャフンと言わせられる日が来るのだろうか。
「はぁ、私は馬か……」
「なんか言った?」
「なんでもないです」
西村さんにひとり言を拾われた私は、慌てて書類を読み始めた。
「どうしよう、これ……」
柳原さんから書類を受け取り、はや五時間。時計の針は二十時を指そうとしている。気がつけば残っているのは私だけになっていた。
大学構内のカフェ出店のために企画書を作っていたのだが、ありきたりすぎてライバル会社に勝てる気がしない。絶対に落とすと柳原さんに啖呵を切ったくせして、なにをアピールしたらいいのかわからないのだ。
正直、最近伸びてきたフィエルテよりも、外資系のカフェのほうが知名度が高く、学生の間にもその名が知られている。期間限定の新商品が出るたびに売り切れになる他社と戦うにはそれなりの武器がいるのだが、なにを武器に据えたらいいのかわからない。
うちはコーヒー豆にこだわりがあり、味には自信を持っている。〝フィエルテ〟とはフランス語で〝誇り〟という意味であり、その名に恥じないブレンドコーヒーを出しているとは思う。けれど、豆の違いをアピールしても弱い気がするのだ。学生にそこまでのこだわりがあるようには思えない。
それに、店内も外資系のカフェに比べると落ち着いていて地味な印象があり、どうしても話題性に欠ける。そのせいか〝カフェに行こう〟となったときに選ばれづらい。
私は落ち着いているところが気に入っているのだけれど……
今回、大学近くに店舗を出そうと考えたのは、大学生にもフィエルテの名を浸透させたいという想いがあったからだ。この店舗をきっかけに若い層へのアピールを、と考えた。
しかし、出店が大学構内と決まっており、なおかつ他社と競合して、となると簡単ではない。
構内ならば、客はほぼ大学生だ。もちろん、学食もカフェも外部の利用者が訪れるケースはあるが、割合から言ってごく少数だろう。
「うーん」
私はカフェの外観予定図をもう一度見直した。
名高い建築科で行われたコンペだけのことはあり、学生の案であっても完成度が高い。白レンガの壁に深緑のドアや窓枠が印象的で、まるでパリの小径を歩いているかのような錯覚を起こしそうなほどおしゃれ。ノスタルジックな雰囲気を醸し出している。かと思えば、二階は一転、窓が大きく開放的なスペースになっていて、実に現代的だ。
この空間でフィエルテのコーヒーを飲めたら素敵だな。
妄想は膨らむばかりだが、問題はなにも解決していない。
学生相手になにをアピールすべきなのだろう。
行き詰まった私は、デスクの上に置いておいたスマホに手を伸ばした。
「来てないか……」
画面を見て、ふぅ、とため息が出てしまうのは、彼氏の雄司に送った週末デートのお誘いへの返事が一向にないからだ。最近、雄司とは少し距離を感じていて、ついスマホをチェックしてはへこんでいる。
もう一度メッセージを送信しようか迷ったけれど、できなかった。また既読スルーされたらと思うと怖い。
「まだ終わらないのか?」
「えっ!」
誰もいないと思っていたオフィスで突然話しかけられて、イスから転げ落ちそうになるほど驚いた。
「お前、反応よすぎだろ」
あきれ顔で近づいてくるのは柳原さんだ。私は慌ててスマホの電源を落としてデスクの上に戻す。
「もうお帰りになったのかと。どちらにいらっしゃったんですか?」
「どちらって、自分の席だけど? お前、没頭すると周りが見えなくなるタイプだな」
柳原さんのデスクは私の後方にあるので、振り向かなければ姿は確認できない。ただ、気配すらしなかった……と思ったけれど、私が没頭していただけか。
「帰るつもりだったが、仕事が終わる気配のない部下がひとりいてね」
「あ、すみません。お待たせしました?」
「まあ、俺がやれと命じたのだから、それなりに責任はあるし」
柳原さんは私の隣の席に座り、カフェの外観予定図を手に取った。
「ポンコツですみません……」
企画書くらいさっさと作れとお小言を食らう前に、謝っておく。
「なに予防線張ってるんだ? 俺にポンコツと言われたいのか?」
「言われたくないから謝ってるんです」
思わず本音をこぼした。
常日頃から厳しい柳原さんだが、特に叱るときの冷めた表情は震えあがるほど怖い。声を荒らげるでもなく淡々と間違いを指摘される時間は、エンマさまの前で断罪されるときのよう。直接的な言葉はなくとも「お前は無能だ」とじわじわ責められているかのようで、たとえ短時間でもへとへとになるのだ。
「まあ、ポンコツだな」
小さなため息とともに吐き出された言葉に、冷や汗が出る。
ああ、この強烈なひと言は胸に刺さってしばらく抜けないかも。先手を打ってみたが、結果は同じだった。いや、むしろ墓穴を掘った気さえする。
「だが、有馬が大学前に出店しようとしたのは、フィエルテの未来を考えてのことだろう?」
彼は外観予定図をデスクに戻して言った。
「未来と言うと、大げさすぎますけど……」
たしかに、現状の一歩先は考えていた。大人に人気のカフェという地位は得られてきているが、もっと若い層にも広げたいと思っての行動だったからだ。
「いや、結果的にそうだろう。フィエルテは若年層に弱い。皆それを知っているが、あえてそこに切り込もうとする者はいない。失敗する可能性が高いからだ」
失敗という言葉を聞いて背筋が伸びる。
この大学構内のカフェも、そうなる可能性がある。フィエルテがカフェ経営の権利を手にしても、うまくいくとは限らない。でも、成功させなければならない。
「若年層の攻略が課題だとわかっていても、他の誰かがやってくれると思っているヤツばかりだ。ただひとり、無謀にチャレンジし続ける社員を除いてね」
無謀と聞こえたような。もちろん、私のことだよね。
「無謀ですみません」
「へぇ、認めるのか」
まさか、またじわじわ叱られるパターン?
「自信がないのかと思ってたけど、あるんだな」
「自信?」
どういう意味?
「俺、一応褒めたんだけど。今のフィエルテに必要なのは、有馬みたいに未来を見据えて動ける人間だ。今までと同じことしかできなければ、いつか頭打ちになる」
「褒めたんですか? それじゃあ、無謀はいらなくないですか?」
そこだけが強烈に刷り込まれて、褒められた気がしなかった。
「いるだろ。実際、無謀なんだから」
彼はデスクに頬杖をついて、冷たく言い捨てる。
褒めているのなら、少しくらい笑ってほしい。
「大学の件は時間をかけよう。フィエルテの新しい第一歩になるかもしれないんだ。必ず成功させて、フィエルテを誰からも認めさせる」
柳原さんの強い宣言に、空気がピリッと引き締まった。
こうして毎日叱られてばかりで怖いのに、近い将来、彼がトップに立ったらフィエルテはますます発展していくんだろうなと素直に思える。
彼の指摘は厳しいけれど的確で、反論の余地がない。新規出店を担当する一課だけでなく、既存店を回りフォローをしている二課もまとめていて、とてつもない仕事量だろう。それなのに、いつなにを尋ねてもすぐさま答えが返ってくる。しかも、内情をよく知っていないと出てこないような言葉ばかりで、隅々まで目が行き届いているんだなと、部下ながらに感心しているのだ。
でも……もしかしたらフィエルテを出てしまうかもしれない。
親会社であるYBFコーポレーションの現社長――彼のお父さまには三人の息子がいる。長男は同じくYBFコーポレーション傘下の食品輸入会社、三男も同じく傘下のレストラン経営に携わっており、三人とも近々それぞれの会社のトップに立つと予想されている。
しかもこのうちひとりは、おそらくYBFコーポレーションの社長に就任するため、社内ではそれが誰になるのだろうといつも噂話が飛んでいるのだ。
一番有力なのは長男、学さん。三社の中では食品輸入会社が群を抜いた成績を残しており、今は専務として働いている。なんといっても長男であることから、ほぼ確定路線だともささやかれている。
三男の誠さんは堅実派と噂される。彼はレストランの運営会社で店舗開発本部長として活躍中だ。派手な改革はしたがらないようだが、市場の見極めがうまいらしく、新規出店や他社の買収などに能力を発揮しているとか。
そして、長きにわたり業績不振だったラ・フィエルテを任された次男の柳原さんは、貧乏くじを引かされたなんて陰口を叩かれていたそうだ。たしかにいまだ三社の中では売り上げは一番少ないが、成長率は高い。彼が『フィエルテを誰からも認めさせる』と力強く宣言したのは、他の二社を意識してのことに違いない。
そんな柳原さんを近くで見ていると、十分親会社のトップが務まりそうだなと思うのだけど、他のふたりをよく知らないのでなんとも言えない。彼より有能だったら、三兄弟のレベルの高さは凡人では想像できないほどなのだろう。
まあ、社長のイス争いなんて、私には関係がないのだけれど。
「今日はもう帰れ」
「そうですね。お待たせしてすみません」
どうやら、私が残っているせいで帰れなかったようだし。
「かなり待たされたな。だから車に乗っていけ」
柳原さんらしい皮肉めいた言い方だったが、意外にも親切な提案だ。
「でも、彼女さん怒りません?」
尋ねると、彼は一瞬眉を上げたあと私に冷たい視線を注ぐ。
訊いたらまずかった?
「なるほど。自分には俺の女を怒らせるくらいの魅力があると言いたいんだな」
「ち、違いますよ!」
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