新妻初夜 冷徹旦那様にとろとろに愛されてます

佐倉伊織

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1巻

1-2

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 焦って返すと「なら、乗ってけ」と決められてしまう。
 彼氏の雄司からメッセージの返事すらもらえない自分に魅力があるとは言い難いが、柳原さんの彼女が嫉妬すらしないほど女として見てもらえないのも複雑だ。いや、彼女ができた人なのかもしれない。
 地下駐車場で黒の高級車に乗せてもらうまで、そんなことばかり悶々と考えていた。

「さっきからなに百面相してるんだ」

 車を発進させた柳原さんは、巧みにハンドルを操りながら口を開く。

「柳原さんの彼女さん、器の大きい方だなと思って」

 正直に答えると、彼は小さなため息を落とした。

「お前、その妄想癖なんとかしろ。今、付き合っている女はいない」
「え? 彼女、いないんですか⁉」

 意外すぎて、正直な声が漏れてしまった。
 柳原さんともあろう人が? 別れても翌日、別の女性を連れて歩いていそうなイメージなのに。

「ちょっと失礼じゃないか?」
「すみません。意外だったんです。とっかえひっかえかなと……」
「ますます失礼だ」
「あ……」

 心の声を口に出してしまい、もう一度「すみません」と謝っておく。

「もしかして一途だったりします?」

 鬼上司のプライベートなんてこういうときにしかけないので、興味津々で尋ねた。すると彼は、チラリと私に視線をよこしてから口を開く。

「当然だ。有馬は違うのか?」
「んー、私は違いませんけど、相手のほうが違ったり……あはは」

 なんとなく雄司が浮気をしているような気がするのだ。付き合いたての頃は、週末は必ずどちらかの家で一緒に過ごしていたし、平日の夜もしょっちゅう電話で話した。時間が合えば食事に行ったりもした。
 そろそろ同棲する? という話が出ていたのに、もう雄司の部屋に三カ月くらい呼ばれていない。それどころか、二週間は声も聞いておらず、避けられている気がする。

「男がいるのか?」
「いるにはいるんですけどね……」
「意味深だな。浮気でもされてるのか?」

 濁しているのに、グイグイ来る。仕事で責任を追及されているときみたいだ。

「いえ、わかりません」

 雄司を信じたいのに、こんなに会えないと心が揺らぐ。
 私だって寂しいんだから。
 その気持ちを素直にぶつければいいのだろうけど、それをやってしまったら私たちの関係が終わりそうで怖いのだ。面倒な女になりたくない。

「女を不安にさせる男なんて、捨ててやればいい」

 これまた鬼上司の意外な発言に、少し驚いた。
 仕事では〝冷徹〟という言葉がぴったりだけど、私生活では情熱的な人なのかしら?

「柳原さんみたいにモテる人はすぐに次が見つかるから簡単に言えますけど、私みたいな凡人はそんなにホイホイ彼氏なんてできないんです。結婚……いえ、なんでもないです」

 そんな話が出たことはないけれど、もう結婚してもおかしくない歳なのだ。
 大学のときに仲がよかった友人三人は、すでに全員結婚している。四カ月ほど前にあったそのうちのひとりの挙式のときには、「次は早緒莉だね」とブーケを渡されもした。〝次は〟というよりは、残りは私だけになってしまい、結婚に対して焦りがあるのは否めない。
 相手はもちろん雄司だと思っていたのだが、彼は冷めてしまったのだろうか。
 連絡が取れないのは、彼の仕事が忙しいだけだと信じたい自分がいる。

「無神経なことを言った。すまない」

 柳原さんが謝るところなんて初めて見た。

「いえ。私のことはどうでもいいんですよ。それより柳原さんです。彼女がいないなんてびっくりです。どんなタイプの女性が好きなんですか?」

 彼女がいないと知ったら告白する女子社員が殺到しそうだな、なんて考えながら尋ねる。
 いや、でも……皆、彼の厳しさを知っているから、遠くから眺めてキャーキャー言うにとどめる気もする。

「女より仕事だ」
「バカな質問でした」

 鬼相手に、ちょっと調子に乗りすぎたらしい。質問をバッサリ切られて口を閉じた。
 やっぱり怖い。
 車内に沈黙が訪れる。車に乗ったことを後悔しつつ窓の外を見ていると、赤信号でブレーキを踏んだ柳原さんが、にぎわいを見せるとある店に視線を送って口を開いた。

「あの店、知ってるか?」
「カフェでしたよね、たしか」

 フィエルテのようにチェーン展開はしていないが、名前は聞いたことがある。

「そうだ。少し前から夜はバーとして営業している」
「バー、ですか」
「フィエルテも、こういう業務形態にチャレンジしてみたいと思っているんだ」

 フィエルテのコーヒーをどうしたらたくさんの人に飲んでもらえるかを日々考えてはいるが、バーなんて思いつきもしなかった。

「そうなんですね。おいしいカクテルがたくさんあって、食事もできるのなら通いたいかも」
「ここのように時間を区切って業務形態を変えるのもいいし、思いきって一店舗、専用の店を出してみてもいい。フィエルテもおしゃれなカフェとして定着してきた。そのブランドイメージを生かさない手はない」

 私が若年層へのアピールを目論もくろんだのと同じように、柳原さんも別の角度からフィエルテの未来を模索しているんだ。
 厳しい人だけど、やはり切れ者だ。業績好調でも、現状に甘んじるところなど微塵みじんもない。

「素敵かも」
「じゃあ、有馬がやれ」
「え?」

 ただ感想を漏らしただけなのに、すました顔をした彼からとんでもない命令が下ったような。
 信号が変わり再びアクセルを踏んだ彼は、チラリと私に視線をよこした。

「素敵なんだろ」
「そうですけど……なんですか、この展開」
「さあ?」

 もしや、これを言いたいがために送ってくれたの?
 策士な彼ならやりかねない。
 しかし先輩が多数いる一課で、まだまだ未熟な私に白羽の矢が立つとはびっくりだ。

「新しいものに突き進んでいく度胸があるのは有馬だけだ。他のヤツらは自分の損得を考えて、無難な仕事しかしたがらない」
「あのー。それ、私が損得も考えられないバカみたいなんですけど」

 指摘すると彼はかすかに笑った気がした。いや、気のせいか。

「そうかもな」
「は?」

 聞き捨てならないことを言われたような。

「大学も抱えてるから無理か」
「いえっ、やり……」

『やります!』と答えそうになり、慌てて口を押さえた。
 これも絶対に誘導されている。負けず嫌いの私の性格を、彼はわかっているのだ。
 ただ、チャレンジしてみたいという気持ちも湧き起こる。

「迷ってるのか?」
「そうですね。うちの部長、厳しいんですよね」

 そう言うと、「そうだな」と素知らぬ顔でうなずいている。

「でも、その部長に任せてもらえるのも光栄なんです」
「俺も手を貸す」

 柳原さんが手を貸してくれるなら……
 ううん、彼に手伝ってもらったらとんでもなく厳しい条件を吹っかけられそうだ。でも、彼の手腕は誰もが認めるところ。彼を納得させられたら、成功は間違いない。

「プレゼンの期日が決まっている大学を優先すればいい。プレゼンまでは有馬が主として動き、うちが落としたらあとは西村にやらせる。カフェバーはそのあと始動だ。男が女を口説くどきたくなるような場所を演出してくれ」

 男が女を口説くどきたくなる?
 彼氏に浮気されているかもしれない私に、なんてハードルの高い要求をするのだろう。
 眉をひそめると、彼は左の口角をかすかに上げる。
 物怖じしているのか? と挑発された気分だ。
 やっぱり彼をギャフンと言わせたい。

「両方ともお受けします」

 鼻息荒く承諾すると、彼は満足げに「よろしく」と小さくうなずいた。
 のせられたのは自覚しているが、他にも優秀な先輩が多数いるのに、私を指名してくれたことをありがたく受け取りたい。期待してもらえているのだろうし。
 いや、ただ単に、今日たまたま私が残業していたから捕まっただけ?
 この鬼上司の腹は簡単には読めそうにない。
 とにかく、引き受けたからには成功させる。

「これもブレンドを世に広めるための試練ですね」
「試練というほどじゃないだろ」

 できる人は、必死に努力しなければ結果を残せない者の気持ちなんてわからないのだろう。
 ……そうでも、ないか。今のブレンドを作るのに苦労したと聞いたし。

「ブレンドの開発、すごく時間がかかったんですよね。試練でしたよね」
「まあそうだな。おかげで商品開発部からはけむたがられている」

 彼が涼しい顔で言うので、噴き出しそうになった。
 自覚してるんだ……

けむたがられるくらいどうということはない。フィエルテの業績を伸ばすためならどんな手でも使うし、必要な改革はなんでもする。有馬が欲しい商品があれば、商品開発にかけ合えばいい」

 やはり厳しい人だ。これだけ業績が上向きでも、まったく満足している様子はない。
 でも、そうか。カフェバーとなるとほとんど新商品になるわけだし、大学のカフェも若年層向けの商品があれば武器になる。既存の商品だけでの差別化が難しければ、新たに作ればいいんだ。

「ワクワクしてきました、私」

 正直に胸の内を告白すると、彼はかすかに微笑む。

「それじゃあ、商品開発に嫌われてこい」

 嫌われるの?
 けむたがられるのと意味は同じだろうが、言葉のインパクトが強くて胸に衝撃が走る。

「ちょっとお願いする程度で……」
「それで納得するものができれば構わないが、有馬のワクワクはその程度なんだな」
「嫌われてきます! 徹底的に」

 なんの宣言をしているのだろう、私。
 完全に転がされている気もしなくはないが、新しい試みを成功させるという意気込みは十分だった。


 翌日からは、ますます仕事に没頭した。
 相変わらず雄司からは返事がない。余計な不安を頭から追い出すには、仕事に夢中になるのが一番だ。

「女は期間限定という言葉に弱いんですけど、男性はどうなんでしょう」

 大学へのプレゼンの参考にと、隣の西村さんに尋ねる。

「まあ、かれるよね。今じゃないと飲めないんだから行っておこうとなるかも。ただ、ブレンドの配合の違いくらいでは、正直ちょっと……」
「そうですよね」

 看板商品のブレンドコーヒーを軸にあれこれ考えてみたが、やはり弱いだろうな。

「世界一の配合を変える勇気ないしなぁ」

 私自身ですら、期間限定の新しいブレンドが発売されても注文しない気がする。今のブレンドを愛しすぎているからだ。

「ブレンドはそのままがいいんじゃない?」
「そうですね。他のメニューか……。ジュースだ! ちょっと商品開発行ってきます」
「あぁ、うん」

 目をぱちくりさせている西村さんを置いて、営業部を飛び出した。
 廊下で会議から戻ってきた柳原さんとすれ違う。

「そんなに急いでどうした?」
「嫌われに行ってきます」
「は?」

 間の抜けた声を出した柳原さんだったが、すぐに理解したのか、「行ってこい」と見送ってくれた。彼に相談するのは、この商品ができるかどうか聞いてからでいい。
 私がピンと来たのは、フルーツをたっぷり使った野菜ジュースだ。大学生くらいのお年頃ならスタイルを気にしている人も多いだろう。ヘルシーで美容にもよく、なおかつおいしければ、人気が出るのではないかと思ったのだ。
 ダイエットのときに一食このジュースに置き換えるとか、日差しの強い時季には、美肌効果が高いジュースを置くとか……悩みに合わせたレシピをいくつか提供することで、幅広い需要があるのではないかと考えた。
 ただし、味がおいしいのが絶対条件。野菜ジュースと聞くだけで〝おいしくない〟と思う人もいるのを知っているからだ。
 商品開発部に飛び込んで近くにいた男性社員を捕まえると、〝面倒そうなのが来た〟という顔をされた。でも、柳原さんもこの試練を乗り越えて成功をつかんだのだと思ったら、ひるまずに話ができた。

「わかった。上の人に話しておいてあげるから、どんなのが欲しいのか具体的にして。そうじゃないと試作品もできない」
「もちろんです。ありがとうございます!」

 やっぱりこの仕事を引き受けてよかった。新規開拓は数々手がけてきたが、商品開発まで踏み込んだのは初めての経験。今までは、すでにある商品でどう戦うかを考えるのが仕事だったが、新しい武器の提案ができるなんて、またとない機会だ。
 意気揚々と営業部に戻った私は、どんな商品がいいのかを考え始めた。


 その週はひたすら大学の企画案を練り、迎えた週末の金曜日。一課の会議で提案することになった。
 会議には柳原さんも出席したのでかなり緊張したが、社内での失敗は失敗の内には入らないと考えを披露した。

「野菜ジュースね。下宿してた頃にあったら飲んでたかも。食生活メチャクチャだったからなぁ」

 男性の先輩社員が漏らす。

「でも野菜って言われると、ちょっと遠慮したくなるわ、私」

 女性の先輩にも指摘を受けた。

「今回は、野菜を前面に押し出すわけではなく、味を重視したいと考えています。それと、将来のシミ予防ジュースとか、明日までに体重を落とすジュースとか、ちょっとおもしろいネーミングを考えてもいいかなと。〝このおいしいジュースには、実は野菜が入っていて、健康管理にも役立ちますよ〟という方向に持っていきたいんです」

 私が考えを述べると、あちらこちらから笑いが起こる。

「シミ予防って……有馬はいつも奇想天外だな。お前の脳みそどうなってるの?」

 課長に言われて、苦笑する。それはダメ出しなのか、めているのかどちらだろう。
 課長の隣に座っている柳原さんは腕を組んだまま微動だにしない。期待はずれだったのだろうか。
 嫌な雰囲気がただよってきて、それ以上なにも言えなくなった。
 誰ひとりとして口を開こうとせず、私が作った資料をペラペラとめくる音だけが響く。

「新しいラ・フィエルテを作っていかなければ、未来はない」

 沈黙を破ったのは柳原さんだ。

「無難にフラッペあたりで外資への対抗策を出してくると思っていたが、斬新な案だと思う。学生の健康管理もできるとアピールすれば、大学関係者の興味も引けるんじゃないか?」

 よかった。賛成してくれているんだ。
 安心したら肩の力が抜けた。

「ネーミングセンスは別として」

 そこはダメらしい。

「有馬の考える方向性でよさそうだな。これが成功すれば、次は大学生をターゲットにできる」

 ひととおり議論されたところで課長が言う。
 自分の案が採用されてホッとしたのと同時に、絶対に成功させると気合を入れた。


 雄司から返事が来たのは、帰り支度を始めていた十八時少し前。
 メッセージの着信に気がついた私は、残っている人たちに帰りの挨拶あいさつをしたあと、トレンチコートを羽織はおりながら廊下に出た。そして、部署から少し離れたところでスマホを確認する。

【ごめん。出張が入ってるから無理だ】

 そんな一文を見て顔をしかめる。
 出張って……。それなら前もってわかっていたでしょう? 今までどうして返事をくれなかったのよ。
 雄司に振り回される生活がつらい。どれだけ彼を待っても、デートもできないなんて。
 本当に忙しいだけなのかな……
 断られたのは今週だけではないので、不安でいっぱいになる。
 そのとき、再び雄司からメッセージが届いた。次のデートの提案ではないかと期待してそれを開いたのに、一瞬にして顔が引きつった。

【今晩、俺ん家来いよ。明日、めぐみが行きたいって言ってたランチ食いに行こう】
「恵って、誰?」

 送る相手を間違えた? でも、明日は出張なんでしょ?
 スマホを手にしたまま動けないでいると、先ほどのメッセージが消えて【雄司がメッセージの送信を取り消しました】と変わった。送り先の間違いに気づいたようだ。
 でも、もう見てしまった私はどうしたらいい?
 こんな形で浮気を確信するなんて最悪だ。
 気がつくと涙がこぼれていて慌ててぬぐう。
 どうして会社でメッセージをチェックしてしまったのだろう。出てからにすればよかった。いくら止めようとしても涙が止まらない。
 ぬぐってもぬぐってもあふれてくるのに、こんなときに限って誰かの足音が近づいてくる。会社を出ようにも、エレベーターはその足音がする方向だ。しかし営業部に戻るわけにもいかず、ハンカチで目頭を押さえてうつむいたままエレベーターを目指して歩きだした。
 コツコツと革靴が床を蹴る音がさらに近づいてきて、やがてきちんと磨かれたウイングチップの黒い靴が視界に入った。

「お疲れさまです」

 顔をせたまますれ違おうとすると、グイッと腕を引かれて戸惑う。

「えっ……」

 私の腕をとったのは、柳原さんだった。
 彼はなにも言わずに私を連れて、エレベーターホールのほうに戻っていく。

「あのっ」

 顔色ひとつ変えず黙っている彼は、なぜか私の手を握ったままだ。やがてやってきたエレベーターに私を押し込んで、自分も乗ってきた。

「飲みに行くぞ」
「飲みに?」

 もしかして、なぐさめようとしているの?

「大丈夫ですから」
「大丈夫なのに泣いているのか?」
「それは……」

 仕事中と変わらない鋭い指摘に、まともな返事が見つからない。

「お前は簡単に泣く女じゃない。どれだけ雷を落とそうが無理難題を押しつけようが泣かないだろ?」

 そうはいっても、仕事とプライベートは別だ。
 なんと答えようか迷っていると、彼はスマホを取り出してどこかに電話をかけ始めた。

「柳原だ。悪いが今日の面談は延期させてくれ。来週の火曜の同じ時間で」

 仕事を断ってるの?

「仕事を優先してください」

 電話を切った彼に慌てて伝える。

「二課の課長との定期的な面談だから特に問題ない。それより有馬だ」
「私は仕事のことで泣いているわけじゃないんです。ごめんなさい」

 もしかしたら仕事に行き詰まって泣いたと思われているのかもしれないと焦る。

「わかってる。だから、お前は仕事がうまくいかないからといって泣いたりしないと言ってるだろ」

 なぜか叱られたが、仕事の悩みではないとわかっているのに彼が時間をこうとしていることに驚いた。

「降りて」

 少し強引にうながされてエレベーターから降りると、地下駐車場だった。断る気力すらなく、言われるがまま車に乗り込む。
 車内では無言で、私はひたすら窓の外を眺めていた。
 間違いメッセージのあと、雄司からはなにもない。既読マークがついたはずなので、私が読んでしまったのはわかっているはずだ。それなのに言い訳ひとつないのは、よほどテンパっているのか、もう終わってもいいと思っているのか……
 多分後者だろうなと思うのは、最近のよそよそしさから推測するに、浮気が今回だけではないと感じるからだ。きっと、恵さんが本命になったのだろう。
 柳原さんの車は、海外の要人もよく使う一流ホテルの地下駐車場に入っていく。

「ここに行きつけのバーがある。そこでいいか?」
「はい。でも車……」

 彼が飲めない。

「俺は部屋を取る。だから気にせずに飲め」

 私はこんなホテルに泊まろうなんて考えたこともないのだが、やはりYBFコーポレーションの御曹司ともなると違う。
 ここまでついてきたのだから、お言葉に甘えよう。今はお酒の力を借りてこのつらさを忘れたい。
 一旦フロントに寄って部屋を取った彼は、三十階にあるバーにエスコートしてくれた。
 慣れた様子で私のコートを脱がせてクロークに預けると、スッと手を差し出してくる。
 もしや、握れと?
 こういう高級店でのマナーなんてまったく知らない私は、おどおどしながら柳原さんの手に自分の手を重ねた。
 満足そうにうなずいた彼は、数歩進んだあと今度は私の腰を抱き、窓際の席に連れていってくれる。
 店内は照明が落とされていて落ち着いた雰囲気だ。一つひとつのテーブルも離れているため、あまり他の客が気にならない。
 シェイカーを振っているバーテンダーのうしろの棚には、大量のお酒のボトルがずらりと並べられていた。

「なに飲む?」
「私、くわしくなくて。おすすめがあればそれを」
「それじゃあ、私はマティーニ。彼女にはロングアイランドアイスティーを」

 私の対面に座った彼は軽く手を上げてウエイターを呼び、てきぱきと注文を済ませた。

「ロングアイランドアイスティーって、たしかアルコールが強いんですよね」
「そう。女を酔わせて持ち帰りたいときに注文するカクテルだ」
「えっ?」

 彼の言葉に過剰に反応してしまったが、だから飲みすぎるなという意味だろう。それに今日は酔いたい気分なので、少し強いほうがいい。
 いつの間にか涙が引っ込んでいる。柳原さんが一緒にいてくれて気がまぎれているようだ。
 カクテルと一緒に、生ハムとチーズの盛り合わせも運ばれてきた。

「これ、頼みましたっけ?」
「いつも食べるから、なにも言わなくても出てくるんだ」

 本当に常連なんだ。

「空腹にこのカクテルはきつい。食べながら飲め」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」

 私がグラスに手を伸ばすと、彼はなにも言わずに自分のグラスを目の高さまで上げて乾杯のポーズを取り、口に運ぶ。だから私も真似をした。

「さっき商品開発の石井いしい部長に、面倒な部下をお持ちのようでと言われたよ」
「すみません……」

 慌てて謝ると、彼は首を横に振った。

「多分、め言葉だ。俺も散々面倒な男だと言われたんだ。でも、配合を変えた新しいブレンドが完成したとき、成功すると思ってたと笑ってくれた」

 商品開発部の部長は、たしか五十代のベテランだ。その彼から成功を確信されていたなんて、光栄なことだ。

「私も期待してもらえてるのかな」
「面倒なのは本当だろうけどね」

 せっかくテンションが上がりかけたのに、そのひと言はいらないでしょ。


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