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第2章 月夜を仰ぐ「碧水」の本音
9.月下のプロローグ
しおりを挟む合同葬儀を終えた夜。
憧れは虚ろに変わった。夢に満ちていた明日の世界の、残酷な姿を知った。
俺は顔を背けながらも、逃げ出すために出した一歩目で、地を踏むことを躊躇っていた。
葬儀のために急いで揃えた純白の上下を身に纏ったまま、気づけば修行場へ辿り着いていた。いつも通り、木々の狭間にある小道を通ってきた筈なのに、まるで瞬間移動だ。
憔悴しきった母さんは、俺の手を握り返すこともできない有り様だった。ただ呆然と、父さんの書斎に残された椅子に、操り糸を切られた人形のように身体を預けていた。窓から母子を覗き込む三日月を、意味もなく見つめ返す瞳から顎へかけて、乾き切った涙の跡を幾筋も残して。
俺が傍らにいても無意味な気がして。赤子同然に無力な気がして。だから……
『帰れ』
その夜の、三日月の影に似た姿。木々をざわめかせる風に、大きく揺れる右袖。
今にも揺れて倒れそうな程に、酷く痩せ細った長身。白く白く、青褪めた肌の色。伸ばし切った銀色の長髪を、いつもうなじに近い位置で雑に結んでいる。
サリヤ・スティンゲール。
利き腕を喪失してギルドを引退した当時の職級は「碧水魔導士・零級」。『転生者』ではなく、持ち合わせた素養は水の魔力……不足を補い不常を癒す、補助や治癒に特化した属性の魔導士でありながら、単独で最強という名の頂に登り詰めた。隣国フェオリアの北方民族がシェールグレイ国内に攻め寄せた「ジルジア征討」の折に、先代のラグディッド陛下が自ら率いられた軍で、三人の敵将を討つという目覚ましい活躍をおさめた、カルカの英雄。
父さんは、俺が片手剣の振り方や炎魔法の基礎をある程度習得するなり、俺を彼に師事させた。素晴らしい魔導士であると同時に、信頼できる友人でもあると紹介して。
でも師匠は、父さんの友人は……父さんの葬儀に、顔を出さなかった。
そして、振り返らずに繰り返した。
『今の貴様に、まともな稽古がつとまるものか。帰れ』
空っぽになった身体に、ジュッと音を立てて充填された、炎のような感情。
焦点がぶれるほどに双眸を見開き、ぐらつくほどに奥歯を噛み締め、力任せに握り込んだだけの愚かな拳で。俺は初めて稽古の外で、自分から人を殴ろうとした。
師匠は、薄っぺらな身体を揺らしただけだった。それだけで俺は勢い余ってつんのめり、いつもよりも硬質な地面に、いつものように強かに身体を打ちつけた。古い酒を僅かに残しただけの、ガラス瓶みたいに無様に転がった。
行けよ、何度でも。この薄情者に命中するまで。
そう怒り狂う自分の傍らで、「誰か」が言葉を探して項垂れていた。
……言葉? そう、言葉だ。「どうして」という、虚しい言葉。
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。
『どう、して……来て、くれなかったんですか……』
乾いた、土の匂いがする。
泣くのを堪えていた。泣いたら、認めてしまうから。もう疑うことができなくなるから。だから今、点々と、視界を黒く黒く染めていくのは涙じゃない。
泣かない。俺だけは泣かない。だから、どうか。
女神様。「京さん」のために俺を、俺のために「京さん」を選んだ女神様が、本当にこの世界のどこかにいらっしゃるのなら。教義の通り、いつも慈愛の眼差しで、全ての人を見守っていらっしゃるのなら。どうか……
『死と親しむな』
師匠は、嗄れた声で吐き捨てた。
湖に張る薄氷のように碧く危うげな瞳が、冷然と俺を見下ろしていた。
『同胞を亡くす度に強くなることができるのなら、修練など必要ない』
それは、あまりにも師匠らしい言葉だった。
この唇の片端を上げた感情の名前が、何だったのかは分からない。ただ、フィーユの声が微かに聞こえた。クロ、どこにいるの、と繰り返し呼んでいた。どこにいるのと問いながら、居場所を完全に把握しているようで。少しずつだが確かに声が近づいてくる。
やがて俺は、ボロ切れが風に舞い上がるように立ち上がり、ようやく一歩、踏み出すことができた。
その先が、それまでとはまるで違う道へ続いていたとしても、立ち止まっているよりはマシだ。
そう、思った。
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