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第2章 月夜を仰ぐ「碧水」の本音

20.あなたに会えて嬉しい

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 ぼーっと、する。
 自分がどこにいるのか、わからない。自分に身体があるのかさえ、わからない。

 ただ……紅い。

 目を閉じて求めれば、いつでもこの紅に辿り着くことができた。きっと命が尽きるその瞬間まで燃え続けるだろう、この炎を見ていると……燃え尽きるのにどれほどかかるのだろうと、何故だか虚しさを覚えることがある。生き残りたい、生き残りたいと、呪詛のように繰り返しながら逃げ続けているのに。

 逃げる……何から?

 死。父さんなのに父さんではなくなってしまった、魂の抜け殻。「京さん」が全てを喪失した瞬間の激痛。答えはいくつでも思いつくのに、何故だか……どれでもない気がして。

 ここは、紅い。

 父さんが言ったことがあった。この紅色の瞳は、女神からの寵愛の証だと。

 シェールグレイの国旗には、白地に紅色で飛獅子が描かれている。この国にとって炎は特別だ。炎属性の魔力を継承していないと、王様の実の子供であろうと王位を継ぐことができない、そう聞いたことがある。

 この紅を見ることができずに生まれた、王子様やお姫様は……一体どうなるんだろう。

『クロニア。お前ならきっと、サリヤさんのような英雄になれる。

 女神様から愛され、この国から愛され……そして、私たちから深く愛されている。どんなに優れていようと、歴史に名を残す英雄の殆どには、深い絆で結ばれた仲間がいたんだ。だから……優しいお前なら、きっとなれる』

 修行に疲れ果てて、自室でベッドに潜ってうとうとする俺の頭を撫でながら、父さんはそう言った。

 大きな手だった。成長した今の俺の手より、きっともう少し大きかった。絶対と言えないことが、ひとつの新たな喪失となって胸に沈む。

 父さん。

 フィーユは、父さんが言っていた通り、もっと綺麗になった。相変わらず、俺を導いてくれている。ギルドで事務職員として働きながら、登録戦闘員として依頼もこなしているんだ。戦う姿を見ると、しっかり強いことがわかって……でもやっぱり、無理してないか少し心配だ。

 ティアとレインっていう新しい仲間もできた。

 ティアは優しい子だ。優しい夢を叶えるために、故郷を離れてここへ来た。謙虚すぎて、他人に遠慮しすぎてしまうところは心配だけど、戦い方を教えれば、その指導を大切に胸にしまって、少しずつ花を咲かせていく努力家で。

 レインは……心から信用していいのかは少し心配だけど。味方でいてくれている今は、俺よりずっと頼りになるんだ。それに……色々と内に秘めるものがあったとしても、悪人ではないような気がする。

 父さん。俺にも仲間ができたよ。今は……もう終わっているかも知れないけれど、力を合わせて作戦を進めてきたんだ。

 …………大丈夫、だろうか。

「心配してばっかりだね、くろ」

 紅が、深い黒になる。

 重い瞼を、ゆっくりと開いた。小さくぼやけていた視界が、少しずつ広がり、鮮明になる。

 四角い部屋だ。俺が寝かされているベッドがあって、クローゼットがあって、本棚があって、窓に面して文机がある。窓には青いカーテンがかけてあって、硝子が切り取った空も尚、青かった。

 知らない部屋。でも、よく知っている部屋。

 俺の傍に……文机と付属で買った木椅子に腰掛けて、男性が一人、座っていた。

「…………けい、さん?」

「うん。あれ? そう言えば、ちゃんと自己紹介してなかったような? じゃあ、えっと……僕は、藤川京。死ぬ前は、日本って国で大学生をやっていた。はじめまして、くろ。僕の、魂の継承者さん」

 ずっと、会いたかった。

 自分の中に、彼が……過去としてではなく、独立した意識を持つ存在として在ると気付いてから。声が聞こえたと思うたびに。いや……声を聞くたびに。

 意識が朦朧としていなければ、感情が昂るあまり、炎の球を周囲に10個くらい生み出してしまっていたかも知れない。

「寝てる? それとも起きる? お水、出せるよ?」

 俺は身体を起こそうとした。視界がぐるっと回る……思わず、額を抱えて目を閉じた。

 ぐらんぐらんと、振り子のように揺れる。京さんは、力のこもらない俺の身体を支えながら、枕の上にクッションを置いて、俺の背をそれにもたれさせた。

 ようやく目眩がおさまると、気づけば京さんは、水の入ったグラスを持っていた。

 利き手にさえ力が入らず、グラスを落としそうになるのを見ると、水を飲むことさえも手伝ってくれた。

「ゆっくり、だよ。……飲めた?」

「……ありがとう、ございます。すみません」

 水は美味しかった。透き通った味がして、差し出す前に少しの間、氷で冷やしたような心地良い冷たさで。

「ううん、謝らなくていいよ。くろって日本人みたいだよね。もしかして、僕の影響だったりするのかな」

「…………大丈夫、ですか」

 眼鏡の奥の優しげな目が、またたく。

「え? 僕のことも心配してるの?」

「炎、熱く、ないですか。独りで、寂しく、ないですか。もしかして、俺の中に、閉じ込められて……俺が、あなたを、恐れたから」

「ま、待って、落ち着いて。大丈夫だよ、確かにこうやって誰かと話すのは随分久しぶりだけど……誰か? いや、自分と?」

 壁の向こう側を見るような眼差しをして、首を傾げる。

 数秒間の空白を置いて、はっと思い出したように俺を見る。眉を下げて柔らかく笑いながら、右手で後頭部を繰り返し撫で下ろす。

「ちっとも熱くないよ。ちっとも寂しくない。それに……僕は、くろの中に閉じ込められてるんじゃなくて、自分の意思で引きこもっているだけだから」

「……ひきこもって、いる」

「そうだよ。眠りに落ちたきみはいつもみたいに、揺籠みたいな炎の中で、ふわふわ漂っていた。いつもは見守ってるだけなんだけど……今日は、ここまで連れてこようと思った。勝手な真似をしてごめん、だけど……それはね、謝ろうと思ったからなんだ」

「あやまる」

「あはは、ぼんやりしてるの、なんか可愛いかも。真顔とかぼんやり顔が可愛いのって、本物の美人の証だよね。どこの世界でも見た目が良いのって得だなあ、うんうん……うん? でも、昔だったらそれはそれでいろんな苦労があったのかな? んー、世界史選択ではあるけど、遠い昔すぎて、授業内容さっぱりなんだよね……」

「? ……あの。謝らないで、ください」

 壁を見透かしていた眼差しが、俺の方へ戻ってくる。

「あなたに……会えて、嬉しいから」

 京さんは、ふわっと微笑んだ。
 嬉しさと寂しさと悲しさが、混ざり合ったような表情で。

「僕もだよ。だから……ほんの少しだけ、話をしよう」
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