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第4章 悠久を渡る「黒虚」の暇つぶし

62.とらわれる

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『ヒント、その3。

 ルールもヒントも、よ~く確認しなよ?
 必要がない文言は存在しない。必ず、作り手の意図が込められているんだから』



【回想する小動物】


 昨日。レインくんから教材を受け取ってから、僕らはすぐ帰路についた。くろはこっそり「鍛錬」の相手を探していたみたいだけど、

『何かと忙しい夕暮れ時だから、明後日以降にした方が良いんじゃないかな?』

 僕がそう言うと納得したみたいで、ほっと安堵の溜息を吐いてから、きょろきょろするのをやめた。

「あっ! おかえり、クロ!」

 我が家のリビングでお母さんと一緒に微笑んだのは、くろの幼馴染のフィーユちゃん。

 艶々さらさら、毛先まで手入れの行き届いた清水のようなピンクブロンド。翡翠色の瞳は宝玉のようでもあり、向き合う人に清い印象を与える春風の結晶のようでもある。どんな高解像度もかかってこいと言わんばかりのパーフェクト美少女だ。

 ギルドの受付係の担当は午前中だけ、敏腕ぶりを発揮してその他の事務仕事もぱぱっと済ませてきたそうで。お母さんとお茶を飲みながら、世間話を楽しんでいたみたいだ。

 フィーユちゃんは多忙な身だが、僕らのお父さんの死後に暗くなった僕らのお母さんへの気遣いを忘れない。そのことが改めて嬉しく、そして心強く思った……その後。

 フィーユちゃんは幼馴染とは言え男子の部屋に平然と突入。つかつかとクローゼットを歩み寄ったかと思うと、恐ろしいことにばーんと開け放って、

「うーん、やっぱり制服の替えと訓練着しかなかったか……クロらしいと言えばらしいけれど、明日はティアちゃんの昇級のお祝いなんだし、これを期に普段着を早急に用意すべきだわ」

「た、確かにそうだ……」

 正確には、制服の替えと訓練着と、オウゼで貰った朱色の法被しかない、なんだけど……

 って待って、くろ! 項垂れて納得する前に、嵐のごとき所業に抗議するんだ! 君が些か紳士すぎるだけで、他の男子はクローゼットやベッド下や本棚、その他諸々を母親にも触られたくないものなんだよ!?

 くるりとくろに向き直ったフィーユちゃんは、これまた恐ろしいことにまだ成長中だという豊かすぎる胸をむんと張って、

「こんなこともあろうかとっ! カルカギルドの周辺で、クロに似合いそうな服を揃えたお店を数件見繕っておいたのよ!

 お母様も、私が選んでくれたら安心だって言ってくれたわ。どこも堅苦しいところじゃないけれど……クロのお仕事のおかげでお金には余裕があるから、予算は少し高めに設定しても構わない、とのこと!」

 よ、用意周到だ……。

「というわけで、明日の午前中に買いに行くわよ! より私好みに……じゃなくて、紅炎・零級に相応しい装いにしてあげる!」

 ふんっと右手のこぶしを天高く突き上げた幼馴染。くろは少々目眩を覚えながら、

「あり、がとう……」

 彼女に倣って右手を弱々しく掲げたのだった。






 そして、今朝。

 日課にしている……レインくん曰く「頭おかしい」朝稽古の後、シャワーを浴び終えたくろは、訓練着の中で一番まともな1着を選んだ。

 念の為、帯剣するのも忘れずに。

「行ってきます」

「ふふ、行ってらっしゃい、クロニア。フィーユちゃんの選んでくれたお洋服、楽しみにしているわ」

 目尻の皺を濃くして微笑んで、お母さんが胸の横で控えめに右手を振ってくれた。

 人に見せるための服を買うのは初めてだし、しかも今回は幼馴染が選んでくれるのだ。慣れない体験を控えているがゆえの緊張感を抱えながらも、くろも微笑を返して外へ出た。

 歩き出して、5歩目。

 目を見開いた。次の瞬きの後には、くろは片手剣の鋒を「華奢な首筋」にぴたりと突きつけていた。

 ……一体、何が起こったんだ?

 彼の視覚を借りている僕でさえ、理解が追いつかなかった。確かなのは、くろが僕に「剣を抜きます」と事前に伝えられないほどの緊急事態が起こった、ということだけで。

 ……刃物。

 恐怖にノイズが生じ始めた視界の中で。華奢な首の上に乗っかった小さな顔が、にいと白い歯を見せて笑う。

「へえ~、良いじゃん、やるじゃん!
 相手の方から見られるなんてマジで久々、何十年、いや何百年振りかなあ? その他大勢なら頭が高えぞ~って問答無用で後頭部に踵落とすとこだけど、キミなら許してやるよ」

 集中しろ、観察しろ!
 女の子? それとも、男の子か?

 愉しそうなその声がアルトかテノールかの判断もつかなかったし、あどけない顔立ちも中性的で、ダークグレーの髪はショートカット。

 胸の膨らみの見られない華奢な造りの身体に、黒いオーバーオールとベージュ色のブラウスを合わせて纏っている。靴は、奇妙なほどサイズの大きい黒革のブーツだ。

 猫に似たつり気味の瞳、銀色の虹彩。

 痺れた思考が引きつけられる。銀色なんて初めて見た……って、脳を休ませたら駄目だ!

 この子はどこから現れた?

 あんなぶかぶかの靴を履いているのに、全く足音がしなかった。

 それに、どうして刃を……死を突きつけられているのに、無邪気に笑っていられるんだ?

「はじめまして、『紅炎』クン。
 突然だけど、『誘拐』させろよ」

 こ、この子は何を言ってるんだ!?

 くろの視線がさっと右へ流れ、庭に咲いた水色の花を一瞬だけ認めてから戻る。

「お断りします」

 眼差しを一層鋭くし、

「何者です。
 何故、こんな無意味な真似を?」

 無意味な真似、って?

 疑問が次々と湧いてきて頭が痛い。でも、今くろの意識をこちらへ逸らすのはまずい。僕が自分の思考で答えを出さなきゃ。

 くろより幼い外見だった筈のその人物は、微笑を妖しげで艶やかなものに変えた。そのせいで、歳頃さえもわからなくなる。

「誰にも信仰されない、寂しい『神』さ……なんてね~! ま、『神』なのは本当だけど!

 人間だった頃の名前は、ん~…………ラウラ? あっれ、これ他人の名前だったっけ? まあ『神様』でも『暫定ラウラ様』でも、敬意を持って適当に呼んでくれよ」

 ええと……女性の名前っぽい?

 とにかく、ラウラと呼ぶことにする。敬称は抜きだ。明確に敵だし、僕は早くもこの子のことが嫌いだった。

 ラウラは無防備極まりないことに、オーバーオールのポケットに両手を突っ込んだまま、
 
「しかし、無意味、ねえ。『黒虚』様の結界に『無意味』、ねえ……うんうん、確かにキミなら、溜息吐くついでにパリーンと破れる程度の結界だよなあ~。

 でも残念! ボクは確かに無意味なことが大ッ好きだけど、『紅炎』を拉致っちゃえ~ってときに無意味なことはしないのですよ!」

 結界。

 ようやく、先程くろが花に視線を向けた意図を理解した。くろは、周囲の風が止んでいることを確かめたんだ。

 普段のくろなら、展開された段階で結界の存在に気づいただろう。けれど今回は、無風空間になっているか否かを確かめなければならなかった。

 恐らく……巧妙だったこともあるだろうけれど、必要最低限の魔力で構築された結界なんだ。だからくろは無意味だと言った。

 そしてラウラは、それを否定した。

 僕には、くろが動揺するのがわかった。否定されたことにじゃない。相手が『黒虚』、『彩付き』だとわかったからでもない。ラウラが剣を首筋に突きつけられた状態にもかかわらず、前に進み出ようとしたからだ。

 くろはラウラが一歩踏み出す前に、鋒を前へ向けたままに後退した。ラウラは心底愉しげにニイと口角を持ち上げ、更に、

「それ以上寄るなッ! 殺すつもりは、」

「ないんだよね? うふふ、優しいなあ~!
 ……でもね。ボクには、あるんだよ」

 くろの魔糸が、整然と同じ方向へ向く。この不気味な人物を攻撃するためではなく、結界を破るために。

 だけど、

「あらら? もしかして勘違いさせちゃった?
 ごめんごめ~ん、人間と会話するの久々でさあ、目的語とか色々足りてなかったよね!

 ボクが消す気なのは『紅炎魔導士・零級』クロニア・アルテドットじゃなくて、」

 くろも僕も、この結界が無意味なものではなかったことを思い知らされた。

「この田舎街にいる、雑魚ざっこい誰か、なんだよなあ」

「……な、」

「ボクは口だけのやつが大ッ嫌いだから、準備はここへ来る途中にばっちり済ませてきたよ。キミがボクの魔法を解こうとしたら……うふふっ、どうなるだろうね?」

 クロニア・アルテドットには弱点がある。

 睡眠薬やお酒に弱く、人参やコーヒーが苦手。それ以外にも、致命的な弱点が。

 誰にも自分の命を、自分の大切な人達の命を奪わせないという覚悟。
 それは心優しい彼が、魔導の最高峰たるその力を振るう理由でもある。

 彼は「命」を他の何よりも重んじている。

 状況次第では命を刈り取らなければならないギルドの登録戦闘員としては……重んじ過ぎてしまっている、ほどに。

 だから、結界は最低限で良かったのだ。

 既に、不可視の……魔糸で捉えることのできない精神的な包囲網が、彼を捕らえてしまっていたのだから。

「もう、それは要らないよな?

 あ、大丈夫大丈夫! ボクは、誰でもいいから殺戮してえ~、みたいな、手段と目的が入れ替わっちゃった変態じゃないから! キミと仲良くなるために、ちょっとゲームがしたいだけなんだよ~!

 だからついてきて? ねっ、お願い!」

「…………」

 くろがどんな表情をしていたのか、自分自身ぼくでさえわからない。

 俄かに勢いを増した紅蓮が、精神世界の高くを舐め、轟々と唸りを上げる一方で……

 ただ、押し黙ったままに。
 お父さんの遺した剣を、地面に突き立てた。
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