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第2話 剣を求める者
しおりを挟む沈黙は、長くは続かなかった。
火の音が一定の調子を刻み、薪が崩れるたびに小さな赤が弾ける。パドキアは炉から視線を外し、改めて工房を見渡した。どこを見ても、鍛冶屋としての欠落はない。道具は揃い、炉は生きている。剣を打たぬ理由だけが、どこにも見当たらなかった。
「……ここに来るまで、ずいぶん聞きました」
男は答えない。火箸を持ったまま、炉の中を見ている。
「あなたの剣で魔を斬った勇者の話。刃こぼれひとつせず、最後まで折れなかったって」
その言葉が、工房の空気をわずかに揺らした。男の手が、ほんの一瞬だけ止まる。火箸の先が、赤の縁をなぞった。
「だから――」
パドキアは一歩、踏み出した。
「だから、あなたの剣が必要なんです」
背負い袋の口を開き、鞘を引き抜く。まだ若い刃だった。研ぎは丁寧だが、何度も戦場を越えた剣ではない。鍔も簡素で、装飾はほとんどない。
男はちらりと視線をやり、それ以上は見なかった。
「それは、悪くない」
短い評価だった。褒め言葉でも、拒絶でもない。
「ですが――」
パドキアは刃を戻し、鞘を握り直す。
「これでは、足りません」
勇者として戦うには、まだ軽い。魔を斬るには、まだ頼りない。パドキア自身が、それを一番よく知っていた。
「街では、新しい勇者の話でもちきりです」
男の背中に向けて言葉を投げる。
「私が選ばれたわけではありません。でも……次に選ばれる可能性はある」
それは自慢ではなく、事実だった。人々の期待が、静かに、しかし確実に集まりつつある。その重さは、剣よりもずっと重い。
「だから、準備が必要なんです」
男は、ようやく振り返った。
視線が、パドキアを正面から捉える。年を経た目は、値踏みするでもなく、測るでもなく、ただ見ている。
「勇者は、剣を選ぶ」
男が言った。
「だが」
続く言葉は、重かった。
「剣が、勇者を選ぶことはない」
パドキアは眉をひそめる。
「それは……どういう意味ですか」
男は答えなかった。代わりに、金床のほうへ視線を移す。長く使われてきた鉄の塊は、無数の打痕を抱えながら、今は静かに冷えている。
「ここでは、剣は生まれない」
「なぜです」
問いは、今度は強かった。感情を抑えきれず、言葉に角が立つ。
「あなたが打たないからですか」
男の口元が、わずかに歪んだ。笑みには見えなかった。
「……そうだな」
パドキアは、思わず息を吐いた。
「それでは、ここは何のための工房なんですか」
問いは失礼だったかもしれない。だが、引き返すには理由が必要だった。勇者として前に進むなら、納得が要る。
男は炉の前に戻り、腰を下ろした。
「ここは」
一拍、間があった。
「火を焚べる場所だ」
パドキアは、その言葉を理解できずに黙った。火は、どこにでもある。村にも街にも、鍛冶屋でなくとも火は灯る。
「剣を打たずに?」
「剣は打たない」
男はそう言って、火箸を置いた。炉の赤が、ゆっくりと揺れる。
パドキアは工房を見回した。確かに火はある。だが、それは目的を失った火のようにも見えた。守られているが、使われない。まるで――
「……勇者が、来なくなったからですか」
その言葉が、静かに落ちた。
男の動きが止まる。
否定も、肯定もない。ただ、火の音だけが続く。
「見限られた、と」
パドキアは続けた。
「……外では、そう言われています」
グラドは振り向かない。
「勇者に見限られた鍛冶師だって」
言葉は、工房の中に落ちた。重くもなく、軽くもない。
グラドは、短く息を吐いた。
「好きに言わせておけ」
火箸が、静かに炉の縁をなぞる。
パドキアは首を横に振った。
「私は、信じていません」
グラドが、わずかに視線を向ける。
「幼い頃、父があなたの剣を持っていました」
それは唐突な言葉だった。
「夜になると、父は決まって剣を膝に置いて……布で、丁寧に拭いていました」
それは武器の扱いではなかった。戦うための準備でもなかった。
「嬉しそうだったんです」
炉の火が、ぱちりと鳴る。
「刃に傷がつかないように。光を失わないように。まるで、大切な人に触れるみたいに」
パドキアは、自分の記憶をなぞるように言葉を選んだ。あの剣は、美しかった。力強いとか、鋭いとか、そういう言葉では足りない。火と鉄が、人の手によって整えられた結果としての、美しさだった。
「父は言っていました。これは、ただの剣じゃないって」
グラドは黙って聞いている。
「これは、人を裏切らない剣だって」
パドキアは顔を上げた。
「だから私は、ここに来ました」
理由はそれだけだった。名声でも、噂でもない。あの夜の灯りと、布越しに撫でられる刃の記憶が、ここへ導いた。
「あなたの剣なら」
一歩、近づく。
「今度こそ、生かせると思ったんです」
グラドの眉が、わずかに動く。
「私が使えば……また、人は思い出します。あなたの剣が、何だったのか」
それは野心ではなかった。誰かを押しのけて立つ考えでもない。ただ、途切れかけた線を、もう一度繋ぎたいという衝動だった。
グラドの眉が、わずかに動いた。
「私が勝てば、あなたの名も戻る。勇者御用達の鍛冶師として」
言い終わる前に、グラドの声が落ちた。
「くだらん」
低く、乾いた一言だった。
火箸が床に置かれる音が、妙に大きく響く。
「勇者だの、伝説だの」
グラドは金床の前に立った。長年叩かれてきた鉄の塊は、今は冷え、音を失っている。
「そんなもののために、剣は打てん」
パドキアは言葉を失った。
「……なぜ」
問いは短かった。
グラドは答えなかった。ただ、金床に手を置く。その手つきは、叩く者のそれではなく、触れる者のものだった。
「勇者はな」
しばらくして、低い声が続く。
「期待され、担がれ、消費される」
火が、揺れる。
「剣も同じだ。役目を背負わされ、折れたら終わりだ」
パドキアは反論しなかった。言葉が見つからなかった。
グラドは、こちらを見た。
「行くな」
命令ではない。拒絶でもない。
「ならぬほうがいいのだ。勇者になど」
その声には、怒りよりも疲労があった。何かを止めきれなかった者の、静かな声だった。
パドキアの胸の奥で、何かが熱を持つ。
「……私は」
一歩、前へ出る。
「剣も名も、使い捨てるつもりはありません」
グラドは目を細める。
「誰もが、そう言う」
「それでも」
パドキアは背負い袋に手を伸ばし、父の剣の柄に触れた。
「私は、あなたの剣を……最後まで見届けたい」
言葉は、それ以上続かなかった。
炉の火が、二人の間で揺れている。弱く、確かに。
グラドは何も言わなかった。ただ火を見ていた。その背中は、拒んでいるようにも、守っているようにも見えた。
パドキアは歯を食いしばった。
「私は、剣が必要です」
繰り返す。何度でも。
「世界が、次を求めているからです」
男は、その言葉を聞いても動じなかった。
「世界は、いつもそうだ」
淡々とした声だった。
「次を求め、次を消費する」
パドキアは反論しなかった。否定できなかった。勇者であることは、そういうことでもある。
「……それでも、私は行きます」
そう言って、背負い袋を担ぎ直した。
「ここで剣が得られないなら、別の場所を探します」
男は引き止めなかった。
ただ、炉の前で火を見ている。
扉へ向かう途中、パドキアは足を止めた。振り返る。
「ですが」
言葉を選びながら、続ける。
「火を入れている限り、ここは終わっていない」
男は答えない。
パドキアは扉を開け、霧の中へ戻った。外気は冷たく、肺の奥まで染みる。
背後で、扉が閉まる音がした。
工房には再び、鉄を叩く音のない静寂が戻る。
だが炉の中では、弱い火が、変わらぬ調子で燃え続けていた。
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