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新しい居場所
王都の端、職人や商人が行き交う活気ある下町。
その一角にある「マルロー商会」の屋根裏部屋で、エリッサの朝は始まる。
かつての伯爵邸のような、最高級シルクの寝具も、着替えを手伝う侍女もここにはいない。
エリッサは自分で湯を沸かし、安価だが香りの強い茶葉で淹れた紅茶を啜る。
(ああ、美味しい)
自然と微笑みが浮かぶ。
手元にあるのは、昨日の夕方に近所のパン屋で買った、少し固めの黒パンと、一切れのチーズ。
そして、自分で焼いた目玉焼きだ。
銀の食器も、複雑なソースがかかった鹿肉も、厳格な礼法もない。
ただ、窓から差し込む朝日を浴びながら、自分のペースで口に運ぶ。
「本当に……なんて美味しいのかしら」
伯爵邸の食卓は、常に氷のような沈黙に満ちていた。
――「食事中に喋るな。味が落ちる」
冷酷な夫の言葉に怯え、味も分からぬまま飲み込んでいた最高級の料理よりも、自分の稼いだ金で買ったこの質素な食卓の方が、ずっと豊かで満たされている。
(離縁して正解だったわ。あんな冷え切った監獄に三年間もいたなんて、今の私には信じられない)
伯爵邸を出たときは、実家の男爵邸に戻ることも考えた。
しかし、男爵邸には妹と、現当主である妹の夫がいる。
妹たちに迷惑をかけたくはなかったし、何より「誰か」の顔色を窺う生活に戻るのはこりごりだったのだ。
だから、エリッサは「自立」という道を選んだ。
エリッサは最後のパンのひとかけらを口に放り込み、満足げに喉を鳴らした。
(さて、今日も頑張って稼ぎましょう!)
「おはよう、エリッサさん。今日も早いのね!」
「おはようございます、マルロー夫人。今朝は港から新しい積み荷が届くのでしょう? 準備はできていますわ」
一階の店舗に降りると、エリッサはすぐさまエプロンを締め、髪を実用的にまとめ上げる。
ここでの彼女の仕事は多岐にわたった。
膨大な帳簿の整理、外国商人との通訳、そして時折持ち込まれる古美術品の鑑定。
男爵令嬢として叩き込まれた教養と、伯爵家での三年間、孤独を埋めるために貪るように読んだ蔵書の知識が、今や彼女を支える最強の「牙城」となっていた。
「エリッサさん、例の宝石商が来ているわ! あなたの鑑定書がないと、怖くて買い取れないってさ!」
「ふふ、すぐに行きますわ。ダリビア産のお茶を、彼に差し上げておいてください。味は濃い目でお願いしますね」
エリッサが鑑定の席に座ると、場の空気が一変する。
かつて「伯爵邸の備品」として沈黙を守っていた彼女は、今やその知性を武器に、老獪な商人たちと対等に渡り合っていた。
「この輝きは魅力的ですが、裏側の彫りを見てください。これは三代前の王宮細工師の偽物ですわ。相場の二割引きなら、素材として買い取ることもできますが、どうされますか?」
毅然とした態度、的確な指摘、そして交渉が成立したときに見せる、凛とした笑み。
「エリッサさんが交渉に立つと、あのがめつい連中も背筋を伸ばすんだから、本当に大したもんだわ」
夫人が感心したように笑う。
エリッサは心から誇らしかった。
ここでは、誰も彼女を「借金の担保」として見ない。
ましてや「呪い」と呼ぶ者もいない。
彼女はただの「仕事ができるエリッサ」として、必要とされていた。
その一角にある「マルロー商会」の屋根裏部屋で、エリッサの朝は始まる。
かつての伯爵邸のような、最高級シルクの寝具も、着替えを手伝う侍女もここにはいない。
エリッサは自分で湯を沸かし、安価だが香りの強い茶葉で淹れた紅茶を啜る。
(ああ、美味しい)
自然と微笑みが浮かぶ。
手元にあるのは、昨日の夕方に近所のパン屋で買った、少し固めの黒パンと、一切れのチーズ。
そして、自分で焼いた目玉焼きだ。
銀の食器も、複雑なソースがかかった鹿肉も、厳格な礼法もない。
ただ、窓から差し込む朝日を浴びながら、自分のペースで口に運ぶ。
「本当に……なんて美味しいのかしら」
伯爵邸の食卓は、常に氷のような沈黙に満ちていた。
――「食事中に喋るな。味が落ちる」
冷酷な夫の言葉に怯え、味も分からぬまま飲み込んでいた最高級の料理よりも、自分の稼いだ金で買ったこの質素な食卓の方が、ずっと豊かで満たされている。
(離縁して正解だったわ。あんな冷え切った監獄に三年間もいたなんて、今の私には信じられない)
伯爵邸を出たときは、実家の男爵邸に戻ることも考えた。
しかし、男爵邸には妹と、現当主である妹の夫がいる。
妹たちに迷惑をかけたくはなかったし、何より「誰か」の顔色を窺う生活に戻るのはこりごりだったのだ。
だから、エリッサは「自立」という道を選んだ。
エリッサは最後のパンのひとかけらを口に放り込み、満足げに喉を鳴らした。
(さて、今日も頑張って稼ぎましょう!)
「おはよう、エリッサさん。今日も早いのね!」
「おはようございます、マルロー夫人。今朝は港から新しい積み荷が届くのでしょう? 準備はできていますわ」
一階の店舗に降りると、エリッサはすぐさまエプロンを締め、髪を実用的にまとめ上げる。
ここでの彼女の仕事は多岐にわたった。
膨大な帳簿の整理、外国商人との通訳、そして時折持ち込まれる古美術品の鑑定。
男爵令嬢として叩き込まれた教養と、伯爵家での三年間、孤独を埋めるために貪るように読んだ蔵書の知識が、今や彼女を支える最強の「牙城」となっていた。
「エリッサさん、例の宝石商が来ているわ! あなたの鑑定書がないと、怖くて買い取れないってさ!」
「ふふ、すぐに行きますわ。ダリビア産のお茶を、彼に差し上げておいてください。味は濃い目でお願いしますね」
エリッサが鑑定の席に座ると、場の空気が一変する。
かつて「伯爵邸の備品」として沈黙を守っていた彼女は、今やその知性を武器に、老獪な商人たちと対等に渡り合っていた。
「この輝きは魅力的ですが、裏側の彫りを見てください。これは三代前の王宮細工師の偽物ですわ。相場の二割引きなら、素材として買い取ることもできますが、どうされますか?」
毅然とした態度、的確な指摘、そして交渉が成立したときに見せる、凛とした笑み。
「エリッサさんが交渉に立つと、あのがめつい連中も背筋を伸ばすんだから、本当に大したもんだわ」
夫人が感心したように笑う。
エリッサは心から誇らしかった。
ここでは、誰も彼女を「借金の担保」として見ない。
ましてや「呪い」と呼ぶ者もいない。
彼女はただの「仕事ができるエリッサ」として、必要とされていた。
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