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続すきとおった森で
しおりを挟むユグドラシル
北欧神話に登場する世界の中心にそびえる巨木。九つの世界を無いほうする。日本語では「世界樹」「宇宙樹」と呼ばれる。
ぼくの手元に一冊の画集がある。
タイトルは「夭逝の天才画家 カワイユズキ」。
その表紙に描かれているのが「ユグドラシル」。N展の佳作になった油絵だ。
「ユグドラシル」の原画は、十六夜が持っている。
ユズキは短い手紙を遺していて、その結果、「ユグドラシル」は十六夜が、絶筆となった「すきとおった森」(と、ぼくは呼んでいた。ユズキは題名を遺さなかったから)は、遺言によって、ぼくが譲り受けることになったのだ。
夏休みが終わり、二学期になっても、十六夜はずっと学校を休んでいた。
十六夜とユズキは、本当の兄を妹のようにして育った。
十六夜の部屋は、家の離れにあった。
物置小屋を改築した小部屋。そこが十六夜とユズキが、ずっといっしょに過ごした場所だったのだ。
ユズキを亡くしたショックは、ぼくよりも大きかったかもしれない。
「心に穴があいたよう」
十六夜は言った。
「お兄ちゃんが、私の心の一部を持っていってしまったの」
ぼくが訪ねると、十六夜はすっかり痩せていた。
だけど、それはちっとも嫌な痩せ方ではなく、余分なものがそぎ落とされて、十六夜の美しさを際立たせていた。
「お兄ちゃんの絵を、ずっと眺めているの。そのときだけ、私は安心して、落ち着いていられるの」
「ユグドラシル」
「そう。ユグドラシル。この絵には、お兄ちゃんの魂がこもっているの」
ぼくは、十六夜が透明になっていくような気がした。
「ユズキだって、きっとこんなのは喜ばない」
慰めにもならないのは、わかっていた。
「少し外へ出ないと駄目だよ」
「お兄ちゃんは、夢の中にも会いにきてくれるの」
ぼくは諦めて、十六夜の話を聴くことにした。
「そして、お兄ちゃんは、この木の前で笑っているの。お兄ちゃんは、この絵の中にいるのよ」
十六夜の話は、どこまでも続いて、終わりがなかった。
そのすべてが、ユズキのことだった。
十六夜は、ユズキと共に生きているのだ。
すでに死んでしまったユズキの思い出と共に。
こんな状態がいいはずがなかった。
「ここを見てほしいの」
ユグドラシルの根元の辺りに、小さな蝶が描かれている。
「この蝶が、お兄ちゃんなの」
あまりにも、深く入り込みすぎだ、と、ぼくは思った。
十六夜は、精神のバランスを崩しているのかもしれない。
翌日、ぼくはまた、十六夜の部屋を訪れた。
十六夜は、部屋にいなかった。
どこかへ出かけたのだろうか?
壁には「ユグドラシル」。
ちょっとした違和感を持った。
いつも見慣れている「ユグドラシル」とは、ほんの少し違う気がする。
その妙な感じは、ぼくの心に染みのように広がっていった。
蝶の数が増えている?
昨日、描かれていた蝶は、ひとつ。
今日、描かれている蝶は、ふたつ。
なぜ蝶数が増えたのか?
十六夜の言葉がよみがえった。
「この蝶は、お兄ちゃんなの」
謎がとけた。信じられないことだが、あの言葉は本当だったのだ。
そう気づいたとき、ぼくは、まばゆい光に包まれた。
空高くそびえた巨木が、葉を茂らせていた。
ユズキと十六夜が、ぼくの前に立っていた。
「ユズキ」
「トモヤ。おまえとこうして、もう一度話せて嬉しいよ」
顔をほころばせて、ユズキが言った。
「ユズキ。ここはあの絵の中なのか?」
「いや」
ユズキは首を横にふった。
「あの絵は入り口になっただけだ。この木が、本当のユグドラシル。世界樹だよ」
「ユズキ。ここはどこなんだ?」
「前に話したことがあっただろう? ここは、向こう岸だよ。もっとも、生きている人間から見たときのだけどな」
ユズキは、十六夜を振り返った。
「十六夜。俺は本当の妹のように、おまえのことを思っていたよ。おまえは、俺の自慢の妹だ」
「お兄ちゃん!」
「十六夜。わかるだろう? ここは生きている人間が、いつまでもいる場所じゃないんだ」
「嫌だ! ずっと一緒にいたいの」
「十六夜は、まだここに来ることになっていないんだよ。ここに来るのは、ずっと先のことだ」
「嫌!」
「わかるか? 俺は短いけれど、精一杯生きたんだ。精一杯生きた魂しか、ここには来れないんだ。精一杯生きれば、また会えるよ」
「お兄ちゃん!」
「十六夜。俺はいつまでも待ってるよ」
ユズキは優しく言った。
「トモヤ。十六夜を頼む」
まばゆい光が、ぼくらを包んだ。
気づくと、ぼくと十六夜は、部屋で向かい合っていた。
「お兄ちゃんは、向こう岸に行ったのね」
十六夜はぽつりと言った。
「そうだよ。そして、俺たちは今、こちらの岸にいる」
十六夜が、わっと泣いて、ぼくに抱きついてきた。
それは、ユズキの死を心から受け入れた涙だった。
数日後、「ユグドラシル」は、ある美術館に寄贈された。十六夜の意思によって。
そうして川を遡るボートのように、過去へ過去へと引き戻されながら、ぼくらは前へと進んでゆく。
時の輪は回り続ける。
いつか世界樹の麓に集まるその日まで。
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