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高崎 悠也たかさき ゆうや、31歳、会社員。
浅くも深くも無い理由で腹違いの弟2人を養子として引き取り、せっせと面倒を見てきたこと以外は、突出して何かを成し遂げたわけでもない、
ごく平凡な人間である。

特に変わり映えしない日曜日。
平日よりも余裕を持った目覚めから始まり、普段できない家事をまとめて終わらせたり、テレビを見たり、スマホゲームをしたり、そして時には睡魔に抗わず昼寝したり…、そんなこんなであっという間に過ぎ去った休日を嘆きながら、最後はベッドの中で眠りにつく。
そう、そんないつも通りの日曜日のはずだった。

引き取った弟の内の1人、現男子大学生の藤ヶ谷 伊織ふじがや いおりが、

――悠也の名前を呼びながら自慰をしている場面に遭遇してしまうまでは。




【弟兼養い子が俺の名前を呼びながら自慰をしていたんだが】





待ってくれ、言い訳をしたい。誰も急かしてはいないだろうが待ってくれ。
俺だって弟のそんなデリケートな場面、見るつもりも無かったし見たくも無かったさ!
だがしかし、夜中にトイレに立った際に弟の部屋から荒い息遣いが聞こえてきたんだ。そして俺は真っ先にこう思った。
もしかして夢見が悪くて魘されているんじゃないか、またはどこか具合を悪くしているんじゃないか、そんな気遣いと心配100%の純粋な心持ちで様子を見に行ったわけだ。
するとどうだ。
勘違いだったら悪いからと息を潜めて扉を開けたのが裏目に出た。

――夜の暗闇に慣れてしまっていた目で扉の隙間からばっちりと見えたのは、その整った顔を快感に歪め息を乱しながら夢中で自身の息子を慰める、弟の姿だったのである。

当然ではあるが、自分以外の誰かの自慰行為を見るのは初めてのことだった。
だから仕方がないと言えばそれまでだが、あまりの衝撃に一瞬フリーズして動けなかったのが、今考えれば良くなかったのだと思う。
そのまま速やかに目を逸らし、何事も無かったかのように立ち去っていれば、『同じ男だ。ただの生理現象だから仕方がない』と平常で居られたのに――、

「…っ、はっ、ゆうやっ…っ!」

そう。
伊織が兄兼養い親の俺の名を呼びながらフィニッシュを迎える瞬間を!!見さえしなければっ…!!!
今俺はこんなに動揺することも無かっただろうよ!!!



チチチ
心地よく鼓膜を揺らした小鳥の囀りが、近くを通る一台の車の音に混じってすぐさま空気に溶けていった。
寝室の遮光カーテンから漏れ出るかすかな光が、敢えて時計を見らずとも、今日という日の始まりを突き付けてくる。

「……一睡も出来なかった…」

結局、伊織の例の行為を目撃した衝撃で完全に覚醒してしまっていた悠也は、先程の視覚情報をなんとか脳内で処理しようと、一晩中頭を悩ませていたのであった。
そして今、休日であったにも拘らず、まるで休まっていない気怠い身体を無理矢理動かしながら、無心で朝食を準備している。

あー、あいつ、人を勝手にオカズにしといてその後すっきり快眠したんだろうな。
そんなお前の行動故に、一晩中苦悩せざるを得なくなった人間がここに存在することも知らず…。
俺は一睡も出来ないまま、朝からお前達のために食べる方のオカズをせっせと準備しているんだぞ。分かってんのか伊織。伊織お前、ほんと伊織お前……。

徹夜明け故に少しだけ感情の制御が甘いせいか、無性に腹が立ってきた悠也が、フライパンの上で残り僅かな水分の蒸発を待つ目玉焼きを見つめながら、伊織の分だけ黄身を潰してしまおうかとよくわからない嫌がらせを目論んでいた、 その背中に、
ぽす、と温かい重みが加わる。

「おはよー悠也くんー…」

「――潤、おはよう。 どうした? 今日早起きだな」

殆ど開いていない目を眠そうに擦りながら悠也の背中にぐりぐりと頭を押し付けてきたのは、伊織ではないもう一方の年下の弟、現男子高校生の藤ヶ谷 潤ふじがや じゅん
抗えない眠気に任せて、まだ成長途中の身体を全力で凭れかけさせてくる潤に苦笑しつつ、それと同時に、いつもなら悠也が起こしに行くまで高確率で夢の世界にいる彼を不思議に思い、そのまま疑問を口に出す。

「ん~…、今日朝練の前に…、響に借りたノート返さなきゃ、おこられるから…。 もう100まんかいいわれてて…ぐう」
「おい寝るな寝るな!!」

潤は通学する高校の陸上部に所属しており、毎朝授業前の朝練に参加しているのだが、今日はそれとは別に用事があったようだ。

潤が口にした『ひびき』君とは、潤がこちらに引っ越してきてからの幼馴染の内の1人であり、もう一人の幼馴染『隆二りゅうじ』君も交えた3人は、今も互いの家で遊んだりする程親しい仲だ。
しかし、3人とも同じ高校に入ってはいても普段一緒に行動する友人はそれぞれ別にいるらしく、学校内で会話をすることは稀なのだそう。
俺から見ても、あの三人は結構タイプが違う性格の子達であることが分かるので、ずっと仲が良いってことはよほど気が合うんだな…と微笑ましく思う反面、この3人が突然仲良く話し始めたら、普段仲の良い周囲の友達は混乱しないだろうかと少しだけ気になったりもする。
中でも、進学クラスに入っている響君は特に真面目で、何かと昔から潤がお世話になっているため、兄の立場としては本当に頭が上がらないのだ。

今度何か差し入れを持って行こう…。
そんなこと考えながら、睡魔に押し負けつつある潤を背中越しに応援していると、ふいにその重みから解放される。
目が覚めたか?と振り向けば、潤ではない、自身よりほんの少しだけ高い位置にある『そいつ』と視線がかち合った。

「…おはよ」

「お、おはよう、 …伊織」

そこには、悠也を意図せず不眠に陥れた張本人、伊織が、まだ意識の覚醒していない潤の首根っこを掴んで立っていた。
寝起き特有の気怠そうな様子を見せる伊織に、悠也の脳内で未だ新鮮さ保ったままの昨夜の記憶がブワリと思い起こされ、多少ギクシャクとした挨拶になってしまう。
そんな悠也を一瞬だけ不思議そうに見た伊織だったが、すぐに興味を無くしたように視線を移し、血の繋がった弟である潤を優しく揺すって起こしてやっていた。

「潤、さっさと顔洗って目覚まして来い」

「はぁーい…」

落ち着け落ち着け。普段通りにしろ俺!!昨日のことはいったん忘れよう!!
背後で成される二人の会話を理解するよりも、脳内の伊織を消し去ることに必死だった悠也は、
己の真横から突如視界に飛び込んできた腕に、反射的に声を上げる。

「ぎゃ!!」

「うっさ…、何。 朝聞くには堪えがたい騒音なんスけど」

「わ、悪っ、じゃない! それ弁当用のおかず! つまみ食いすんな!」

「悠也の分だし。 潤のは絶対減らすなよ」

「俺のは減っていいってか」

「問題無し」

平皿で弁当用に冷ましていた(伊織曰く)悠也の分のおかずを食らっておきながら悪びれる様子もない伊織に、悠也の口元がひくりと痙攣する。
うーーん、引き取った時から何一つ変わらないいつも通りの生意気な態度…。
……こいつ、俺をオカズしてるくらいだったわけなんだから、俺のことを少しは好いてるんじゃないのか…?
普段通りの伊織の態度は、どう考えても好きな人間相手にとるものじゃ……、いや、待て?

そうだよ。
苛立ちに眉を寄せていた悠也は、突然、何かに気付いたように目を丸く見開いた。
そして、今の今まで一生懸命頭から追い出そうとしていた昨夜の記憶を、今度は積極的に振り返る。

昨夜、はっきり『ゆうや』と聞こえはしたけど、『ゆうや』なんて名前、特別珍しくもないし、ワンチャン女子の名前でもあり得るんじゃないか?
男性名だったとしても、それ、俺以外の誰かなんじゃないか?
……、それだよ!!!
完全に盲点だった!!あまりの衝撃から、『ゆうや』は俺自身だと認識を固定してしまっていたんだ!
うんうん。大体、俺の前ではほぼ仏頂面で、口を開いても7割強で生意気な言葉しか出てこない伊織が、俺を好きなわけないじゃないか!!

あーもーなんだよーー!
俺の勝手な勘違いじゃんかよーー!悩んで損した!!
だけど一晩かけて悩みぬいた分だけ、全てが解決した時の爽快感が凄まじいわー!

「何ニヤついてんの。 キモ」

「大丈夫、今ならお前の全てを許せる。 可愛いでちゅねー」

「は? イミフなんだけど。 触んなっ」

「はいはいかっこよくセットした髪の毛が崩れちゃいますもんねー。 今日は寝癖風ですかお客様―?」

「セットしてねぇよ、正真正銘の寝癖だっつの。 変な絡みやめろ」

「潤! 完全覚醒―!! 朝ごはん何―!」

一晩中苦しめられた悩みから解放され物凄く気分がいい悠也と、そんな悠也を気味悪く思う伊織の元に、洗面所から帰還し、普段の溌剌さを取り戻した潤がテーブルに着く。
時間を置かずに朝食が盛られたプレートが並べられ、潤の隣には伊織、正面には悠也、という定位置に3人ともが落ち着いた。

それぞれの「いただきます」を境にして始まる朝の団欒は、悠也にとって、小鳥の囀りより、知らない誰かが活動しだす音より、そしてカーテンから漏れ出る優しい太陽の光よりも、ずっとずっと朝の訪れを感じさせてくれるものだ。

2人の弟を引き取る前までは、こんな生活が送れるようになるなんて考えたことも無かった。

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