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15.パン・デピス(ネルSide)
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ハンカチのお礼に女性が好みそうなお返しをと思い、人気パティスリーで並んで購入したパン・デピス。ハチミツとスパイスを使った伝統的なケーキで、この店のものはしっとりとした生地にドライフルーツがたっぷり入っていて絶品なのだとか。お茶会三昧、味にうるさい一の義姉の一押しとあれば、間違いないだろう。
頑張っているリュシアを労ってやれば、仕事にもまた前向きになっていいことづくめなはず。これは買うしかない。
商会に向かい従業員に尋ねると、リュシアは事務所にいるはずだけど、休憩中なら作業室ではとの返答だった。
二階に上がり事務所に入るもそこは無人。ヴィスは帳簿付けが終わっているようなので確認すると言うし、俺はリュシアの分の差し入れを手に、作業室とやらを探してみることにした。そういえば、小さな作業室が欲しいとかヴィスに言ってたな。休憩時間に使いたいと言っていたようだが……。
「……もしかして、ここか? 何も狭い物置を作業室にしなくても」
素材が大量に置かれた小さな部屋。仕事柄、お試しの商品を山ほど受け取るわけで、「後から使えるかも」と思ったものをここに突っ込んでいたから、とにかく物が詰め込まれている。
狭い物置の奥、小さな作業台の前にリュシアの姿があった。
「あ、いた。おい、リュシ……」
そこには真剣な表情で刺繍に没頭するリュシア。
俺が入って来たことにも気づかない一心不乱な様子に目が奪われる。
「……」
いつ気づくかと思いつつ静かに椅子を引き、部屋の隅からその横顔を眺めた。
リュシアは作業机に向かい、指先から流れるように針を走らせていた。ピンク色の髪はひとつにまとめられていて、窓から差し込む光が横顔を照らす。
その表情が普段とまるで違う気がして、真剣な表情になぜか胸がそわつく。
刺繍に没頭しているその姿はどこか儀式のようで、近づくのも憚られるほど。ブラウンの瞳が見つめる一針ごとに、何か大事なものを縫い留めているような気すらする。
ふと気づいたら、呼吸をひそめていた。誰に言うでもなく、ぽつりと零れた言葉。
「……きれいだな」
言ったあとで、自分自身に驚いた。目を瞬き、「は?」と独り言にツッコミそうになった時、ようやくリュシアが振り向いた。
「あれ? ネルさん来てたんですか?」
目をぱちくりさせた彼女に、俺は慌てて視線を外す。手に持っていたお菓子の箱を、言い訳のように差し出した。
「……これ。今、話題のパン・デピスってやつ。……たまたま通りかかったから」
「わぁ! マテリアルの箱! ありがとうございます。食べてみたかったんです、これ」
リュシアの笑顔になんだか恥ずかしくなり、思わずそっぽを向いた。
「……ま、人気みたいだけど、俺には甘すぎるし」
「ふふ……じゃあ、キリのいいところまで縫ったらいただきますね」
「おう」
俺は立ち上がり、出ていくふりをしながら、もう一度だけ作業台に座るリュシアを振り返る。その肩越しに、やわらかい祈りの光が揺れていた。
その日はリュシアの意見を聞きつつ、他国でどんな刺繍がウケるのかを検討したり、今後の新しい展開に胸を躍らせ――。そろそろ時間だと目配せするヴィスと共に、俺は事務所を後にした。外はすっかり日が傾き、茜色に染まっている。
「急ぎましょう」というヴィスの言葉に憂鬱になりながらも、俺たちは王宮へと向かった。今日は宮廷晩餐会があり、王族として出席せざるを得ない。
「あ~、またあちこちから縁談の話されんの? ほんと嫌なんだけど」
「そうおっしゃらずに。今日は王太子妃殿下が主催ですから顔を立てると思いましょう」
……仕方がない。教えてもらったパン・デピスはリュシアに好評だったし、欠席することで顔を潰すわけにはいかない。
自分の宮殿に戻ると「本日はこちらをお召しください」と一式が揃えられていた。へぇ。俺、こんなの持ってたっけ。
「こちらは第二王子妃殿下からの贈り物でございます。今日の晩餐会には必ず、こちらを身につけてくるようにと」
俺はその言葉を聞き、酸っぱいものを食べたような顔になる。隣でヴィスが「顔っ!」と注意してくるが、聞いてられるか。
「……あの人たち、いつまでも子ども扱いしてくるけど……俺、もう二十四だぞ?」
「まあまあ、いいじゃないですか。第二王子妃殿下のセンスは確かなのですから」
「そうだけど……」
「それより、ほら、早く着替えてください」
なんとなくぶすっとしてしまうのは仕方がない。末っ子王子はいつまでも末っ子で、それはもう兄と義姉たちの干渉がひど過ぎる。愛情を持て余しているなら甥や姪たちへ注げばいいのに。
「殿下が早く伴侶をお迎えになれば……ごほごほっ」
「恋人の影が少しでもちらつけばこんなことには……んんっ、いえ、何でもございません」
俺は執事や侍女長たちをジト目で見ながら、鏡の前で今日の装いの確認をした。
「……悪くないな。じゃあ、行ってくる」
俺は正装したヴィスと共に馬車へ乗りこみ、今日の晩餐会が開かれる大ホールがある宮殿へ向かうことにした。
頑張っているリュシアを労ってやれば、仕事にもまた前向きになっていいことづくめなはず。これは買うしかない。
商会に向かい従業員に尋ねると、リュシアは事務所にいるはずだけど、休憩中なら作業室ではとの返答だった。
二階に上がり事務所に入るもそこは無人。ヴィスは帳簿付けが終わっているようなので確認すると言うし、俺はリュシアの分の差し入れを手に、作業室とやらを探してみることにした。そういえば、小さな作業室が欲しいとかヴィスに言ってたな。休憩時間に使いたいと言っていたようだが……。
「……もしかして、ここか? 何も狭い物置を作業室にしなくても」
素材が大量に置かれた小さな部屋。仕事柄、お試しの商品を山ほど受け取るわけで、「後から使えるかも」と思ったものをここに突っ込んでいたから、とにかく物が詰め込まれている。
狭い物置の奥、小さな作業台の前にリュシアの姿があった。
「あ、いた。おい、リュシ……」
そこには真剣な表情で刺繍に没頭するリュシア。
俺が入って来たことにも気づかない一心不乱な様子に目が奪われる。
「……」
いつ気づくかと思いつつ静かに椅子を引き、部屋の隅からその横顔を眺めた。
リュシアは作業机に向かい、指先から流れるように針を走らせていた。ピンク色の髪はひとつにまとめられていて、窓から差し込む光が横顔を照らす。
その表情が普段とまるで違う気がして、真剣な表情になぜか胸がそわつく。
刺繍に没頭しているその姿はどこか儀式のようで、近づくのも憚られるほど。ブラウンの瞳が見つめる一針ごとに、何か大事なものを縫い留めているような気すらする。
ふと気づいたら、呼吸をひそめていた。誰に言うでもなく、ぽつりと零れた言葉。
「……きれいだな」
言ったあとで、自分自身に驚いた。目を瞬き、「は?」と独り言にツッコミそうになった時、ようやくリュシアが振り向いた。
「あれ? ネルさん来てたんですか?」
目をぱちくりさせた彼女に、俺は慌てて視線を外す。手に持っていたお菓子の箱を、言い訳のように差し出した。
「……これ。今、話題のパン・デピスってやつ。……たまたま通りかかったから」
「わぁ! マテリアルの箱! ありがとうございます。食べてみたかったんです、これ」
リュシアの笑顔になんだか恥ずかしくなり、思わずそっぽを向いた。
「……ま、人気みたいだけど、俺には甘すぎるし」
「ふふ……じゃあ、キリのいいところまで縫ったらいただきますね」
「おう」
俺は立ち上がり、出ていくふりをしながら、もう一度だけ作業台に座るリュシアを振り返る。その肩越しに、やわらかい祈りの光が揺れていた。
その日はリュシアの意見を聞きつつ、他国でどんな刺繍がウケるのかを検討したり、今後の新しい展開に胸を躍らせ――。そろそろ時間だと目配せするヴィスと共に、俺は事務所を後にした。外はすっかり日が傾き、茜色に染まっている。
「急ぎましょう」というヴィスの言葉に憂鬱になりながらも、俺たちは王宮へと向かった。今日は宮廷晩餐会があり、王族として出席せざるを得ない。
「あ~、またあちこちから縁談の話されんの? ほんと嫌なんだけど」
「そうおっしゃらずに。今日は王太子妃殿下が主催ですから顔を立てると思いましょう」
……仕方がない。教えてもらったパン・デピスはリュシアに好評だったし、欠席することで顔を潰すわけにはいかない。
自分の宮殿に戻ると「本日はこちらをお召しください」と一式が揃えられていた。へぇ。俺、こんなの持ってたっけ。
「こちらは第二王子妃殿下からの贈り物でございます。今日の晩餐会には必ず、こちらを身につけてくるようにと」
俺はその言葉を聞き、酸っぱいものを食べたような顔になる。隣でヴィスが「顔っ!」と注意してくるが、聞いてられるか。
「……あの人たち、いつまでも子ども扱いしてくるけど……俺、もう二十四だぞ?」
「まあまあ、いいじゃないですか。第二王子妃殿下のセンスは確かなのですから」
「そうだけど……」
「それより、ほら、早く着替えてください」
なんとなくぶすっとしてしまうのは仕方がない。末っ子王子はいつまでも末っ子で、それはもう兄と義姉たちの干渉がひど過ぎる。愛情を持て余しているなら甥や姪たちへ注げばいいのに。
「殿下が早く伴侶をお迎えになれば……ごほごほっ」
「恋人の影が少しでもちらつけばこんなことには……んんっ、いえ、何でもございません」
俺は執事や侍女長たちをジト目で見ながら、鏡の前で今日の装いの確認をした。
「……悪くないな。じゃあ、行ってくる」
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