拾った彼女が叫ぶから

彼方 紗夜

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2. 近付く彼女

拒絶

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 初冬にもなると、乾いた風が耳を切って痛い。手袋をしていても手がかじかむ。
 今年も何とか年を越せそうで、マリアは玄関ホールで外套を脱ぎながらほっとため息をついた。
 狩猟シーズン中はマリアには当然ながらルーファスの相手をする仕事はない。代わりに、病院に通う頻度が増えていた。

 発端は、母親が風邪を引いたことだった。だらだらと何日も咳が続き、「季節の変わり目だからかしらね」と話していたのだが、そうやって医者を呼ばずにやり過ごしていたせいで、本人も気付かないうちにじわりじわりと症状は悪化していたのだ。
 母親が倒れてから一週間が経つ。
 通常、伯爵家ともなればお抱えの医師がいるのだが、爵位を取り上げられて以降は些細なことでは呼ばないようにしてきたから、疎遠になってしまった。
 でもどうにか診てもらえて助かった。何より、母親も薬を処方されてから眠りやすくなったみたいで、だいぶ回復してきている。この様子なら年越しまでには元気になるだろう。
 ──でも、もうすぐここから出て行かなければならないけれど。

 マリアは手袋に視線を落とす。その手袋は、貴族が外出時にはめる柔らかな革のものだ。でも、実は毎年のように買い換えるのが当たり前の彼らとは違い、マリアのものはもう五年ほど同じものを使い続けているから随分へたっている。そろそろ潮時だろう。ここを出て、かつての領地に戻り、伯爵の頃に使用していた手袋を外せば、いよいよマリアたちは王都との関わりなどなくなる。
 その手袋を外しながら、白い絹の手袋がふと頭をよぎった。引きずられるように、その白い絹ごしに触れられた優美な手を思い出す。優美だけど節ばっていて力強い手。
 安心できた手だったのに、あんなにその手に触れられることを心地よいと感じていたのに。
 その手が何を思って自分に触れたのか、今はもうわからない。
 その手の持ち主にはひと月ほど会っていない。

 会いたくなんかない。婚約者がいると知った後では。
 ──会いたくなんか。

「ナァー……ナァー」

 一瞬浮かびそうになった思いに慌てて首を振る。胸がズキズキするのはもうやり過ごすしかない。けれど、こんな風に本人から何も伝えられず第三者から知らされるのは、どうにもやり切れなかった。その意味ではまだゲイルの方がぬるくて、まだ耐えられた。
 今回のは、火傷だ。熱さにぱっと手を引いても、ひりひりといつまでも心臓を痛めつけてくる。あのへらへら笑った顔に何か言ってやりたいのに、言うタイミングもなかったから尚のこと痛い。

「ナァ──」

 マリアは我に返って口元を緩めた。

「ああ、ナァーゴ。珍しいわね、あなたからすり寄って来るなんて。ごめんね、最近食べ物をあげてなかったもんね」

 出迎えてくれた執事(といってももう執事と呼んでいい身分ではない)に外套を預け、マリアはナァーゴを抱き上げようと屈み込んだ。が、ナァーゴはどうやら抱いて欲しかったのではなかったようで、するりとマリアの腕をすり抜けて外を出ようとする。仕方がないのでマリアは扉を開けてやった。
 視線を下に向けていたので気付かなかったのだ、そこに人が立っていたことに。

「──やあ、マリア」

 冬の清澄な空気が流れ込むのと、爽やかな香りに包みこまれたのは同時だった。マリアは突然のことに混乱した。この香りは、ダンスの間に何度もかすめた香りだ。でもどうして今この香りが……それに。
 ──これ……抱き締められてる!?

「えっ! ちょっと……」
「会いたかった」
 
 ぎゅうぎゅうとマリアを抱き締める腕はますますきつくなった。心地よいを通り越して、痛いくらいだ。顔を上げることもできない。でもこれは間違いなく、覚えのある肌の感触だと思ったらするりと身体の力が抜けた。
 ──ついさっきあんたのことを考えていたんだから! 考えたくなんてなかったけど。

「ルーファス……?」
「やっぱりマリアはいいなあ。ただいま」
「ただいま!? ここはルーファスの家じゃないわよ」
「いいんです。『ただいま』なんですよ、ここが」

 マリアが反射的にいつもの憎まれ口を叩いても、彼はどこ吹く風だ。それどころかマリアの首筋に当然のようにすりすりと自分の頬を擦りつけてくる。
 一体どういうつもりなんだろう。
 実際に会ってしまうと、胸の内のもやもやに蓋をしてしまう。目の前の笑顔が全てになってしまう。腹は立つのに、ショックだったのに、その顔を見たら流されそうになる。

 ルーファスがやっと腕の力を緩めてくれたので、マリアは彼を見上げる。いつもの通りの、ふにゃふにゃした笑顔だ。
 泣きそうになった。色んな思いがぐちゃぐちゃに溢れて、それが目の縁から出て行きたがってる。

「マリア?」

 ルーファスが気遣わしげに目を細める。
 聞きたいことも、知りたいこともたくさんある。このままになんてしておけない。
 けれど、今はそれよりも彼の様子が気になった。

 ──少し疲れてる?
 ルーファスは笑っているけれど、どこか疲労が滲み出ている気がする。それがわかるほどには、近くで彼を見てきた。そしてそれを追及したところで、彼が笑って答えないだろうことも。
 でもだからってなにもできないのは歯痒い。屋根の上で並んで夜空を眺めたときにも同じ事を思ったけれど、何かあるなら吐き出して欲しいのに。
 やっぱり遊び相手にはそこまでさらけ出せないということだろうか。そう思うとつきんと胸の奥が痛んだ。
 
 マリアは彼の腕の中からもぞもぞと腕を出す。外套のお陰で全然腕が回りきらないけれど、それでも彼の背中に腕を回した。多分、外套がなくてシャツ一枚だったとしても届かないと思うけど。なんてことを考えたら、急に色んなことを意識してしまった。頬がじわりと熱くなり、慌てて頭から追い出す。

「……おかえりなさい」

 言っていい言葉なのか少し躊躇ったけれど、ルーファスの身体から強張りが溶けたような気がするから間違いではなかったみたいだ。それがたとえ一時の戯れでも、少しでも安らげるのなら今はそれでいい。
 いつか彼がマリアの頭にしてくれたように、マリアもルーファスの背中をゆっくり何度も叩く。とん、とん、と何度も。

「マリア」
「なに? ──!」

 柔らかな声に誘われるように頭を上げてから、マリアは咄嗟に手の甲を自分の唇に当てた。ルーファスの唇が手のひらにちゅっと当たる。顔を上げたルーファスがふっと笑った。

「かわしましたか」
「当たり前でしょう! こんなところで──誰に見られるかもわからないのに」
「ああ、じゃあ誰にも見られないところに行きましょう」
「違う違う! どこでだって駄目なものは駄目」
「ちっ。残念です。この前はキスしたじゃないですか」
「お遊びのキスなんていらない」
「じゃあ真面目なキスをしましょう」
「そんなこと言ってない!」

 マリアは慌てて彼の腕から抜け出した。ルーファスは苦笑しながら素直に離してくれる。
 自分は真剣なのに、この男にとっては何もかも──今のやり取りさえも──戯れなんだろうか。
 そう思ったら不意に悲しくなって、その悲しみを振り切るように強烈に腹が立ってきた。この笑顔に騙されちゃだめだ。流されたら、だめだ。
 出てきた声は自分でもびっくりするほど低かった。

「……ねえ、楽しかった?」
「え? 正直なところああいった集まりは苦手ですね……マリアと一緒にいる方がいいです」
「そうやって、私があんたになびくところを見て、楽しかった?」

 笑顔の中に疲労を滲ませたルーファスが、はたとマリアを凝視した。こんなときでも、彼の笑顔に含まれた些細な感情の揺れを読み取れるようになった自分に感心してしまう。マリアはきつく唇を引き結んだ。

「なびく? 急にどうしたんですか、マリア」
「──触らないで」

 マリアは、ルーファスが彼女の肩に手を置こうとしたのをぱしっと振り払った。彼が驚きの表情に顔を歪めたけれど、マリアの顔はもっと歪んでいた。
 ルーファスから食べ物をもらえるとでも思ったのか、ナァーゴが音も立てずに彼の足元にすり寄る。マリアは彼に懐くナァーゴを奪い取るようにさっと抱え上げた。「ナァー」と憤慨するのに構わず、きつく抱きしめる。そうでもしないと涙が零れ落ちてしまいそうだ。
 震える唇で、引き絞るように紡いだ言葉は酷くかすれた。

「騙したくせに」 
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