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2. 近付く彼女
本当の気持ち1
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震える手で小さな猫の温もりにすがりながら、マリアは続けた。
「やっぱりあんたはろくでもなかった。王子だから許されるとでも思った? 馬鹿にしないで。あんたはさんざん私を弄んで、楽しかったでしょうね。言葉一つでその気になる私なんて、扱いやすかったでしょう。一度男に騙されている私なら簡単だとでも思った? 既に使い古しの身体なら何をしても大丈夫って? そうよ、私は馬鹿だから舞い上がったわよ。あんたは王子だって言うのに、微塵も疑わなかった。何か言えないことがあるのかなとは思ってたけど」
「マリア?」
「名前なんか呼ばないで! どうせ陰で笑ってたくせに。面白がっていたくせに」
「マリア、どうしたんですか」
「やめてやめて!あんたの顔なんか見たくない。何であの日だけで終わらせてくれなかったの。何で王宮になんか呼んだの。抱きたかったから? 相手が私なら火遊びしても誰にも言わないだろうって? そうね、当たってるわよきっと。あんたがそうしてくれって言うならきっと私はそうしてたわ。誰にも言わずに、騙されたまま、あんたの言うままにね」
「マリア、待って、何の話だかさっぱりわかりませんよ」
ルーファスが彼女をぐいと引いた。マリアはその腕から逃げようともがいた。
感情が高ぶってしまって涙がぼろぼろと零れる。構わず暴れるマリアをルーファスが押さえ込む。
「離して! 触らないで! もう嫌なの! また同じなんてもういや……! あんたに婚約者がいるなんて、知りたくなかった!」
「え……?」
ルーファスがはっとして、それから表情をゆるゆると緩めた。でもマリアは頭がぐちゃぐちゃで、なぜ彼がはっとしたのかにまで思い至らない。
「なんで他の人がいるのに近付いてきたの……自分が嫌になるじゃない……私、また相手のいる人にうっかり……もうこんな風にはならないって、同じことはしないって決めたはずだったのに、最悪……王子だって知った時点であんたとの関わりなんて切れば良かった、お金なんて他の方法でも得られるのに、ほいほい誘いに乗ってダンスなんか踊って夢を見て……」
しゃくりあげながら、マリアは身体を支えきれずにホールの床にぺたりと膝をついた。ルーファスも膝をついて彼女を抱き込む。マリアはまだ弱々しく彼の手を振り払おうとしていたが、後から後から流れ落ちる涙を拭いながらでは、彼の片腕さえ退けることはできなかった。
泣き疲れてきて、ルーファスを押しのけるのを諦める。声が枯れ、喉がひりひりする。いつの間にか、その手は逆にルーファスの外套の袷にすがりついていた。握り締めた場所のすぐ上で、濃い染みがみるみるうちに広がる。
──やだ、やだ、あんたになんて触られたくない。
それなのに抱き込まれた背中にルーファスの手が何度も押し当てられ、宥めるようにさすられる。
それをどうしようもなく心地よいと感じてしまう自分が嫌で、情けなくて胸が痛くて、涙が止まらない。
彼の胸が、涙で濡れそぼった頬を温めてくれる。心の中では盛大に罵っているのに、その温かさから出て行きたくないと本能が叫ぶから身動き出来ない。
どうして自分はいつも間違えるんだろう。近付いてはいけない人にばかり近付いてしまう。
ぽつりと、温かい涙みたいな呟きが伏せた頭の上に落ちてきた。
「マリアは、僕が好きなんですか?」
「好きなんかじゃないわよ、自惚れないで……私はあんたが私を騙してたことを怒ってるんだから」
「僕は、初めて会ったときからマリアが好きですよ。怒っていてもマリアは可愛い」
「そうやってあっちにもこっちにも調子のいいこと言わないで」
「本当ですよ。僕はね、マリアが弱音を吐けないから好きになったんですよ。図書館で出会ったときだって最後まで涙をこらえていたでしょう? だから今マリアが僕に涙を見せてくれるのが嬉しい」
「誰のせいで泣いてると思ってんの。あんたが一番非道だわ」
「はは、非道ですか。相変わらずマリアさんらしい……。でも、誤解があるみたいですね」
「誤解?」
顔を上げたら、ルーファスを彩る琥珀色がとろりと溶け出して蜂蜜みたいな甘さを纏っていた。
その目が狡い、とまた心の中で毒づいてみせる。でもやっぱり心の奥深くは正直で、どんなに意地を張っても、認めたくなくても、思い知らされる。
──ルーファスに惹かれてる。もう抜け出せなくなっている。
マリアを抜き差しならないところに追い込んだ当の本人は、相変わらずの笑みでゆったりとマリアの背中を撫でながら続けた。甘ったるい眼差しで。
「婚約者の話はどこから聞いたんですか?」
「イエーナ殿下が教えてくださったのよ。あんたが、婚約者のいる身で間違いを起こさないようにって、私が──」
──あんたに好意を寄せているから、ショックを受ける前にって。
無邪気な王女殿下の笑みが蘇って、マリアはまた胸がずきりと痛みを訴えるのを感じた。
悔しいけど、ルーファスの顔を見たらわかった。彼女の言う通りだ。
「何でもない」
「ふぅん、イエーナが……?」
ルーファスが考え込むように眉をぴくりと上げる。その様子に何か引っかかることでもあるのかと尋ねるより早く、彼が満足そうに口元を緩めた。
「それでマリアは僕に決まった相手がいると思って泣いたんですね」
「違うってば。あんたに騙されたと思ったからよ」
「僕には婚約者などいませんよ。厄介なしがらみはありますが……マリアとの仲を深めるのには全く問題ない。それより、ねえ、マリア。知ってます?」
「何よ」
「マリアが、僕のことをあんたって呼ぶときは」
柔らかな目が細められる。いつもより真摯な笑みがマリアを抱き締める力を強くして、近付いて来た。
──マリアが、強がっているときなんですよ。
耳元で囁かれた瞬間、心臓が突き抜けてルーファスにぶつかるんじゃないかと思った。多分いま、呼吸も止まった。
「それにマリア。その話は嘘ですよ」
「へ……?」
「僕には婚約者はいません。いたこともありませんよ」
呆然とルーファスを覗き込むと、彼がくしゃりと笑みを一層崩した。それから愉快だとでも言うように、マリアの濡れた目元に何度も唇を落とした。
目元が腫れてひりひりする。マリアは決まり悪い思いでルーファスをサロンに通し、お茶を淹れた。
さっきの話を母親に聞かれていたらどうしよう。いや、母親だけではない。今更ながら消え入りたくなる。穴があったら入りたいし、なければ掘って入りたい。とはいえ、もうやってしまったことだから仕方ない。
「あの、ごめんなさい、母は出迎えに出られないのだけど……」
「先触れもなしで来たんだから構わないでください。それより母君は?」
「ああ、ちょっと伏せっているの。でももう殆ど回復しているのよ」
マリアは母が風邪をこじらせたこと、医師に診せ、お薬ももらったから問題ないことを告げる。
ルーファスの表情が曇り、マリアは慌てて話を逸らした。
「それより、良かったわ。もうルーファスがここに来るのもこれが最後だと思うから」
「……最後?」
一度ソファに座ったはずのルーファスが腰を浮かせた。
「ええ、この家も年内いっぱいなの。私たちもブレア領に戻るわ。そうしたらもう──」
「マリア」
「だから今のうちにルーファスとの約束を果たさないとって思っていたのよ。あの、『とっておきの場所』にもう一度招待するって約束していたでしょう?」
「それはそうですが。だけどマリア」
「ナァーゴのことが心配だけど、あの子はきっとどこかの家の飼い猫だと思うから、ブレアに連れて行くわけにもいかないしね」
「待ってください、マリア。なぜここを離れることに?」
ルーファスがにこやかな顔のまま、でもほんの少しだけ鋭さを声に乗せた。
「やだ、こんなお屋敷、私たちにはもう必要のないものなのよ。いつかは出て行かなくちゃね。むしろもう五年近く、住み続けていたのがおかしかったのよ」
「理由になっていませんよ。なぜ出て行くのですか?」
「その笑顔が怖いったら。……ここは抵当に入っているのよ」
オルディス家の家財一切を手放しても、両親の抱えた負債はそれらをしのぐものだった。
ブレア領は元々、ラズベリーやブルーベリー、クロスグリといったベリー類の栽培で有名な土地だ。だが、五年前の異常気象により、収穫は激減した。
マリアの父は困窮する領民を守るために、税金を免除した。不作となったベリーを高額で買い上げ、私財を投じて彼らの生活費の補填を行った。
悪いことは重なった。買い上げたベリーを売った商人に商品に傷があると難癖をつけられ、返金を求められたのだ。騙されたのだと気付いたときにはもうその商人は逃亡した後だった。そして国への税を納められずに、爵位は取り上げられた。
その結果、負債だけが残ったのである。
「でも丁度良かったわ。どうせこんな大きな家、維持費もばかにならないし」
「ですが」
「いいの。もう終わったことだから」
何か言おうとしたルーファスを遮る。
マリアにできることはもう何にもない。思い出が詰まっている場所、ナァーゴが来てくれるとっておきの場所でも、もう手放すしかない。
マリアは滲み出すものを閉じ込めるように瞬きを繰り返す。
ルーファスに婚約者がいようがいまいが、自分は王都を離れなければならない。
どれだけ心残りでも、後ろ髪を引っ掴まえられていても、いつかはさようならをする日が来る。これまでだってそうだった。終わったことだから、と自分を納得させることには慣れている。別れを告げる機会があっただけ、ましというものだろう。そもそも、婚約者の件でルーファスをなじるような立場でもないのだ。
──たとえ本当の気持ちに気付いても。
「だからもう、ダンスの相手役もこれで終わり。もう私が教えなくても、ルーファスは充分踊れるようになったから、あとは実践でいいと思うの。来月には年始の晩餐会と舞踏会があるのよね? 自信を持っていいと思うわ。三月には社交シーズンもまた始まるし、ルーファスなら大丈夫よ」
「踊りたい相手がいないのに?」
ルーファスが思いがけず真剣な目で見るので、マリアはきゅっと心臓が縮んだみたいになった。一瞬息を詰めて、それからそっとため息に混ぜて吐く。
「僕がブレアまで習いに行きますよ。それなら何の問題もないでしょう」
「な、に、言ってんの? ここからブレアまでどれだけかかるか知っているでしょう。習いに行くだなんて軽く言える距離じゃないのよ。あんた、それだけの間王都を留守にできる? 王子でしょう、わざわざそんな南まで来なくたって、練習相手の代わりはいくらでもいるじゃない!」
カッと頭に血が昇った。ルーファスはばかだ。とんでもないばかだ。少し考えればわかることじゃないか。
「踊りたい相手と踊ろうとするのはそんなにおかしいことですか?」
「私はそういうことを言ってるんじゃないの、あんたは王子でしょう!」
「僕はマリアとしか踊りたくないからいいんです」
「だからそういうことじゃ……っ」
声を荒げそうになって、母親が伏せっていることを思い出して咄嗟に口ごもる。
頭の中は血がぐらぐらして、どうやってルーファスを説得すればいいのかと考えるのに良い案が思いつかない。こっちは喉元まで込み上げる言葉を何とか押さえ付けて、別れを告げようとしているのに。
王子のくせに、そんなことを軽く言っていい立場じゃないくせに、と心の中でぷすぷすと文句だけが浮き上がって、でも口にできずに弾けて消えていく。
「あのね、マリア」
わなわなと肩を震わせるマリアの前で、ルーファスはへらりと笑った。
「僕は、いつまで『王子』なんですか」
「え? 何の……こと」
「いつになったら、マリアと同じ土俵に立てますか」
「は……?」
彼が何を言っているのかわからない。マリアは口をぽかんと開けてルーファスを見つめ返した。
「やっぱりあんたはろくでもなかった。王子だから許されるとでも思った? 馬鹿にしないで。あんたはさんざん私を弄んで、楽しかったでしょうね。言葉一つでその気になる私なんて、扱いやすかったでしょう。一度男に騙されている私なら簡単だとでも思った? 既に使い古しの身体なら何をしても大丈夫って? そうよ、私は馬鹿だから舞い上がったわよ。あんたは王子だって言うのに、微塵も疑わなかった。何か言えないことがあるのかなとは思ってたけど」
「マリア?」
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「マリア、待って、何の話だかさっぱりわかりませんよ」
ルーファスが彼女をぐいと引いた。マリアはその腕から逃げようともがいた。
感情が高ぶってしまって涙がぼろぼろと零れる。構わず暴れるマリアをルーファスが押さえ込む。
「離して! 触らないで! もう嫌なの! また同じなんてもういや……! あんたに婚約者がいるなんて、知りたくなかった!」
「え……?」
ルーファスがはっとして、それから表情をゆるゆると緩めた。でもマリアは頭がぐちゃぐちゃで、なぜ彼がはっとしたのかにまで思い至らない。
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泣き疲れてきて、ルーファスを押しのけるのを諦める。声が枯れ、喉がひりひりする。いつの間にか、その手は逆にルーファスの外套の袷にすがりついていた。握り締めた場所のすぐ上で、濃い染みがみるみるうちに広がる。
──やだ、やだ、あんたになんて触られたくない。
それなのに抱き込まれた背中にルーファスの手が何度も押し当てられ、宥めるようにさすられる。
それをどうしようもなく心地よいと感じてしまう自分が嫌で、情けなくて胸が痛くて、涙が止まらない。
彼の胸が、涙で濡れそぼった頬を温めてくれる。心の中では盛大に罵っているのに、その温かさから出て行きたくないと本能が叫ぶから身動き出来ない。
どうして自分はいつも間違えるんだろう。近付いてはいけない人にばかり近付いてしまう。
ぽつりと、温かい涙みたいな呟きが伏せた頭の上に落ちてきた。
「マリアは、僕が好きなんですか?」
「好きなんかじゃないわよ、自惚れないで……私はあんたが私を騙してたことを怒ってるんだから」
「僕は、初めて会ったときからマリアが好きですよ。怒っていてもマリアは可愛い」
「そうやってあっちにもこっちにも調子のいいこと言わないで」
「本当ですよ。僕はね、マリアが弱音を吐けないから好きになったんですよ。図書館で出会ったときだって最後まで涙をこらえていたでしょう? だから今マリアが僕に涙を見せてくれるのが嬉しい」
「誰のせいで泣いてると思ってんの。あんたが一番非道だわ」
「はは、非道ですか。相変わらずマリアさんらしい……。でも、誤解があるみたいですね」
「誤解?」
顔を上げたら、ルーファスを彩る琥珀色がとろりと溶け出して蜂蜜みたいな甘さを纏っていた。
その目が狡い、とまた心の中で毒づいてみせる。でもやっぱり心の奥深くは正直で、どんなに意地を張っても、認めたくなくても、思い知らされる。
──ルーファスに惹かれてる。もう抜け出せなくなっている。
マリアを抜き差しならないところに追い込んだ当の本人は、相変わらずの笑みでゆったりとマリアの背中を撫でながら続けた。甘ったるい眼差しで。
「婚約者の話はどこから聞いたんですか?」
「イエーナ殿下が教えてくださったのよ。あんたが、婚約者のいる身で間違いを起こさないようにって、私が──」
──あんたに好意を寄せているから、ショックを受ける前にって。
無邪気な王女殿下の笑みが蘇って、マリアはまた胸がずきりと痛みを訴えるのを感じた。
悔しいけど、ルーファスの顔を見たらわかった。彼女の言う通りだ。
「何でもない」
「ふぅん、イエーナが……?」
ルーファスが考え込むように眉をぴくりと上げる。その様子に何か引っかかることでもあるのかと尋ねるより早く、彼が満足そうに口元を緩めた。
「それでマリアは僕に決まった相手がいると思って泣いたんですね」
「違うってば。あんたに騙されたと思ったからよ」
「僕には婚約者などいませんよ。厄介なしがらみはありますが……マリアとの仲を深めるのには全く問題ない。それより、ねえ、マリア。知ってます?」
「何よ」
「マリアが、僕のことをあんたって呼ぶときは」
柔らかな目が細められる。いつもより真摯な笑みがマリアを抱き締める力を強くして、近付いて来た。
──マリアが、強がっているときなんですよ。
耳元で囁かれた瞬間、心臓が突き抜けてルーファスにぶつかるんじゃないかと思った。多分いま、呼吸も止まった。
「それにマリア。その話は嘘ですよ」
「へ……?」
「僕には婚約者はいません。いたこともありませんよ」
呆然とルーファスを覗き込むと、彼がくしゃりと笑みを一層崩した。それから愉快だとでも言うように、マリアの濡れた目元に何度も唇を落とした。
目元が腫れてひりひりする。マリアは決まり悪い思いでルーファスをサロンに通し、お茶を淹れた。
さっきの話を母親に聞かれていたらどうしよう。いや、母親だけではない。今更ながら消え入りたくなる。穴があったら入りたいし、なければ掘って入りたい。とはいえ、もうやってしまったことだから仕方ない。
「あの、ごめんなさい、母は出迎えに出られないのだけど……」
「先触れもなしで来たんだから構わないでください。それより母君は?」
「ああ、ちょっと伏せっているの。でももう殆ど回復しているのよ」
マリアは母が風邪をこじらせたこと、医師に診せ、お薬ももらったから問題ないことを告げる。
ルーファスの表情が曇り、マリアは慌てて話を逸らした。
「それより、良かったわ。もうルーファスがここに来るのもこれが最後だと思うから」
「……最後?」
一度ソファに座ったはずのルーファスが腰を浮かせた。
「ええ、この家も年内いっぱいなの。私たちもブレア領に戻るわ。そうしたらもう──」
「マリア」
「だから今のうちにルーファスとの約束を果たさないとって思っていたのよ。あの、『とっておきの場所』にもう一度招待するって約束していたでしょう?」
「それはそうですが。だけどマリア」
「ナァーゴのことが心配だけど、あの子はきっとどこかの家の飼い猫だと思うから、ブレアに連れて行くわけにもいかないしね」
「待ってください、マリア。なぜここを離れることに?」
ルーファスがにこやかな顔のまま、でもほんの少しだけ鋭さを声に乗せた。
「やだ、こんなお屋敷、私たちにはもう必要のないものなのよ。いつかは出て行かなくちゃね。むしろもう五年近く、住み続けていたのがおかしかったのよ」
「理由になっていませんよ。なぜ出て行くのですか?」
「その笑顔が怖いったら。……ここは抵当に入っているのよ」
オルディス家の家財一切を手放しても、両親の抱えた負債はそれらをしのぐものだった。
ブレア領は元々、ラズベリーやブルーベリー、クロスグリといったベリー類の栽培で有名な土地だ。だが、五年前の異常気象により、収穫は激減した。
マリアの父は困窮する領民を守るために、税金を免除した。不作となったベリーを高額で買い上げ、私財を投じて彼らの生活費の補填を行った。
悪いことは重なった。買い上げたベリーを売った商人に商品に傷があると難癖をつけられ、返金を求められたのだ。騙されたのだと気付いたときにはもうその商人は逃亡した後だった。そして国への税を納められずに、爵位は取り上げられた。
その結果、負債だけが残ったのである。
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「ですが」
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何か言おうとしたルーファスを遮る。
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──たとえ本当の気持ちに気付いても。
「だからもう、ダンスの相手役もこれで終わり。もう私が教えなくても、ルーファスは充分踊れるようになったから、あとは実践でいいと思うの。来月には年始の晩餐会と舞踏会があるのよね? 自信を持っていいと思うわ。三月には社交シーズンもまた始まるし、ルーファスなら大丈夫よ」
「踊りたい相手がいないのに?」
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カッと頭に血が昇った。ルーファスはばかだ。とんでもないばかだ。少し考えればわかることじゃないか。
「踊りたい相手と踊ろうとするのはそんなにおかしいことですか?」
「私はそういうことを言ってるんじゃないの、あんたは王子でしょう!」
「僕はマリアとしか踊りたくないからいいんです」
「だからそういうことじゃ……っ」
声を荒げそうになって、母親が伏せっていることを思い出して咄嗟に口ごもる。
頭の中は血がぐらぐらして、どうやってルーファスを説得すればいいのかと考えるのに良い案が思いつかない。こっちは喉元まで込み上げる言葉を何とか押さえ付けて、別れを告げようとしているのに。
王子のくせに、そんなことを軽く言っていい立場じゃないくせに、と心の中でぷすぷすと文句だけが浮き上がって、でも口にできずに弾けて消えていく。
「あのね、マリア」
わなわなと肩を震わせるマリアの前で、ルーファスはへらりと笑った。
「僕は、いつまで『王子』なんですか」
「え? 何の……こと」
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