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第二章 天使時間の歯車

2-5 ……ほんとなんかごめんなさい

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 「……なんかいい顔つきになったよな」

 「……そう?」

 翌日、いつも通りに魔法教室に顔を見せると、しょっぱなから明楽が声をかけてきた。

 「ああ、なんか『生きてる!』って感じの顔をしているぜ」

 「まあ、生きているしね」

 そんな軽口を交わしながら考える。きっと、一昨日まではどうしようもないほどに死んでいた顔をしていたのだろう。こうしていろんな人から声をかけられると、葵以外迷惑をかけていたことを認識して、申し訳なく感じる部分がある。

 「今日からはそこまで深刻に捉えずに頑張るからさ、明楽も頑張って」

 「おう、その意気だぜ。……俺はできるかわからないけど」

 そこは断言してほしいところだけれども仕方がない。僕は今でこそ慣れてはいるけれど、夏休みに入るまでは僕も自傷行為が苦手でなかなか行動することができなかったのだから気持ちはわかる。そういう時には自分のペースでやるしかないから、それ以上に言葉かけをしない。それが負担になるのが申し訳ないから。

 

 「あれ。環くん珍しいね。ここ最近ずっと君の血を眺めていた気分だったけれど」

 特に僕がナイフを使わずに、周囲を見ているのが珍しかったのか、立花先生が声をかけてくる。

 「ええと。きっと、まだ魔法を心の底で信じられていないかもしれないので、他の人が魔法を発動する姿を見て、心に刻み付けようかなって」

 実際、自傷行為をすることには長けてはきたが、それ以外のことに関してはからっきしだ。詠唱もまだ最初に教えてもらった水の魔法しか覚えることができていない。

 いつもなら、他の人をよそに考えて、ひたすらにリストカットを行い血液を飾るだけの生活だっただろうが、今日からは少し変えてみなければいけない。

 「うん、いい顔になったじゃないか」

 「……なんか、皆からそう言われるんですけれど」

 昨日のサイクリング(結局海に行くことはできなかった)を経た翌日、いつも通りだと思う顔をぶら下げながら葵と学校に向かっていると「なんか調子よさそうだね!」とか、同級生の名前もよく知らない子からも「今日は顔が死んでないね」とか声をかけられた。それほどまでにここ最近の自分はどうしようもない存在であったことを認識する。だからこそ、今の僕にできることを探しながら頑張っていくしかない。だからこその、周囲の人の行動に注目するのだ。

 「いやあ、本当にここ最近の君はゾンビみたいな感じだったからねぇ。血が出て貧血気味になって顔が真っ青になるのはわかるけれど、それにプラスして、今にも死にたそうな顔ばかりをぶら下げていたから、そりゃ皆に言われるだろうね」

 「……そんなにひどかったんですか?」

 「うん、ひどかった。あまり表情に出さない天音ちゃんが君の顔を見て、少しだけ眉を八の字に捻るくらいには」

 「それ相当じゃないですか……」

 彼女が表情を歪ませるところなど、今までで一度も見たことがないのだけれども、僕の顔を見て彼女は本当にそんな顔をしていたのだろうか。それに関しては申し訳なさよりも、単純な好奇心の方が上回るような気がした。

 「でも、君がようやく魔法を受け容れてくれようとするとはね。自傷行為から目を背けてくれるのは、僕としてもうれしいもんだよ。

 ぶっちゃけ、床に血液を垂らされて掃除が面倒だなぁ、って思っていたから、そういう風に魔法を見学してくれる方が僕も助かるなぁ」

 「……ほんとなんかごめんなさい」

 心の底から出るため息と同じようなか細い声。

 だからこそ、ここから変わっていこう。今までの自分を否定するわけではないけれど、それでも頑張ってやっていこうじゃないか。





 学校の授業を楽しいと思える人間は希少な存在だと思う。それは自分自身を高める目的で行っているのか、それとも単純に学習をすることが楽しいと考えているのか、そのどれなのかはわからない。だからこそ、きちんと集中している人間が一定数いることをクラスの中で確認すると、僕もきちんとやらなければいけないような気持ちにさせられる。

 勉強については好きではない。ただ、家に帰れば、特に娯楽類などが家にあるわけでもないので、適当に国語の教科書を読んだり、数学の格好いい単語を認識したりする日々が続いていたから、この前までは特に悪い点数を取ったことはない。

 でも、今はどうだろうか。

 魔法教室に通うようになってから、家に帰れば即就寝し、そして夜に備えるのだから、最近ではそんな時間をとることさえもできなくなってきている。だからこそ、夏休み前の期末で散々な点数を取ったのだけれども。

 そんな反省を生かして、きちんと僕も目の前に板書されている文字をノートに書き写す。最近まではそんなこともせず、自分がどうやったら魔法を発動できるのかばかりを考えていたので、それを改善できるようにしなければいけない。

 ──ふと、書き写そうとするシャープペンシルの動きが止まった。

 別に書き写そうとした文字が分からなくなって止めたわけではない。でも、シャープペンシルはそれ以上にノートへと書き写すことはできない。

 ふと、気づく。

 世界がどこまでも静かすぎる。思えば、呼吸がおぼつかない感覚。そもそも呼吸ができていないような、それこそ真空であるかと錯覚するほどに苦しいなにか。

 周囲を確認しようとするけれど、身体は愚か、視線でさえも動かない。

 腕、指、どれだけ力を加えても動こうとしない。

 ──と、思っていたら。

 いつの間にか、シャープペンシルは続きをなぞり始めて、そうして、勢いよくノートに刺さって芯が折れる。先ほどまであった静けさと真空のような空間が、いつのまにか解放されていて、特に何かあったわけでもないように、世界はいつも通りを繰り返す。

 何だったのだろうか、今のは。

 ……ここ最近は、貧血が多かったから、疲れが出てしまったのかもしれない。僕は何も気にしないことにして、そうしてノートの続きをまた書き始めた。
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