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プレモロジータ伯爵邸(3)

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 先日はたまたま直接お母様が私に気づいたけれど、下級使用人の採用は普通の家令や執事の裁量であることが多い。

 そして、屋敷の主人のお茶を出すという仕事は、執事や近侍などの上級使用人が行うのが当たり前。

 今回は場所が庭で、恐らく急を要しているので、そこまでこだわらないということのようだ。

 こんなこと普通はまずありえない。

 ――だからこそ、失敗は許されないわ。

 気を引き締めて、指定された場所へ向かった。



 ――ショキン! ショキン!

 小気味のいい音がする。

 あっ、あの、背中……。

 見間違えるはずもない。



「お、見ない顔だと思ったら、君はあれか。教会から来た新しいメイド見習い」

「お目にかかれて光栄でございます。ラーラと申します」

「やあ、助かった。手入れに精を出したら急に喉が渇いてきてね。バラは私の生きがいなのだ」



 年月を刻んだ頬や額のしわ。

 色を失った髪。

 それでも、骨格や笑い顔、剣で鍛えた立派な肩回りは、かつてのお父様の面影がしっかり残っていた。

 ――もしかして、私がバラが好きだったから?

 領主が庭師のまねごとなんて、本来ならおやりになるはずもないのに。

 駆け寄って、縋りついて、聞きてみたい。

 そんなことができるはずがないとわかっているから、気持ちを堪えて、ゆっくりとお茶を差し出した。

 くいっと勢いよく飲む姿。

 お母様によく注意されていた、懐かしいお父様の仕草。


「ふう、潤った……」

「見事な枝ぶりでございます。ダマスク、こちらはアルバでございましょうか?」

「……これは驚いた。ニーナが言っていた通り、孤児とは思えない口ぶりだ。教会で君を指南してくれた者があったのかな?」



 いいえ……。でも、お父様、あなたに指南していただきました……!

 その一言が言えたらいいのに。

 じわじわと気持ちが高まって、目が熱くなってくる。

 こんなところで粗相をしてはだめ。

 気持ちを入れ変えて、微笑んで見せた。

 ご令嬢はいつでも笑みを。

 お母様の教えは、どんなときも私に力をくれる。



「教会でいろいろと学びましたが、今はこのお屋敷での暮らしが私にたくさんのことを教えてくれます」

「……そうか。よく励みたまえ」

「身に余るお心遣い感謝いたします」

「……」



 丁寧にお辞儀をして、背を向けた。

 もっと話したい。

 もっとお側にいたい。

 もっとお父様の姿を見ていたい。

 だけど、これが伯爵家と使用人の距離。

 脚は前に進んでいるのに、心はいつまでもそこで足踏み。

 こうして言葉を交わせるなんて、こんな幸運はもうしばらくないわ。

 ああ、どうしましょう……。

 泣きそう……。

 手がふさがっていて、涙を拭くこともできない。

 このまま帰ったら心配されてしまうわ……。

 どこかでトレーを置くか、涙が渇くまで人気のないところで乾かさなければ。

 ちょうど柱の陰のくぼみがある。

 私はそこに身を隠すようにして壁のほうを向いた。

 ひんやりとした石の壁が、火照った頬を冷やしてくれた。



「こんなところでなにしているのかな?」



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