魔王さまの婚約者

まあや

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第二章 婚前旅行編

19 夜の散歩

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 ある夜、目が覚めたミリアはそっと自室を出た。
(いつもは寝てしまえば目は覚めないのに……)
 とはいえせっかく起きたのだ。ルーカスに夜の突撃訪問でもしようと思い立つ。息を殺して隣のルーカスの部屋の前に立ち、扉に耳を当てる。気配はない。執務室にでもいるのかもしれない。
 灯りのない通路を一人歩く。魔物は夜に活発に動くイメージがあるが、魔王城の魔物たちは朝早く起きて夜は寝るのでとても静かだ。
 ふと、窓の外に目を遣る。
 夜空には、星が淡く瞬くだけだった。
(今日は新月なのね)
 どうりで暗いはずだ。
 しばらく歩くと、前方から何者かの気配を感じた。
 足音は二つ。一つは聞いたことがあるが、もう一つは知らないものだ。
「ウィル? 帰ったの?」
 ウィルはしばらく視察に出ていたはずだが、足音は間違いなく彼のものだ。
「ミリア様? こんな時間にどうして――」
 戸惑うウィルを置いて、ミリアは少し身体を屈めた。暗闇に目が慣れて、もう一人が薄っすらとその輪郭を露わにしたからだ。
「初めまして。あなた、ウィルの隠し子?」
「…………」
「ミリア様、誤解を生むような発言は謹んで……ぐっ」
 ウィルはいきなり苦しげな声を上げる。
「へぇ……ウィル坊、随分帰って来ないと思ったら、貴方の子供を迎えに行ってたの?」
 ドスの利いた声は冷気を帯びていて、何やらギシギシという音も聞こえるから首を絞められているのだろう。
「待て! ローラ……げほっ、ご…かいだ! よく見ろ、この子はどちらかといえばルーカス様似だろ⁉︎」
「まぁ。ルーカス様の隠し子だったの?」
「……お前ら、真夜中に騒ぐな。あと、俺に子はいない。巻き込むな」
 突然廊下に明かりが灯る。気づけばルーカスがミリアの側に立っていた。ミリアに悟られることなく近づくとは流石である。
「こんばんは。ルーカス様、いい夜ですね」
「……そうだな。騒音さえなければいい夜だ」
 ミリアは再び屈む。これだけ騒いでもなお、ウィルが連れて来た子どもは一言も発しなかった。
 まじまじと子どもを見つめる。
 象牙色の肌はこの辺りでは珍しいが、黒髪と真紅の瞳はとても見慣れたものだ。ウィルがルーカス似と称したのも頷ける。
 無表情と整った顔立ちが相まって彫像のような印象を与えるところもよく似ている。
 決定的に違うのは、少年の頭に小ぶりな二本の角が生えていることだ。
 異形のものであることは明らかだ。
「お名前は? て言っても、通じないわね」
「…………」
 真紅の瞳は、何の感情も映していない。
 ミリアは思考を巡らし、再び口を開いた。
『あなたは鬼なの?』
 桃色の唇から紡がれた言葉は、遠い東の島国のものだ。
 少年の表情が少し変わった。
 小さく頷く。
 ミリアは優しく微笑みかけた。
『わたし、鬼を初めて見たの。会えて嬉しいわ』
『人間なのに……鬼なんて気味が悪くないの?』
 冷めた声はどこか敵意を孕んでいる。しかし、百戦錬磨のミリアがそんなことを気にするはずがない。出会ったばかりの頃のルーカスの態度の方がよほど酷かった。
『わたしは魔王さまの婚約者です。いつも人外と一緒にいるのに、あなたを気味が悪いなんて思うわけないでしょ?』
 少年は戸惑うように目をミリアから逸らした。
『あなたの名前を呼びたいのだけれど……』
『名前なんてない』
 素気無く返され、ミリアはルーカスを見遣った。
「ルーカスさま、この子に名前をつけてもいいですか?」
「……構わないが、今日は寝ろ。身体に障るぞ」
「わかりました」
 聞き分けの良い返事をすると、ミリアはにっこりと少年の手を握る。
『これからよろしくね、小鬼さん。また明日』
 少年は手を握り返すことはなかったが、振り払いもしなかった。
 金の髪を揺らしながら遠ざかる背中を見て、吐き捨てる。
『変な女……』
 胸に何か詰まったような、人生で抱いたことのない感覚に、少年は困惑を隠しきれずにいた。

「お前はこんな遅くに何をしていたんだ?」
「ルーカスさまに突撃訪問しようと思いまして」
「……夜に男に会おうとするのは感心しないな」
 話が説教になりそうなので、ミリアは笑顔で話題をすり替えた。
「わたし、寝つきはいい方なんですけど、今日は目が覚めてしまいましたの。きっと、あの子が来たからですね」
 ミリアはじっと、ルーカスの表情を探る。あの少年がルーカスの隠し事に関わっているのは間違いないからだ。
 さらに追及する。
「あの子、日の国の子みたいですけど、どうしてここに連れて来たんですか?」
「……色々と事情があるんだ。だがウィルが子供を連れて来ると報告したのは昨日だったから、詳しい話は俺も聞けていない」
「詳しい話を聞いたとしても、わたしに伝える気はあまりないですよね」
 ルーカスは息を詰まらせた。
 沈黙が二人の間に落ちる。ルーカスはどこか拗ねたようにそれを破った。
「…………黙っていても、お前はその内真相に辿り着くだろう」
「あら、買いかぶりすぎですよ? ふふ、でもそこまで期待してくださるなら、応えちゃいましょうかね」
 「いや別に応えてくれなくても……」と何やらルーカスがもごもご言っている間に、ミリアの部屋の前に到着した。
 ミリアは軽く頭を下げた。
「送ってくださってありがとうございます。ではおやすみなさ――」
 自室に入り、扉を閉めようとすると、ルーカスは扉に手をかけ、それを阻んだ。
 ミリアは内心冷や汗をかいた。
(危なかった……。うっかり勢いよく閉めてルーカスさまの指を引き千切らなくて良かった。いや治せますけどね)
 ミリアの動揺も知らず、ルーカスは耳元で囁いた。
「せっかく送ってくれた婚約者をもてなしてはくれないのか?」
「さっき寝ないと体に障るとか、夜に男と同じ部屋にいるのは感心しないとか言ってた口はどこですかね」
「思ったよりお前の目が冴えてるようだから良いかと」
 ミリアは少しだけ逡巡したが、結局は招き入れた。
 困ったように微笑む。
「これがお父さまにバレたら、ルーカスさまの命は露と消えてしまうかもしれませんね」
 ルーカスは目に見えて顔色を変えた。
「頼むから墓場まで隠してくれ」
「わかってますよ」
 ミリアは愛しい婚約者のために手ずからお茶を淹れた。
 ルーカスはどこか落ち着かなさそうだ。それも当然だ。可愛らしさを全面に押し出した内装は、闇の化身のようなルーカスには似合わない。
 ルーカスは茶を啜りながら、思い出したように問う。
「お前は俺に会って何をするつもりだったんだ? 最初は部屋に来たのだろう?」
「え? ……特に何も考えておりませんでした」
「そうか」
 ルーカスはそう言うなり立ち上がり、ミリアのベッドに入った。
「ルーカスさま?」
 ミリアはルーカスの奇行に目を丸くする。加えて、レースがふんだんに使われたそれに入ったルーカスの異様さに笑いを堪えたため、少し声が震えた。
「……俺は寝ているから、好きにしていいぞ」
(なるほど、ルーカスさまは、もしわたしの突撃訪問が成功したらどうしていたか再現してほしいのね)
 ミリアは固く目を瞑ったルーカスの横顔を見つめる。
 視線がくすぐったいのか、ルーカスの眉間に皺が寄ったのでちょっと揉んでやった。
(さて、どうしますかね)
「ルーカスさまは寝ているから、何を言ったって大丈夫ですよね?」
 ルーカスは小さく頷いた。その動きにまた笑いが込み上げる。
 柔らかな唇を、耳に触れるか触れないかという距離まで近づける。
「ルーカスさま、だいすきですよ。日が経つにつれてもっともっと好きになってます」
 そのまましばらくの間愛の言葉を囁き続けていたら、我慢の限界がきたルーカスが跳ね起きた。
 耳まで完全に真っ赤になってしまっている。
「あら、起きられましたの?」
 ミリアの笑い混じりの問いかけに、ルーカスは熱を帯びた眼差しを向ける。
 そしてベッド脇に膝をついていたミリアを抱き上げ、自らの膝の上に乗せた。
「……俺もお前が好きだ。こんなに人を好きになるなんて思ってもみなかった」
 思いがけない熱烈な告白に、ミリアは頰を赤らめた。上目遣いでルーカスを詰る。
「ルーカスさまったら、いつの間にそんなこと恥ずかし気もなく言えるよう、に――⁉︎」
 ルーカスがいきなり自分の頬を拳で殴ったのだ。骨がきしむ音に目を丸くする。
「どうされました⁉︎」
「……いや、こうでもしないと理性を保てる気が……。何でもない。部屋に戻る」
「わかりました。お大事に」
 ミリアはルーカスの頬を魔法で癒した。ついでに頬を一撫でする。
 ルーカスは耐えきれなくなったらしく、離れかけた手首を掴み、柔らかな掌に口づけた。
「おやすみ、ミリア」
 優しく細められた紅玉の瞳が、手首を掴む熱が、どうしようもなく胸を締め付けた。
 ミリアは甘い空気に耐えられず、ルーカスを部屋から押し出した。
「おやすみなさいませ!」
 扉を閉じると、ずるずると床に座りこむ。
 眼裏には先程の光景がこびりついてしまった。
 頬の熱は、当分引きそうにない。
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