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第一部
再会と嫉妬
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今日は、午後から消耗品と生鮮食品の買い足しのために市場街にきていた。
様々な色で溢れるこの場所は何度来ても胸が躍る。
「ミルクも洗剤も買ったし……これで全部、かな」
目的のものをあらかた買い終えた街角で、ふと目に入った顔に凍りついた。
前に仕えていたあの坊ちゃんだ。
あちらも私に気づいたらしく、認識した瞬間――にっこり笑って、こちらに近づいてくる。
「――リズ、久しぶりだな。元気にしていたか?」
「はい、おかげさまで……」
彼は私の手にふっと触れてきて、親しげに腕を取る。
触れ方は昔と変わらない。
どこか軽やかで、どこか狡い。
「君は変わっていないな。顔を見てすぐにわかったよ」
相変わらずきれいだ、なんて言葉を添えられてつい顔が熱くなる。
昔から、こういう言葉を言われると弱かった。
「そ、そんな……」
「否定しないでほしい。僕はよく知ってる。一番近くで君を見てきたんだから」
さらりと放たれるその言葉に、胸の奥がわずかにざわめく。
「……その、坊ちゃん」
慌てて手を振り払おうとしたところで、反対に強く引き寄せられ一気に顔の距離が縮まる。
香水の甘ったるい香りが鼻をかすめた。
「リズ」
彼は少し視線を落として、囁くように続けた。
声は低くて、それでいて香水に負けないくらい甘い。
「君を手放したのは、僕の人生最大の失敗だった」
「……っ」
「だから取り戻す。君は僕にとって特別なんだ。誰に何を言われても構わない。君が欲しい」
頬に手が触れて、指先で顎を軽く持ち上げられる。
あの頃と同じ仕草。
「……な、何をおっしゃって……」
否定の言葉が喉に詰まった。
私が返事できないでいると、坊ちゃんは私の唇をスッとなぞり、ゆるりと微笑んだ。
「それで、君は今はどこで働いてるんだい?」
「……えっと、作家業をされている旦那様のお屋敷で――」
「へえ。そうか……随分かわいがられているみたいだね」
「えっ、な、何のことですか……?」
坊ちゃんがわざとらしく私の首元をトントンと指で叩く。
「……あっ」
彼が触れた場所にあるものを思い出して一気に顔が赤くなる。
昨晩、フェイ様に「キスマークを付けられた時の感覚を教えてくれるかい」なんて言われて、全身いたるところにキスマークを付けられたうちの一つ、それが首元にあったはず。
坊ちゃんがフッと目を細めて「にしても――」と続ける。
「君が他の男に仕えているなんて、想像するだけで我慢ならないな」
「……っ」
彼の眼差しは冗談の色を一切含まず、鋭い光を宿していた。
「君にはもっと良い場所があると思うんだ」
「もっといい場所、ですか?」
「ああ。――ウチに来ないか?給料は今の倍は出すよ。君を傍に置いて、二度と離したくない」
「い、今は旦那様のもとで誇りをもって働いております。だから――」
彼の瞳がじっと私を測るように光る。
間合いを詰められ、耳元で囁かれた。
「ならその誇りごと奪わせてくれ。君がもっと誇りを持てる環境を、僕が全部用意する」
「……っ」
言い方はさらりとしているのに、底にある熱が強すぎて受け流し難い。
「私は……今の生活でとても満足していますし……辞める気は一切ありませんので」
自分に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ふーん」
坊ちゃんは微笑を深め、私の手を取ってくるりと指を絡めるようにしてから、小さなカードを掌に押し付けた。
「君が満足しているのはわかる。でも、それは“今だけ”だ。いつか必ず壁にぶつかる。その時に思い出してくれ――僕なら、君を守れる」
「……っ」
その声音が真剣であればあるほど、心臓が跳ねてしまう自分が悔しかった。
――その夜。
後片づけを終えて廊下を歩いていると、フェイ様に呼び止められた。
「……リズ」
「はい、フェイ様?」
振り返ると、フェイ様が一枚のカードを指先に挟んで私を見下ろしていた。
箔押しの繊細な模様が入った高級そうな紙。
そしてそこには見覚えのある字で書かれた住所。
心臓が詰まるように冷えた。
「これは……一体何だい?」
言い訳は通じない、そんな雰囲気。
私は観念して昼間の一部始終を話した。
「今日、以前勤めていたお屋敷の坊ちゃんに偶然お会いして……その時に手渡されたものです」
フェイ様の眉が深く寄る。
声が低くなって、問いが続く。
「坊ちゃん、というのは――」
以前話していた初めての相手なのか、そう問いたいのだろうというのはすぐに分かった。
「はい……以前お話しした、あの方です」
「……っ」
フェイ様の目が泳ぐ。
「彼は何と言って君にこれを?」
「えっと、それは……」
昼間の出来事を思い返しながら、坊ちゃんの言葉をなぞるように言葉にする。
「『ウチに来ないか?給料は今の倍は出すよ。』と」
「……なんと、答えたんだい?」
「私は行くつもりはありませんので丁重に断りました」
「そうか」
言葉を重ねるたびに、彼の顔色は暗くなっていく。
やがてぽつり、と漏らすように言った。
「……甘い香り」
「え?」
「香水の甘い香りが、なぜ君の身体からするんだい?」
低い声。
私は驚いて目を見開いた。
フェイ様に責めるつもりはないのだろうけど、言葉の端々が鋭く突き刺さる。
「そ、それは……っ」
昼間、坊ちゃんに近づかれたとき、衣服に香りが移ったのだろう。
そう説明しようとしたのに、声がうまく出ない。
フェイ様は一歩踏み出し、私の肩に手を置いた。
指先がわずかに震えている。
「……彼と、どれほど近づいた?」
「ち、近づいたって……ただ少し、お話を――」
「“少し”で、こんなに香りが残るのか?」
問い詰める声はかすかに掠れている。
怒りというより、焦りの混じった熱。
まるで、自分でも抑えられない感情に振り回されているようで。
「……フェイ様……」
名前を呼んでも、彼は視線を逸らさない。
強すぎる眼差しに胸が締めつけられる。
やがて彼ははっとしたように目を伏せ、肩に置いた手を離した。
「……すまない」
それだけを短く言い残して、私に背を向けて書斎へと入っていく。
扉が閉まる音はひどく冷たく、廊下に残された私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
――あれは、怒り?
それとも……。
答えの出ない焦燥だけが、胸の中に残った。
様々な色で溢れるこの場所は何度来ても胸が躍る。
「ミルクも洗剤も買ったし……これで全部、かな」
目的のものをあらかた買い終えた街角で、ふと目に入った顔に凍りついた。
前に仕えていたあの坊ちゃんだ。
あちらも私に気づいたらしく、認識した瞬間――にっこり笑って、こちらに近づいてくる。
「――リズ、久しぶりだな。元気にしていたか?」
「はい、おかげさまで……」
彼は私の手にふっと触れてきて、親しげに腕を取る。
触れ方は昔と変わらない。
どこか軽やかで、どこか狡い。
「君は変わっていないな。顔を見てすぐにわかったよ」
相変わらずきれいだ、なんて言葉を添えられてつい顔が熱くなる。
昔から、こういう言葉を言われると弱かった。
「そ、そんな……」
「否定しないでほしい。僕はよく知ってる。一番近くで君を見てきたんだから」
さらりと放たれるその言葉に、胸の奥がわずかにざわめく。
「……その、坊ちゃん」
慌てて手を振り払おうとしたところで、反対に強く引き寄せられ一気に顔の距離が縮まる。
香水の甘ったるい香りが鼻をかすめた。
「リズ」
彼は少し視線を落として、囁くように続けた。
声は低くて、それでいて香水に負けないくらい甘い。
「君を手放したのは、僕の人生最大の失敗だった」
「……っ」
「だから取り戻す。君は僕にとって特別なんだ。誰に何を言われても構わない。君が欲しい」
頬に手が触れて、指先で顎を軽く持ち上げられる。
あの頃と同じ仕草。
「……な、何をおっしゃって……」
否定の言葉が喉に詰まった。
私が返事できないでいると、坊ちゃんは私の唇をスッとなぞり、ゆるりと微笑んだ。
「それで、君は今はどこで働いてるんだい?」
「……えっと、作家業をされている旦那様のお屋敷で――」
「へえ。そうか……随分かわいがられているみたいだね」
「えっ、な、何のことですか……?」
坊ちゃんがわざとらしく私の首元をトントンと指で叩く。
「……あっ」
彼が触れた場所にあるものを思い出して一気に顔が赤くなる。
昨晩、フェイ様に「キスマークを付けられた時の感覚を教えてくれるかい」なんて言われて、全身いたるところにキスマークを付けられたうちの一つ、それが首元にあったはず。
坊ちゃんがフッと目を細めて「にしても――」と続ける。
「君が他の男に仕えているなんて、想像するだけで我慢ならないな」
「……っ」
彼の眼差しは冗談の色を一切含まず、鋭い光を宿していた。
「君にはもっと良い場所があると思うんだ」
「もっといい場所、ですか?」
「ああ。――ウチに来ないか?給料は今の倍は出すよ。君を傍に置いて、二度と離したくない」
「い、今は旦那様のもとで誇りをもって働いております。だから――」
彼の瞳がじっと私を測るように光る。
間合いを詰められ、耳元で囁かれた。
「ならその誇りごと奪わせてくれ。君がもっと誇りを持てる環境を、僕が全部用意する」
「……っ」
言い方はさらりとしているのに、底にある熱が強すぎて受け流し難い。
「私は……今の生活でとても満足していますし……辞める気は一切ありませんので」
自分に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ふーん」
坊ちゃんは微笑を深め、私の手を取ってくるりと指を絡めるようにしてから、小さなカードを掌に押し付けた。
「君が満足しているのはわかる。でも、それは“今だけ”だ。いつか必ず壁にぶつかる。その時に思い出してくれ――僕なら、君を守れる」
「……っ」
その声音が真剣であればあるほど、心臓が跳ねてしまう自分が悔しかった。
――その夜。
後片づけを終えて廊下を歩いていると、フェイ様に呼び止められた。
「……リズ」
「はい、フェイ様?」
振り返ると、フェイ様が一枚のカードを指先に挟んで私を見下ろしていた。
箔押しの繊細な模様が入った高級そうな紙。
そしてそこには見覚えのある字で書かれた住所。
心臓が詰まるように冷えた。
「これは……一体何だい?」
言い訳は通じない、そんな雰囲気。
私は観念して昼間の一部始終を話した。
「今日、以前勤めていたお屋敷の坊ちゃんに偶然お会いして……その時に手渡されたものです」
フェイ様の眉が深く寄る。
声が低くなって、問いが続く。
「坊ちゃん、というのは――」
以前話していた初めての相手なのか、そう問いたいのだろうというのはすぐに分かった。
「はい……以前お話しした、あの方です」
「……っ」
フェイ様の目が泳ぐ。
「彼は何と言って君にこれを?」
「えっと、それは……」
昼間の出来事を思い返しながら、坊ちゃんの言葉をなぞるように言葉にする。
「『ウチに来ないか?給料は今の倍は出すよ。』と」
「……なんと、答えたんだい?」
「私は行くつもりはありませんので丁重に断りました」
「そうか」
言葉を重ねるたびに、彼の顔色は暗くなっていく。
やがてぽつり、と漏らすように言った。
「……甘い香り」
「え?」
「香水の甘い香りが、なぜ君の身体からするんだい?」
低い声。
私は驚いて目を見開いた。
フェイ様に責めるつもりはないのだろうけど、言葉の端々が鋭く突き刺さる。
「そ、それは……っ」
昼間、坊ちゃんに近づかれたとき、衣服に香りが移ったのだろう。
そう説明しようとしたのに、声がうまく出ない。
フェイ様は一歩踏み出し、私の肩に手を置いた。
指先がわずかに震えている。
「……彼と、どれほど近づいた?」
「ち、近づいたって……ただ少し、お話を――」
「“少し”で、こんなに香りが残るのか?」
問い詰める声はかすかに掠れている。
怒りというより、焦りの混じった熱。
まるで、自分でも抑えられない感情に振り回されているようで。
「……フェイ様……」
名前を呼んでも、彼は視線を逸らさない。
強すぎる眼差しに胸が締めつけられる。
やがて彼ははっとしたように目を伏せ、肩に置いた手を離した。
「……すまない」
それだけを短く言い残して、私に背を向けて書斎へと入っていく。
扉が閉まる音はひどく冷たく、廊下に残された私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
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それとも……。
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