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第二部
ふたり、バカンス
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「……溶けちゃいそう……」
私は物干しロープにシーツをぱさりとかけながら、ぐったりとつぶやいた。
じりじりと焼けつくような日差し。
庭に立って洗濯物を干していると、背中にじっとりと汗がにじんでくる。
白い布が熱気に揺れる。
こうも毎日暑いと、さすがに身体の芯まで煮え立ってしまいそうだ。
「リズ」
涼やかな声が背後から降ってきて、思わず振り向く。
フェイだ。
いつものように穏やかな笑みを浮かべているけれど、今日はどこか軽やかな気配をまとっている。
「今日はいつにもまして暑いね」
「うん。こっちの暑さは何年経験しても慣れないなあ」
「――そうだ、僕と一緒に避暑に行かないかい?」
「えっ?」
私は思わず手にしていた洗濯ばさみを落としそうになった。
フェイによれば、毎年この時期は暑さを避けるために、数週間家を空けて旅行しているのだという。
「どうせなら、今年はリズも一緒にどうかと思ってね」
さらりと言ってのけるものだから、私の頭は一瞬真っ白になる。
「え……で、でも……」
「行きたい場所はある?」
畳みかけるように問われ、私は口をぱくぱくとさせる。
思い浮かんだのは、ひとつだけ。
「……海が、見たい」
声が自分でも驚くほど小さくて、恥ずかしい。
だけど、それが本心だった。
私は生まれてこの方、海というものを見たことがなかった。
生まれたのは寒冷地方の山間で海なんか縁遠かったし、お屋敷にいた頃は遠出などできるはずもなく、下働きに過ぎない私に与えられた自由はほんのわずか。
だからずっと、絵本や物語に描かれる「果てしなく広がる青」に憧れてきたのだ。
「海か」
フェイは目を細め、少し考えるように空を仰いだ。
けれど次の瞬間には、ぱんと手を打ち合わせる。
「それはいい。僕も久しぶりに見たくなった」
あっさりとそう言い切ってしまう。
「僕の実家が所有している海辺のコテージがあるんだ。そこで過ごそう」
「えっ……でも、そんな……!」
「決まりだね」
にこりと笑うフェイの顔は、夏の日差しより眩しかった。
それからというもの、私は浮き足立っていた。
フェイと初めてのふたりっきりの旅行。
初めての海。
考えただけで胸が高鳴って、夜も布団の中で何度も寝返りを打ってしまう。
頭の中では、まだ見ぬ青い水平線や、潮騒の響きばかりが鳴り響いていた。
けれど――準備を始めてから、ふと手が止まる。
トランクを広げて、いざ荷物を詰め込もうとしたところで気づいてしまったのだ。
私の持っている服といえば、ほとんどがメイド服ばかりだということに。
普段の暮らしならそれで十分だった。
朝から晩まで働く私にとって、清潔なメイド服さえあれば他に必要なものはない。
けれど、避暑地でフェイと共に過ごす日々まで……それでいいのだろうか。
頭の中で、波打ち際を歩く自分の姿を思い描いてみる。
……真っ黒なメイド服。
すぐに砂浜の白さと釣り合わない違和感が浮かび、私は顔を覆った。
「いくらなんでも、これじゃ場違いだわ……」
そう呟いたときには、もう心は決まっていた。
フェイには内緒で、街へ出て服を探してみよう、と。
人で賑わう大通り。
石畳を歩くたび、緊張で心臓が早鐘を打った。
普段から買い出しでよく来る場所のはずなのに、今日はなんだか違って見える。
なんてったって、自分のために、そしてフェイと一緒に過ごす時間のために服を選ぶのだ。
そう思うと、足取りは妙に軽く、胸はわくわくしていた。
店先のマネキンにかかった色とりどりのワンピース。
レースやリボンの装飾に目を奪われ、けれどあまりにも華やかすぎて「わたしには似合わない」とすぐに目をそらしてしまう。
何軒も何軒も見て回った。
可愛いと思うけれど、勇気が出ない。
鏡に映る自分の姿を想像すると、どうしても気後れしてしまう。
そんなとき――ふと視線を奪われた。
窓際に吊るされていたのは、一着の真っ白なワンピース。
余計な飾りはなく、ただ清らかな白。
裾がふわりと風に揺れるたび、陽の光を透かして淡い影を描く。
派手ではないのに、どうしようもなく目を惹かれた。
試着室でそっと袖を通してみる。
鏡の中のわたしは、見慣れないほど柔らかな印象をしていた。
メイド服に身を包んでいるときの「働き手」ではなく、一人の女の子としてそこに立っているようで――胸の奥が熱くなる。
「……これなら」
自然と笑みがこぼれていた。
フェイに似合うと思われたい。
隣を歩くとき、胸を張って歩きたい。
その気持ちだけで、気づけばレジに足を運んでいた。
帰り道、紙袋を胸に抱きしめる。
歩くたび、布地がかすかに擦れる音が耳に届く。
頬がゆるみっぱなしで、どうしようもない。
サプライズで着てみたら、フェイはどんな顔をするだろう。
驚いて、少しだけ目を丸くするかもしれない。
そのあと、照れくさそうに笑って「よく似合ってる」と言ってくれるに違いない。
そんな想像をするだけで、胸がふわりと跳ねた。
そうして迎えた出発の日。
大きなトランクを抱えたわたしは、胸をどきどきさせながら馬車に乗り込んだ。
フェイが隣に座り、出発の合図とともに車輪がごとごとと回り出す。
窓の外を流れる景色は、次第に緑を増し、やがて山々を抜け、汽車に乗り継ぎ……。
移動のあいだじゅう私は窓に張りついて、変わりゆく景色を見逃すまいと必死だった。
そして――。
「リズ、見えてきたね」
フェイが遠くを指さす。
指の先には、きらきらと光る帯が広がっていた。
「……あ……」
息が止まる。
それは、空の青と溶け合うほど鮮やかに、果てしなく広がる水平線。
潮の香りを含んだ風が頬を撫でていく。
「これが……海……」
胸の奥が熱くなって、瞳が潤む。
長い間夢に見てきた景色が、今、目の前にある。
フェイが横で「気に入ったみたいだね」と柔らかく笑った。
私は、ただ呆然と水平線を見つめるばかりだった。
潮騒の音に包まれながら心の奥からじわじわと広がる喜びに、言葉なんて出てこない。
ただひとつ思ったのは――この瞬間をフェイと一緒に迎えられて本当によかった、ということだった。
私は物干しロープにシーツをぱさりとかけながら、ぐったりとつぶやいた。
じりじりと焼けつくような日差し。
庭に立って洗濯物を干していると、背中にじっとりと汗がにじんでくる。
白い布が熱気に揺れる。
こうも毎日暑いと、さすがに身体の芯まで煮え立ってしまいそうだ。
「リズ」
涼やかな声が背後から降ってきて、思わず振り向く。
フェイだ。
いつものように穏やかな笑みを浮かべているけれど、今日はどこか軽やかな気配をまとっている。
「今日はいつにもまして暑いね」
「うん。こっちの暑さは何年経験しても慣れないなあ」
「――そうだ、僕と一緒に避暑に行かないかい?」
「えっ?」
私は思わず手にしていた洗濯ばさみを落としそうになった。
フェイによれば、毎年この時期は暑さを避けるために、数週間家を空けて旅行しているのだという。
「どうせなら、今年はリズも一緒にどうかと思ってね」
さらりと言ってのけるものだから、私の頭は一瞬真っ白になる。
「え……で、でも……」
「行きたい場所はある?」
畳みかけるように問われ、私は口をぱくぱくとさせる。
思い浮かんだのは、ひとつだけ。
「……海が、見たい」
声が自分でも驚くほど小さくて、恥ずかしい。
だけど、それが本心だった。
私は生まれてこの方、海というものを見たことがなかった。
生まれたのは寒冷地方の山間で海なんか縁遠かったし、お屋敷にいた頃は遠出などできるはずもなく、下働きに過ぎない私に与えられた自由はほんのわずか。
だからずっと、絵本や物語に描かれる「果てしなく広がる青」に憧れてきたのだ。
「海か」
フェイは目を細め、少し考えるように空を仰いだ。
けれど次の瞬間には、ぱんと手を打ち合わせる。
「それはいい。僕も久しぶりに見たくなった」
あっさりとそう言い切ってしまう。
「僕の実家が所有している海辺のコテージがあるんだ。そこで過ごそう」
「えっ……でも、そんな……!」
「決まりだね」
にこりと笑うフェイの顔は、夏の日差しより眩しかった。
それからというもの、私は浮き足立っていた。
フェイと初めてのふたりっきりの旅行。
初めての海。
考えただけで胸が高鳴って、夜も布団の中で何度も寝返りを打ってしまう。
頭の中では、まだ見ぬ青い水平線や、潮騒の響きばかりが鳴り響いていた。
けれど――準備を始めてから、ふと手が止まる。
トランクを広げて、いざ荷物を詰め込もうとしたところで気づいてしまったのだ。
私の持っている服といえば、ほとんどがメイド服ばかりだということに。
普段の暮らしならそれで十分だった。
朝から晩まで働く私にとって、清潔なメイド服さえあれば他に必要なものはない。
けれど、避暑地でフェイと共に過ごす日々まで……それでいいのだろうか。
頭の中で、波打ち際を歩く自分の姿を思い描いてみる。
……真っ黒なメイド服。
すぐに砂浜の白さと釣り合わない違和感が浮かび、私は顔を覆った。
「いくらなんでも、これじゃ場違いだわ……」
そう呟いたときには、もう心は決まっていた。
フェイには内緒で、街へ出て服を探してみよう、と。
人で賑わう大通り。
石畳を歩くたび、緊張で心臓が早鐘を打った。
普段から買い出しでよく来る場所のはずなのに、今日はなんだか違って見える。
なんてったって、自分のために、そしてフェイと一緒に過ごす時間のために服を選ぶのだ。
そう思うと、足取りは妙に軽く、胸はわくわくしていた。
店先のマネキンにかかった色とりどりのワンピース。
レースやリボンの装飾に目を奪われ、けれどあまりにも華やかすぎて「わたしには似合わない」とすぐに目をそらしてしまう。
何軒も何軒も見て回った。
可愛いと思うけれど、勇気が出ない。
鏡に映る自分の姿を想像すると、どうしても気後れしてしまう。
そんなとき――ふと視線を奪われた。
窓際に吊るされていたのは、一着の真っ白なワンピース。
余計な飾りはなく、ただ清らかな白。
裾がふわりと風に揺れるたび、陽の光を透かして淡い影を描く。
派手ではないのに、どうしようもなく目を惹かれた。
試着室でそっと袖を通してみる。
鏡の中のわたしは、見慣れないほど柔らかな印象をしていた。
メイド服に身を包んでいるときの「働き手」ではなく、一人の女の子としてそこに立っているようで――胸の奥が熱くなる。
「……これなら」
自然と笑みがこぼれていた。
フェイに似合うと思われたい。
隣を歩くとき、胸を張って歩きたい。
その気持ちだけで、気づけばレジに足を運んでいた。
帰り道、紙袋を胸に抱きしめる。
歩くたび、布地がかすかに擦れる音が耳に届く。
頬がゆるみっぱなしで、どうしようもない。
サプライズで着てみたら、フェイはどんな顔をするだろう。
驚いて、少しだけ目を丸くするかもしれない。
そのあと、照れくさそうに笑って「よく似合ってる」と言ってくれるに違いない。
そんな想像をするだけで、胸がふわりと跳ねた。
そうして迎えた出発の日。
大きなトランクを抱えたわたしは、胸をどきどきさせながら馬車に乗り込んだ。
フェイが隣に座り、出発の合図とともに車輪がごとごとと回り出す。
窓の外を流れる景色は、次第に緑を増し、やがて山々を抜け、汽車に乗り継ぎ……。
移動のあいだじゅう私は窓に張りついて、変わりゆく景色を見逃すまいと必死だった。
そして――。
「リズ、見えてきたね」
フェイが遠くを指さす。
指の先には、きらきらと光る帯が広がっていた。
「……あ……」
息が止まる。
それは、空の青と溶け合うほど鮮やかに、果てしなく広がる水平線。
潮の香りを含んだ風が頬を撫でていく。
「これが……海……」
胸の奥が熱くなって、瞳が潤む。
長い間夢に見てきた景色が、今、目の前にある。
フェイが横で「気に入ったみたいだね」と柔らかく笑った。
私は、ただ呆然と水平線を見つめるばかりだった。
潮騒の音に包まれながら心の奥からじわじわと広がる喜びに、言葉なんて出てこない。
ただひとつ思ったのは――この瞬間をフェイと一緒に迎えられて本当によかった、ということだった。
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