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第二部
少しだけ、離れてみませんか
しおりを挟むフェイの実家への呼び出しから一週間。
フェイは、まるで何かに取り憑かれたみたいに机に張り付いたままだった。
夜更けまで灯りが消えず、朝は早くからペンを走らせている。
締切前でもないのに徹夜続き。
食事もろくに取らない。
時々コーヒーを淹れても、気づけば冷めきって机の端で寂しそうにしている。
このままじゃ心が壊れてしまう……
そんな不安が、日に日に募っていった。
書き続ける背中を見ていると、あの時のフェイのお父様の言葉が脳裏にちらつく。
――1年だ。それ以上は待てない。
焦る気持ちは分かる。
けれど、息をすることまで忘れてしまうほど頑張らなくたっていいのに。
どうにかして、この張りつめた空気を和らげたい。
そう思った私は、ささやかな作戦を立てることにした。
最初の作戦は”ハグ”だった。
以前、雑誌の記事で読んだのだ。
「身体的な接触には幸福ホルモンが分泌され、ストレスが和らぐ」と。
つまり、ぎゅっと抱きしめればフェイの心もほぐれる――はず。
思い立ったら即行動。
向かったのはペンを走らせる音だけが響く書斎。
フェイの背後にそっと立ち、深呼吸をひとつ。
そして、思いきって背中から抱きついた。
「フェイ、少し休まない?」
フェイの肩がぴくりと動いた。
――が、そのままペンの音は止まらない。
「……後にしてくれるかい」
まっすぐ前を向いたまま、真顔でそれだけ。
抱きしめているこちらがなんだか悪いことをしている気分になる。
そっと腕を離すと、フェイは何事もなかったように次のページへとペンを滑らせた。
「……幸福ホルモン、出なかったか」
小声でつぶやいて、私は静かに書斎を後にした。
二つ目の作戦は「外出」。
閉じこもりっぱなしの状態が続けば、どんな人でも心がすり減る。
だから、「買い物のついでに一緒に出かけてもらう作戦」を立てたのだ。
「フェイ、今日これから買い出しに行くんだけど……」
わざと少し困った顔をして、瓶入りの調味料やミルクなどのリストを見せる。
「重いものばかりで、一人だとちょっと……。手伝ってくれない?」
ちらりとこちらを見たフェイ。
数秒の沈黙。
少し考えたような素振りのあと、短く返ってきた言葉は――
「配達してもらえばいいだろう」
……まさか、ここまでとは。
しかも真顔。
まるで論理の通った完璧な回答をした、という顔。
「そ、そうだよね。はい……」
乾いた笑みを浮かべながら、私は退散した。
書斎の扉を閉めると、心の中でガックリと項垂れる。
焦る彼の役に立ちたいのに、またも空回り。
私は廊下に背を預けながら、次の一手を考えた。
時計が11時を指した頃。
今日も書斎の明かりはまだ消えそうになかった。
フェイは、まるで何かに取り憑かれたみたいに机に張り付いたまま。
何度か声をかけようとして、私は結局そのたびに口を閉じた。
焦っているのはわかる。
だけど、焦り続けている姿を見るのも、胸が痛い。
――せめて、少しでも力になれたら。
そう思って、私はそっと台所へ向かった。
冷蔵庫の中には昼間作り置いたチキンの香草照り煮。
少し甘めのソースに香草を効かせるのが、私の故郷の味だ。
それをほぐしてレタスと一緒にパンに挟み、簡単なサンドイッチを作った。
皿を手に、書斎の扉をそっと開ける。
いつものようにフェイは筆を動かし続け、私の気配にも気づかない。
「……夜食持ってきたよ」
「……ん、ありがとう」
フェイはこちらを向きもしないで小さな声で応えた。
それでも構わず、私は彼の隣に皿を置く。
しばらくして、ペンが止まる音。
フェイ様がふと顔を上げ、無言でサンドイッチに手を伸ばした。
そして、ひと口。
――その瞬間、彼の動きが止まった。
「……これ、何を挟んでいるんだい?」
「チキンを香草入りのソースで煮込んだ照り煮。私の故郷ではよく食卓に並んでたんだよ」
「そうか、リズの故郷の味……なんだね」
フェイはしばらく黙って、もう一口。
そして少し首を傾げながら、興味深そうに言葉を紡いだ。
「……甘辛さの中に、さわやかな香りがする。不思議な味だ」
「家庭によって入れる香草は違うんだよ。ウチは香草と一緒に柑橘類の皮を入れるのが定番だったの」
「そうか。脂っこさが軽減されていいね」
話しながら、私の中に懐かしい風景が蘇ってくる。
気づけばフェイもペンを置き、じっと私の話を聞いてくれていた。
「……リズの話を聞いていたら、久しぶりに時間の流れを感じたよ」
彼は小さく笑って、空になった皿を見下ろした。
サンドイッチは、いつのまにかすっかり消えていた。
「ごちそうさま。……おいしかった」
「よかった」
私は少しだけ迷って、そして意を決して言った。
「フェイ。どんなに忙しくても、食事だけは――一緒に取ろう?」
彼の視線が静かにこちらへ向く。
「食べることは生きること、でしょ。焦る気持ちはわかるよ。でも……お腹を空かせたままじゃ、いい言葉も浮かばない気がするから」
「……それは」
「――それに、誰かと会話することで生まれるアイディアだってあると思うの」
フェイはしばらく黙ったまま、テーブルの上の皿を見つめていた。
そして小さく息を吐く。
「……そうだね。リズの言う通りだ」
その声には、さっきまでの張りつめた硬さが少しだけ溶けていた。
「じゃあ、約束だ。どんなに時間に追われても、食事はふたりで」
「うん、約束」
そうして交わした約束は、まるで夜風のようにやさしく部屋を包みこんだ。
この日、フェイは久しぶりに夜が明ける前に灯りを落とした。
私は彼の静かな寝息を聞きながら、胸の奥でそっと安堵の息をついたのだった。
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