貧乏メイド、官能作家に身体を資料として提供することになりました~資料のために抱かれ続けた私、いつの間にか彼の最愛に~

蜜井蜂

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第二部

ひとりの夜

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「じゃあ、いってくるよ」
朝の光が差し込む玄関で、フェイは外套を羽織りながら言った。

「うん、気を付けてね」

今日は珍しくフェイがひとりで外出する日。
……しかも泊りがけで。



事の発端は先週。
晩ご飯を食べているとき、フェイがふと言った言葉からだった。
「来週、出版局の人たちと食事会があってね。それで――せっかくだからそのあと友人にも会って来ようかなって。……多分泊りがけになると思う」

「そうなんだ。楽しんできてね」


そのときは大して気にも留めなかった。
出版局の人たちとの食事会。
ついでに旧友にも会ってくる――ただそれだけのこと。





「さて、と」

フェイの背中を見送って、私はすぐに気持ちを切り替える。

洗濯物をまとめて、床を拭いて。
長らく後回しにしていたフェイの書斎も、主のいない今日は念入りに。

本棚の埃を払って、机を整えて、インク壺の位置を直す。
彼が戻ってきたときに、気持ちよく使えるように。


掃除が終わったら街へ買い物へ。
残り少なくなっていた洗剤と、それから牛乳にバター。

「あとは――あ」

街を歩いていると漂ってきたのはおいしそうなコーヒーの匂い。
匂いに吸い寄せられるように歩いていくと、おしゃれな佇まいの小さなお店が目に入った。
ここはたしか――
以前フェイが出版局の人からいただいてきたコーヒーがここのものだった。

ふたりで「美味しいね」なんて話をしたからよく覚えている。

帰ってきたときに淹れてあげたら――きっと喜ぶだろうな。
そう思った瞬間には、もう店の扉を押していた。



「――ありがとうございました」

店員さんの声を背に店の外に出ると、いつの間にか日が傾いていた。
ひとりの時間も、なんだかんだであっという間だ。

終わってしまうことに少しばかりの名残惜しさすら感じながら、私は屋敷への道を急いだ。




けれど――
食事を終えたあたりから、屋敷の中がやけに広く感じ始める。

廊下を歩いても、生活音が返ってこない。
いつもなら、書斎の扉の向こうから聞こえてくるはずの、紙をめくる音もない。

いつもと違うことといえば――フェイがいない。
ただ、それだけ。

それなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。


今までだって、何度も彼は外出していたはずなのに。
こんなふうに感じたことはなかった。


「……お風呂、入っちゃおうかな」

気を紛らわそうと、食器を片づけ、早めに風呂に入る。
身体を温めれば、気持ちも落ち着くはずだと思った。

それでも、胸の奥にぽっかりと空いた空白は、埋まらなかった。



そのとき、視界の端に引っかかったものがあった。
椅子の背に、無造作に掛けられたままのフェイの上着。

気づけば、私は立ち上がっていた。
理由を考えるより先に、手が伸びる。

抱き寄せた瞬間、ふわりと彼の匂いがした。
紙とインクの香りに、ほんの少しだけ甘さが混じる。



胸が、きゅっと縮む。

……ああ。

ここでようやく、理解する。
私は、思っていたよりずっと――

フェイの隣にいるのが当たり前になっていたんだ。


腕に力が入る。
上着を抱きしめる腕が、自然と離れなくなる。

大丈夫。
たった一晩だ。

自分に言い聞かせるように、寝室へ向かう。
ベッドに横になり、目を閉じる。

早く眠ってしまえばいい。
そうすれば、明日はまたいつも通りになる。

……なのに。

意識は冴えるばかりで、フェイのいない夜の静けさだけが際立っていく。

「……フェイ……」

自分でも驚くほど小さな声が、唇からこぼれた。
もちろん、返事なんてあるはずがない。

天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吸って、吐く。
それでも胸の奥のざわつきは、なかなか収まらなかった。

寝返りを打つ。
上着を胸に抱き寄せて、もう一度深く息を吸う。

彼の匂いが、ちゃんとここにある。
それだけで少しだけ、心が落ち着く。

「……大丈夫」

小さく、独り言のように呟く。
誰に言い聞かせるでもなく、自分自身に。

フェイは、ちゃんと帰ってくる。
そう、頭ではわかっている。

――それでも。

今この瞬間、彼がいないという事実だけが、やけに重たい。


「……さみしい……」


腕に力が入る。
上着をぎゅっと抱きしめると、布越しに伝わる温もりの記憶が、少しだけ心を緩めてくれた。

フェイが、ここにいたら。
今頃、「眠れないならとっておきの話を聞かせてあげよう」なんて言って、オチの無い話を得意顔で話してくれただろうな。

そう思ったら、少しだけおかしくなって、でもすぐに胸が苦しくなる。

まぶたは重くなってきたのに、意識だけが手放してくれない。
夢の入り口に落ちかけては、また引き戻される。

それを何度か繰り返すうちに、思考が少しずつ、輪郭を失っていく。

フェイの声。
フェイの背中。


記憶の中の彼が、ゆっくりと溶け合っていく。



「……おやすみなさい……」

誰に向けた言葉なのか、自分でもわからないまま。
そのまま、意識は静かに、深いところへ沈んでいった。





次に目を覚ましたとき、最初に感じたのは温もりだった。

誰かに、抱きしめられている。


「……リズ」

優しくて甘い声。

目を開けると、フェイがすぐそこにいた。
「え、あ、フェイ?!」

「おはよう。予定より早く帰ってこられたんだ」
リズに早く会いたくてね、と付け足してはにかんだ。


「……にしてもリズ、随分かわいいことするね」
「え?」


私は、自分の手元に視線を落とす。
そこにはフェイの上着。

「あ」

私は結局、彼の上着を抱きしめたまま眠ってしまっていたらしい。
状況を理解した瞬間、熱が一気に顔に集まる。

「わ、忘れて……」

恥ずかしさに耐えきれず、フェイの胸に顔を埋める。
心臓の音が、すぐ耳元で響いている。

フェイは小さく笑って、私を抱き寄せた。


その腕の中は、温かくて、確かで。
昨日の夜の寂しさが、嘘みたいに埋められていく。

胸の奥が満たされていく感覚に、思わず息を吐いた。

――ああ。

私はもう、この人がいない日常には戻れない。




フェイは、私の髪を撫でながら、ぽつりと続けた。

「昨日さ……食事会の席でも、友人と話してる最中でも」
「……うん」
「気づくと、君のこと考えてた」

少し困ったように笑う。

「今ごろ何してるかな、とか。このケーキ、リズにも食べさせてあげたいな、とか」
「……」

胸が、じわっと熱くなる。

「ふと隣を見るたびに、そこにリズがいないのが変で」
「変?」
「うん。いつも当たり前にあったものが、急に抜け落ちた感じ」

フェイは小さく息を吐いた。

「一日くらい平気だと思ってた。でも……落ち着かなかった」
「……私も」


顔を見合わせて、二人で少しだけ笑った。

「同じだね」
「同じだ」

声が、重なった。


フェイの指が、私の頬にそっと触れる。

「……君がいない一日が、こんなに落ち着かないとは思わなかった」
「私も……フェイがいなくて、すごく……」

言葉にしきれなくて、私は彼の肩に額を預けた。

フェイは何も言わず、ただ腕を回してくれる。
強くも弱くもない、ちょうどいい力で。

「……こうしてると、落ち着く」
「うん」

彼の胸の鼓動が、ゆっくり伝わってくる。


「ね、リズ」
「うん」
「これからも、ちゃんと帰ってくるから」
「……うん」
「君の隣に」


私は小さくうなずいて、フェイの背に腕を回す。

「……おかえりなさい」
「ただいま」

それだけで、もう十分だった。

朝の光の中、
穏やかで、温かくて、少しだけ甘い幸せが、静かに二人を包んでいた。


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