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第5話 新事務所への初登所
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結局、翌週の月曜日に連絡した。
『一度、話だけ聞かせてください』
送ってから三十秒後に後悔した。でも送ってしまったものは戻らない。藤井からの返信は早かった。『ありがとうございます。ご都合のよい日時をお知らせください』やはり圧がない。それだけが、かろうじて蓮を踏み止まらせていた。
スタジオ・ネクサスのオフィスは、私鉄の各駅停車しか止まらない駅から徒歩八分のところにあった。
築十年ほどのビルの三階。エレベーターで上がって、frosted glassのドアを開けると、広さは普通のワンフロアオフィスくらいだった。デスクが六つ、会議用のテーブルが一つ、壁際に収録用とおぼしき防音ブースが二つ。
思ったより、小さい。
「いらっしゃいませ」
受付らしきデスクから、二十代後半くらいの女性が立ち上がった。笑顔が自然だ。
「藤井さんに連絡が入っています。少々お待ちください」
待つ間、蓮はオフィスをさりげなく観察した。デスクの上が整理されている。ゴミ箱の中身が少ない。換気扇の周りに油汚れがないって、ここ台所じゃないか。職業病だ。
「お待たせしました」
藤井がデスクの奥から歩いてきた。ファミレスのときと同じ、紺のジャケット。
「今日はありがとうございます。こちらへどうぞ」
会議用のテーブルに案内された。藤井の他に、もう一人いた。四十代くらいの男性で、落ち着いた雰囲気がある。
「代表の木村です。今日の契約に関わる内容については、私からご説明します」
「……よろしくお願いします」
椅子に座りながら、蓮は内心で構えた。契約の話。ここからが本番だ。うまい言葉で丸め込もうとしてくるかもしれない。前の事務所みたいに。
「まず」木村が口を開いた。「正直にお伝えしたいことがあります」
「はい」
「うちは大きい事務所ではありません。資金力も、業界でのコネクションも、大手には及びません。ただ、タレントに対して不誠実なことはしないと決めています。それだけは約束できます」
蓮は何も言わなかった。
「今回の件は、うちのAIであるノアが独断で調査を始めたことがきっかけです。正直、私も最初は止めようとしました。でもノアの分析を見て、これは放置できないと判断しました。だから今日ここにいます」
「……ノアが、勝手に動いたんですか」
「はい」木村は苦笑した。「困った子なんですが、いつも筋は通っているので」
藤井がテーブルの端に置いていたタブレットを操作した。画面が起動する。
「ノアも同席しています」
画面の中に、先週と同じアバターが映っていた。
「来ていただけましたね」ノアが言った。
蓮はタブレットをまっすぐ見た。
「一個だけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なんで俺のことを調べたんですか。赤の他人でしょう」
ノアは一秒ほど間を置いた。
「正しくないことを放置できません」
「……それだけですか」
「今のところは、はい」
今のところは、という言葉が少し引っかかった。でも今それを掘り下げる気にもなれなくて、蓮は視線を木村に移した。
木村が資料を広げた。
「契約内容についてご説明します。活動の自由度については、配信の内容・頻度・スタイル、全てご自身で決めていただいて構いません。うちが口を出すのは、法的に問題がある場合と、他のタレントへの影響が生じる場合に限ります」
「収益の配分は」
「資料の二ページ目をご覧ください」
数字を確認した。悪くない。前の事務所より条件がいい。
「活動名はどうなりますか。前の事務所との関係で」
「そこについては、一つお願いがあります」木村が引き継いだ。「前事務所との契約書をお持ちであれば、顧問弁護士に確認させていただけますか。『獅堂 烈』という名前での活動に制約があるかどうか、正確に判断したいので」
「……契約書なら、手元にあります」
「ありがとうございます。今日でなくて構いません。ご準備いただけたタイミングで」
蓮はテーブルの上の資料を見た。それから画面の中のノアを見た。それから藤井を見た。
前の事務所の最初の面談を思い出した。華やかなオフィス、大きなモニター、笑顔の担当者。全部きれいだったのに、結果はああだった。
ここは小さくて、地味で、AIが画面から参加している変な事務所だ。
「一つだけ聞いていいですか」蓮は木村を見た。
「どうぞ」
「何かあったとき、また俺みたいなのが切られますか」
木村は少し間を置いた。
「切られる、というのが何を指すかによります」藤井ではなく、木村が答えた。「問題が起きたとき、その人を守ることが本人にとっても周囲にとっても最善かどうか、一緒に考えます。一方的に切るという判断は、うちではしません。ただ、それを信じてもらうには、時間が必要だと思っています」
「……正直ですね」
「嘘をついても意味がないので」
蓮はしばらく、テーブルの木目を眺めた。
信用できるかどうか、まだ分からない。でも少なくとも、今日この場で嘘をついている感じはしない。それだけだ。それだけで十分かどうかも、まだ分からない。
「……考えさせてください。一週間」
「もちろんです」木村が頷いた。「急かすつもりはありません」
帰り際、タブレットの画面の中でノアが口を開いた。
「一点だけ」
「何ですか」
「一週間後、あなたが断る可能性は統計的に低いと思います。ただ、それはあなたが決めることです」
「……余計なこと言いますね」
「事実をお伝えしました」
蓮はタブレットに向かって、小さく舌打ちした。ノアの表情は変わらなかった。
エレベーターに乗って、ビルの外に出た。
春の風が、少し温かくなっていた。
『一度、話だけ聞かせてください』
送ってから三十秒後に後悔した。でも送ってしまったものは戻らない。藤井からの返信は早かった。『ありがとうございます。ご都合のよい日時をお知らせください』やはり圧がない。それだけが、かろうじて蓮を踏み止まらせていた。
スタジオ・ネクサスのオフィスは、私鉄の各駅停車しか止まらない駅から徒歩八分のところにあった。
築十年ほどのビルの三階。エレベーターで上がって、frosted glassのドアを開けると、広さは普通のワンフロアオフィスくらいだった。デスクが六つ、会議用のテーブルが一つ、壁際に収録用とおぼしき防音ブースが二つ。
思ったより、小さい。
「いらっしゃいませ」
受付らしきデスクから、二十代後半くらいの女性が立ち上がった。笑顔が自然だ。
「藤井さんに連絡が入っています。少々お待ちください」
待つ間、蓮はオフィスをさりげなく観察した。デスクの上が整理されている。ゴミ箱の中身が少ない。換気扇の周りに油汚れがないって、ここ台所じゃないか。職業病だ。
「お待たせしました」
藤井がデスクの奥から歩いてきた。ファミレスのときと同じ、紺のジャケット。
「今日はありがとうございます。こちらへどうぞ」
会議用のテーブルに案内された。藤井の他に、もう一人いた。四十代くらいの男性で、落ち着いた雰囲気がある。
「代表の木村です。今日の契約に関わる内容については、私からご説明します」
「……よろしくお願いします」
椅子に座りながら、蓮は内心で構えた。契約の話。ここからが本番だ。うまい言葉で丸め込もうとしてくるかもしれない。前の事務所みたいに。
「まず」木村が口を開いた。「正直にお伝えしたいことがあります」
「はい」
「うちは大きい事務所ではありません。資金力も、業界でのコネクションも、大手には及びません。ただ、タレントに対して不誠実なことはしないと決めています。それだけは約束できます」
蓮は何も言わなかった。
「今回の件は、うちのAIであるノアが独断で調査を始めたことがきっかけです。正直、私も最初は止めようとしました。でもノアの分析を見て、これは放置できないと判断しました。だから今日ここにいます」
「……ノアが、勝手に動いたんですか」
「はい」木村は苦笑した。「困った子なんですが、いつも筋は通っているので」
藤井がテーブルの端に置いていたタブレットを操作した。画面が起動する。
「ノアも同席しています」
画面の中に、先週と同じアバターが映っていた。
「来ていただけましたね」ノアが言った。
蓮はタブレットをまっすぐ見た。
「一個だけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なんで俺のことを調べたんですか。赤の他人でしょう」
ノアは一秒ほど間を置いた。
「正しくないことを放置できません」
「……それだけですか」
「今のところは、はい」
今のところは、という言葉が少し引っかかった。でも今それを掘り下げる気にもなれなくて、蓮は視線を木村に移した。
木村が資料を広げた。
「契約内容についてご説明します。活動の自由度については、配信の内容・頻度・スタイル、全てご自身で決めていただいて構いません。うちが口を出すのは、法的に問題がある場合と、他のタレントへの影響が生じる場合に限ります」
「収益の配分は」
「資料の二ページ目をご覧ください」
数字を確認した。悪くない。前の事務所より条件がいい。
「活動名はどうなりますか。前の事務所との関係で」
「そこについては、一つお願いがあります」木村が引き継いだ。「前事務所との契約書をお持ちであれば、顧問弁護士に確認させていただけますか。『獅堂 烈』という名前での活動に制約があるかどうか、正確に判断したいので」
「……契約書なら、手元にあります」
「ありがとうございます。今日でなくて構いません。ご準備いただけたタイミングで」
蓮はテーブルの上の資料を見た。それから画面の中のノアを見た。それから藤井を見た。
前の事務所の最初の面談を思い出した。華やかなオフィス、大きなモニター、笑顔の担当者。全部きれいだったのに、結果はああだった。
ここは小さくて、地味で、AIが画面から参加している変な事務所だ。
「一つだけ聞いていいですか」蓮は木村を見た。
「どうぞ」
「何かあったとき、また俺みたいなのが切られますか」
木村は少し間を置いた。
「切られる、というのが何を指すかによります」藤井ではなく、木村が答えた。「問題が起きたとき、その人を守ることが本人にとっても周囲にとっても最善かどうか、一緒に考えます。一方的に切るという判断は、うちではしません。ただ、それを信じてもらうには、時間が必要だと思っています」
「……正直ですね」
「嘘をついても意味がないので」
蓮はしばらく、テーブルの木目を眺めた。
信用できるかどうか、まだ分からない。でも少なくとも、今日この場で嘘をついている感じはしない。それだけだ。それだけで十分かどうかも、まだ分からない。
「……考えさせてください。一週間」
「もちろんです」木村が頷いた。「急かすつもりはありません」
帰り際、タブレットの画面の中でノアが口を開いた。
「一点だけ」
「何ですか」
「一週間後、あなたが断る可能性は統計的に低いと思います。ただ、それはあなたが決めることです」
「……余計なこと言いますね」
「事実をお伝えしました」
蓮はタブレットに向かって、小さく舌打ちした。ノアの表情は変わらなかった。
エレベーターに乗って、ビルの外に出た。
春の風が、少し温かくなっていた。
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