橋本愛莉というおんな

まなづるるい

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第八章

58.

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 翌朝。目が覚めると隣に藍子さんはいなかった。
 いつの間に起きたんだろう。あたしもむくりと上体を起こす。
 お兄ちゃんはもう起きたかな。
 寝室をでて和室に行くとそこに藍子さんがいた。

「おはよう、愛莉ちゃん」
「おはようございます」
「歯ブラシはこれ使ってね。コップはこれ」

 渡されたのは濃いピンク色の歯ブラシとコップだった。あたしは部屋に二人きりなのをいいことに、藍子さんをつついてみることにした。

「やっぱりあれは嘘だったんですね」
「え?」
「お兄ちゃんとはなにもないって」
「……どういう意味?」
「あたし、昨日の夜、お兄ちゃんの部屋に行ったんです。そしたらお兄ちゃん、藍子さんと間違えてあたしにキスしたんですよ。それっておかしくないですか? もしかして普段からしてるんじゃないですか? だから部屋にきたのがあたしだとは思わなかったんですよ」

 さぁ、どう言い訳する?
 藍子さんは少しだけ考えた素振りをすると、はっきりとこう言った。

「知らないわ」
「は?」
「橋本くんがどうして私と愛莉ちゃんを間違えたのかはわからないけど、私は橋本くんとキスなんてしたことないわ」

 この女、顔色ひとつ変えないでまだしらを切るつもり?

「じゃあ、昨日はたまたま藍子さんと間違えて、たまたまキスをしたって言うんですか? 藍子さんは彼氏がいるからなんとも思ってないかもしれないけど、お兄ちゃんは藍子さんをそういう目でみてるんじゃないんですか?」

 認めたくはないけど、お兄ちゃんだって男だもん。近くに女がいればたまには欲求をぶつけたくなるよね。そうだよ。たまたま藍子さんが近くにいたってだけ。

「自分のお兄さんのことをそんなふうに言うなんてよくないよ」
「き、キスだけじゃないし! それ以上のことだって、嘘だと思うなら今日は藍子さんがお兄ちゃんの部屋に行ってみたらいいですよ! あたしが傍でみてますから!」
「あのね愛莉ちゃん。それでもし私が橋本くんにキスされたら嫌じゃないの? それともそうなればいいと思っているのかな」
「あ、たしは……そんなの、嫌に決まってる……決まってるけど、絶対そうだもん。藍子さん、あたしに嘘吐いてる……絶対そう、あたしわかるもん」

 藍子さんと話してると、あたしが子供にみえて嫌だ。
 あたしがなにを言ったって藍子さんは取り乱したりしない。あたしが焦ってタメ口になったって、藍子さんはあたしから目を逸らさない。
 それが嫌だ。それが怖い。大人って平気で嘘吐くんだ。
 それとも本当にそうなの?
 だったら昨日のあれはなに?
 あれは本当にたまたまで、あんなことはもう二度とないって言い切れるの?

「愛莉ちゃん」

 身体が震える。次に藍子さんがなんて言うか、手にとるようにわかってしまう。

「落ち着いて、ね。もしかしたらそれは愛莉ちゃんの夢だったのかもしれないでしょ?」

 夢の仕業にしないでよ。唇の感触とか、お兄ちゃんの体温とか、舌の熱さとか、夢なわけがないでしょう。
 あたしはお兄ちゃんとキスをしたの。
 あたしはお兄ちゃんと舌を絡ませた。
 あたしはお兄ちゃんに愛撫された。
 あたしはお兄ちゃんにいかされた。
 夢なわけがないでしょう。これが夢なわけないんだから。
 夢だよばーかって顔に書いてある。
 煩いばーか。
 夢じゃねえよばーか。
 歯磨きをして身支度をしてからリビングに行くと、お兄ちゃんが呑気にソファで寛いでいた。

「おはよう、愛莉」
「おはようお兄ちゃん」

 お兄ちゃんに変わった様子はみられない。やっぱり昨日のあれは寝ぼけていたんだろう。仮に覚えていたとしても、あれがあたしだったとは思ってなさそうだ。

「今日も柚留を探しに行くの?」
「うん」
「そっか」

 柚留なら探したってみつかんないよって言ってやりたい。柚留は加賀としまくってるよって言ってやりたい。言えばお兄ちゃんはどんな顔をするだろう。今度こそ傷ついて壊れちゃうのかな。
 そしたらあたしが助けてあげるのに、どうしてお兄ちゃんはあたしを頼ってくれないんだろう。
 あれ、そういえばあたし、柚留って言ってんな。昨日から言ってたっけ。
 これやばいか?
 あたしがあたしなのがばれたりしたら、お兄ちゃんはあたしを避けるんじゃ。

「お、お兄ちゃん」
「なに?」
「あ、あたし、変……かな?」
「変って?」
「い、いつもとなんか違うなぁとか」
「うーん。とくになにも……あ」
「え?」
「もしかして髪切ったとか? ごめんな、そういうのなかなか気づいてやれなくて」

 よかった、気づいてないみたい。気づいてないならむりにいまから柚留ちゃんなんて呼ばなくてもいいか?
 むしろさっきまで柚留呼びだったのに、急に柚留ちゃんなんて呼んでたらそっちの方がおかしいか。うん。気づいてないならいいじゃんか。柚留にちゃんづけとか気持ち悪いし。

「じゃあ俺は柚留を探しに行くけど、愛莉はどうする?」
「あたしは」

 どうしよう。此処にいてもつまんないし、かと言って行くとこもないしな。あたしもお兄ちゃんと……と思ったけど。

「あたしもちょっと出掛けてくるよ。夕方までには戻ってくるね」
「わかった。じゃあいってきます」
「いってらっしゃい」

 なんか今日もしれっと藍子さんの家に泊まりますみたいな空気になっちゃったけど別にいいよね。ま、でていけと言われたって居座るつもりだけど。あたしに帰る場所なんかないんだし。

「愛莉ちゃん、出掛けるの?」
「はい。夕方には戻りますね」
「そう。いってらっしゃい」
「いってきます」

 行くところのないあたしが何処に行くのかって?
 そんなのひとつしかないでしょ。むしゃくしゃした時にはこれが一番いいんだって。

「よっす、鹿児島。元気かよ?」

 会いにきてやったんだから感謝しなさいよ、鹿児島。

「……なんの用」
「は? なんつった? 聞こえねぇ」

 相変わらずちっちぇ声。こいつをみてるといらいらする。こっちはストレス発散しにきたっていうのに、余計ストレス感じてどうすんだっつの。

「また私を殺しにきたの?」
「いーや? 今日はてめぇを殴りにきた」

 ぱちん、と室内に響く音。他に患者がいようと構わんよ。あたしは鹿児島にビンタした。グーパンだとこっちも痛いからね。

「どぉ? 痛い?」

 まただんまり。だから余計にむかつくんだ。だから余計に叩きたくなるんだ。
 あたしはまた鹿児島にビンタした。右手で叩くからね、どうしても左頬ばかり叩くよね。可哀想なんて思わないよ。

「そういえばお前、学校にくんの? ま、きたらまたあたしが虐めてあげるけどね」

 言いながらあたしは鹿児島にビンタした。これで三回目。

「ね、どうしてまだ生きてんの? 早く死ねば?」

 言いながらあたしは鹿児島にビンタした。これで四回目。

「またすればいいじゃん、大好きでしょ? 自分傷つけるの。ま、そんなのしなくたってあたしが傷つけてあげるよん」

 楽しい。なにも言わない人形を一方的に叩くの楽しい。あたしの方が強いんだって、思わせてくれるの最高かよ。

「どうせまだ持ってるんでしょ。貸しなよ、切ってあげるから」

 手を伸ばすと鹿児島は布団からカッターを取りだした。
 やっぱりね。持ってると思ったよ。護身用とか言って肌身離さず持ってるもんね。病院では切らないのは、ばれたら没収されるから。

「くふふっ、さぁて、何処を切ってほしい? 手首? 腕? 切ってほしいところをだしてごらん」

 鹿児島は無言のまま、あたしに左腕をだしてきた。白い肌に浮かぶ無数の白い線。これをこいつは自分でやったんだって。まじ頭おかしいっしょ。

「あんたの親、一度も見舞いにきてないね。母親には無視されて、父親には初めてを奪われたんだっけ。それが苦で自分を傷つけるようになって、傷つけてんのがあたしにばれて馬鹿にされて不登校になって、久しぶりに学校にきたと思ったらあたしが記憶なくしてて、また切って自殺未遂までして、それでもこうして生きててさ」

 まぁ、こいつが死んだらあたしの玩具が減るんだけど。それでも言わずにはいられない。だから言う。鹿児島は死ねばいい。

「ほぉんと、死ねばいいのに」

 あたしは心の準備を与える隙もないまま、カッターで鹿児島の白い腕を傷つけた。
 傷つけたといっても深くない。本当に軽く、ちょっと紙で切っちゃった程度の浅い傷。
 あたしにはよくわからないけど、カッターで切るよりも紙でうっかり切っちゃった時の方が痛いんでしょ?
 あれは多分、切るぞ切れるぞと意識してないから痛いわけで、自分のタイミングと力加減でできるカッターじゃ、痛みの程度が違うわけ。
 そりゃそうだよね。リストカットは衝動的にやるだけじゃない。心の準備があってこそできる、煙草やお酒と同じ、一時的な救済処置なんだから。
 楽になるのは一瞬だけ。また時間が経てばしたくなる。
 一時的な救済処置と言えば、性的快楽もそれに該当するな。
 自慰や性行為。これらはおわったあとはとてもすっきりするけど、また時間が経てばしたくなるものだ。
 どうしてあたし達人間がそういうふうにできているのか。それはただの暇潰しなわけで。
 そう、暇潰し。暇だからクリスマスやお正月、バレンタインデーにホワイトデーなどといった行事を作るのと一緒で、暇だから同じことを繰り返す。暇だから一服をする、暇だから酒を呑む、暇だから自慰をする、暇だから性行為をする、暇だから自分を傷つける。
 そんなに退屈なら産まれてこなければいいのに、暇だから性行為をしたら子供ができたので育ててる。そうしてまた退屈な日常に頭を悩ます人間が一人増えるんだ。

「ね、痛い?」

 痛くないよね、この程度の浅い傷。あたしも全然足りないよ。もっともっと傷つけたい。痛みで顔を歪める鹿児島がみたいんだ。

「もっと?」

 言いながらあたしは鹿児島の腕に刃を当てる。グッと力を込めて、このまま横に動かしたらどのくらい痛いんだろう。
 切ってみたい。このまま横に。

「……そんなにしたいなら自分の腕ですればいいのに」
「は?」
「その方がきっと、他人を傷つけるよりずっときもちいいはずだよ」

 その発想はなかったな。だって痛いのやだし。傷なんて心だけで充分。身体は綺麗でいたいでしょ。
 あたしは自分の手を横に動かした。
 鹿児島の白い腕が赤く滲む。声くらいだせばいいのに、鹿児島はまだ黙っている。

「ねぇ痛い? 痛いでしょ? 痛くないわけないよねぇ? それとも痛覚どっか行っちゃった?」
「……貴女にされてもなにも感じないわ」
「は?」

 むかついた。こいつ、何処まであたしを下にみてるんだ。

「馬鹿にしてんじゃねぇよ! いっつも涼しい顔しやがって!」

 怒りで声が震えていたかもしれない。だけどあいつは……鹿児島は、まっすぐにあたしをみつめていた。

「なんなんだよ……なんでそんなにてめぇは」

 なんで、なんで。絶対あたしの方が上なのに、絶対あたしの方が、あたしの方が!

「なんで、そんなに強いんだよ」

 認めたくもなければ尊敬なんてしたくもない。それなのにそう感じてしまうのは、あたしの心が弱いから。
 違う、あたしは弱くない。弱くなんかないはずだ。
 だっていままでもそうやって生きてきた。なにがあったって平気だった。平気だったんだよ。
 それなのに鹿児島をみていると、自分が弱くみえてくる。
 鹿児島の方がずっと強い。あたしなんかよりもずっと。
 どうしてそう思ったんだっけ。いつからあたしは鹿児島を怖いと感じるようになったんだっけ。
 は?
 怖い?
 誰が?
 鹿児島が?
 あたしに怖いものなんてないよ。あたしが一番最強で、誰よりも輝いていたはずなんだ。
 だって鹿児島だよ?
 鹿児島が怖いなんてはずは。
 わからない。どうしてあたし、そんなふうに思ったの?
 わからない、わからない。あたしの感情、どうしたの?
 もしかして愛莉にぐちゃぐちゃにされた?
 愛莉があたしの中であたしを壊そうとしてるわけ?
 いやむりでしょ。それはむり。あんたは大人しくあたしの中でなにもできずにじっと傍観してればいいんだよ。

「……どうしたの?」
「は?」
「私が怖い?」

 違うのに、心の中を見透かされたような気がしてゾッとした。ゾッとなんてもんじゃない。あたしは目の前にいる女に、もしかしたら殺されるんじゃないかってくらいの恐怖を感じて、鹿児島が喋れば喋るほど、あたしはあたしはあたしあたしあたあたあたたししししし。

「えっ、いや、そん、な」

 どうしてあたし、言葉に詰まってるの?
 これはなに?
 どんな魔法?
 あたし、上手く喋れてる?
 心臓がドキドキして息がしにくい。息ってどうやってするんだっけ。吐いて吸う?
 吸って吐く?
 えっと、えっと、いまのはどっち?
 すうだから、吸った?
 吸ったらどうするんだっけ。吸ったら吐く、吸ったら吐く、すうはあ、すうはあ、すうううう。

「私は貴女なんか怖くない。怖がっているのは貴女だけ。貴女は直に貴女ではなくなるの。貴女の中にいるもうひとりの貴女の手でゆっくりと確実に壊れていく」
「ち、が」
「壊れていく様をみるのは楽しいね。よかったね。今度は自分自身が壊れていくね。早くいなくなってね」

 声は小さいはずなのに、鹿児島がなにを言ってるのかわかってしまう。こいつ、こんなんだったっけ。もっと弱くて脆かったはずでしょう。

「お兄ちゃん」
「は?」
「大好きなお兄ちゃんが生きててよかったね」
「どう、してそれを」
「お兄ちゃんとキスできてよかったね」

 それは誰も知らないはず。なのにどうしてそんなことまで知ってんの?
 は?
 もしかして藍子さんとグルかこいつ。二人してあたしのこと馬鹿にして、影で笑いあってるんか。

「なん、で」
「ああ、本当なんだ? 適当だったのに、へぇ」

 本当に適当だった?
 本当に?
 嘘。信用できない。どっかで情報が漏れている。

「適当? 適当って、てき、適当」

 ああもう、上手く喋れなくてもやもやするな。頭の中はこんなにはっきりしてるのに、どうして上手く喋れないの?

「え、なに? 聞こえない」

 それはあたしが鹿児島によく言う言葉だった。こいつの声が小さいから。だからあたしがこいつに言うんだ。

『え、なに? 聞こえない』

 こんなタイミングでやり返されるなんて思わなかった。こんなに嫌なきもちになるなんて。

「て、め」
「あは。超ウケる。これでもう、静かになったかな」

 病室ではお静かに。
 そんなの、わかってるっつうの。

「じゃ、もう帰っていいよ。ばいばい」
「あ、あ」
「ばいばい」

 くそ、声が。
 もういいまた出直そう。今度会った時にボコボコにすればいいよ。
 あたしはもやもやを抱えたまま踵を返すと、病室をでて外の空気に触れた。

「あ、あ……なんだ、普通に喋れるじゃん」

 外にでるとさっきまでの恐怖心は消えていて、声も普通になっていた。
 さっきのはなんだったんだろう。まあいい。とりあえず今日は帰ろう。まだ時間はたっぷりあるんだし。
 そういえば、お兄ちゃんは柚留をみつけたかな。みつけてないといいなぁ。

「愛莉さん、みぃっけ♡」
「」
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