橋本愛莉というおんな

まなづるるい

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第九章

61.

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「この服、だぼだぼなんだけど」

 藍子さんが用意してくれた服は、膝上まで隠れるほど長い白のトレーナーだった。

「ごめんね、それしかなくて」

 絶対嘘だ。またあたしを子供扱いして。

「……お兄ちゃん、いなかった」
「そう」
「もう柚留と会えたのかな。だから帰っちゃったのかな」
「どうかな。そうだといいけどね」
「なんで一言も言ってくれないんだろ。やっぱりあたしとは話したくないのかな」

 自分で言ってて悲しくなってきた。お兄ちゃんのことになると涙腺が緩む。

「私は気にしないからね。好きなだけ此処にいて」
「……偽善者だね」
「なんとでも言って」

 本当はありがとうって言わなきゃいけないのに、あたしの口は素直になれないでいる。多分、甘えてるんだろうな。なんでも受け入れて許してくれる藍子さんに。

「ねぇ、本当にお兄ちゃんとはなにもない?」
「うん、なにもない」
「あたしはそれをどう信じればいい?」
「信じなくたっていいよ。私のことが嫌いなら嫌いなままで」

 ふと、藍子さんのスマホが震えた。画面をみると、藍子さんの手が止まる。

「……え?」
「なに、どうしたの?」

 なにその顔。そんな顔、いままで一度もみせなかったくせに。

「あ、ううん、なんでもない」 

 隠されると余計気になるじゃん。

「なに? 誰から?」
「えっと、彼氏から」
「彼氏って遠距離の?」
「うん」
「なんだって?」
「別れようって」
「は?」

 かなり大きな声がでた。だってなにがどうなって別れようになったわけ?
 ていうか別れちゃだめじゃん。いま別れたら藍子さんは本当に。

「……え、なにその顔」
「え?」

 一瞬だけ垣間見えた藍子さんの表情は、どうしたって悲しんでるようにはみえなくて。むしろ、別れを告げられて喜んでいるような。

「藍子さん、もしかして彼氏と別れたかった?」
「どうして?」
「もしかしたら彼氏がめっちゃクソ野郎でずっと別れたいと思ってたから、向こうから別れようって言われて嬉しかったのかなって」
「嬉しかった?」
「だっていま、絶対にやけてた」
「そうみえる?」
「え?」
「そっか……ふふっ。そう、だね。嬉しいのかも」
「どうして?」
「うーんなんでかなぁ」

 なんだろう。なんか嫌な予感がする。こいつは本当に善人なの?

「これで気兼ねなく羽を伸ばせるから、かな?」

 あたしの中で確信に変わった。こいつは絶対にお兄ちゃんとなにかしてる。もしかしたらお兄ちゃんが寝ぼけてるうちに。だからお兄ちゃんはあの時も寝ぼけて藍子さんの名前を口にした。気兼ねなく羽を伸ばせるなんて嘘。そんなのとっくに伸ばしてるくせに。

「束縛でもされてたんですか?」
「ううん。ほら、彼氏がいるってだけで男の人は近づいてこないから、遠距離ならいいかなと思ってしばらくは虫除けにしてたんだけど、向こうは私がいないのをいいことに平気で女を作ってたみたいでさ。やっぱり遠くの虫より近くの虫かな。ああでも近くの虫はもう逃げたんだった。あはは」

 この女は自分の彼氏を虫だと思ってるの?
 近くの虫って誰のこと?
 まさかお兄ちゃんのことじゃないよね。

「愛莉ちゃんも顔は可愛いんだから、虫は近くにおいておいた方がいいよ? あ、だけど遠くの虫はだめ。あれは平気で浮気するからね」
「ねぇ、近くの虫って誰のこと?」
「え? ああ、橋本くんだよ。シスコンなのはちょっと痛いけど、彼女持ちってことはモテるんでしょ?」
「彼女持ちが好きなんですか? でもさっき浮気はだめだって」
「浮気はだめだよ? だけど、人のものだとほしくなっちゃうよね。だから奪うなんて大層なことはしないけど、身体が渇いた時にちょっとだけ借りるくらいならいいとは思わない?」

 意味がわからない。藍子さんはすっごく知的で大人で常識人だと思ってたのに、実はビッチで性悪だったってこと?

「……借りたの?」
「え?」
「お兄ちゃんの身体、借りたの?」
「渇いたから潤してもらっただけだけど?」

 そうだよね。しかも一度じゃないよね。きっと毎晩、あたしにしてもらったあれを藍子さんにしてたんだよね。
 お兄ちゃんとキスをして、きもちよくしてもらって、あたしにはなにもないなんて嘘ばっかり。

「……なにもないって言ったじゃん」
「なにもないよ。付き合ってもなければ最後までシテないんだから」
「お兄ちゃんは遊びってこと?」
「愛莉ちゃんだって、大好きで堪らない橋本くんとキスしてきもちよくなったんだよね? 此処にいればまたしてもらえると思ったから帰ってきたんじゃないのかな?」
「そんなつもりは」
「本当に? 絶対ないなんて言い切れる?」

 嘘。あわよくばを期待した。藍子さんのふりをした。あたしの好きはそれくらいの好き。

「さっき、必死に橋本くんを探しに行ったよね。そんなに必死になってまで探すくらい好きなんだ。そこまで想われてる橋本くん、いいなぁ、ほしいなぁ。ねぇ、雨が止んだらまた探しに行きなよ。そして此処に連れてきて? そしたら私が橋本くんに告白するよ。橋本くんが私と恋人になれば、愛莉ちゃんだって嬉しいよね? 橋本くんが私と恋人になれば、いつでも好きな時に私のふりしてきもちよくなれるもんね」

 藍子さんとお兄ちゃんが恋人になれば。
 そんな甘い話にあたしが乗るわけないじゃん。
 心の中で思いながらあたしは揺れていた。あたしの好きはそれくらいの好き。
 お兄ちゃんの唇を、舌の感触を、藍子さんのふりをするだけでいつでも好きなだけ感じることができるんだ。ううん、それだけじゃない。恋人になるということはその先だってある。

「おーい、戻ってこーい」
「はっ」
「あは、妄想が捗っちゃった?」
「ち、ちが」
「そうと決まれば衣食住は私に任せて、愛莉ちゃんは頑張って橋本くんを探してね」

 悪魔だと思った。藍子さんは本当になんでもないようにさらっと平気で嘘を吐く。こんな人と二人きりでいるなんてむり。早く此処から逃げださないと。
 でも、逃げるって何処へ?
 お兄ちゃんを探す?
 探して何処に行けばいいの?
 頭の中で考える。いったい何処が安全なのか。いっそ二人で誰も知らない場所に逃げてしまおうか。逃げて逃げて逃げまくって、そこで二人で暮らせばいい。
 そうだよ最初からそうすればよかったんだ。誰にも邪魔されないところで、お兄ちゃんとのんびり暮らすんだ。学校なんてどうでもいい。お兄ちゃんさえいてくれればなんだって。
 そこまで考えが至った頃、インターフォンが鳴った。
 藍子さんが玄関に向かって戻ってくると、そこにはお兄ちゃんの姿があった。

「お、お兄ちゃん? いままで何処に行ってたの?」
「え……柚留を探しに」
「柚留はみつかった?」
「いや、みつからなかったよ」

 言うならきっといまだ。あたしは深呼吸をする。

「あのね、お兄ちゃん」
「なに?」
「あたしと二人で何処か遠いところに行こうよ」
「え?」
「これからは遠いところで、二人でのんびり暮らそう?」
「……柚留は?」
「柚留のことはもういいじゃん。こんなに探してもみつからないんだし。それよりもあたしと二人で」
「なんで?」
「え?」
「なんで柚留を諦めるの? なんで愛莉と二人で遠いところに行ってのんびり暮らすの?」
「なんでって……だってお兄ちゃん、ずっと柚留を探してんじゃん。柚留がいない所為でお兄ちゃんの時間が柚留を探すのに充てられて、あたしのことなんて全然みてくれないじゃん」

 違う。こんなことが言いたいんじゃない。それにこんな言い方じゃ喧嘩になる。

「……あたしだって、本当にお兄ちゃんに会いたかった。本当に傷ついて、淋しくて、胸の辺りがずっと痛かった。やっとまた会えたのに、柚留ばっかり……本当に嫌……」

 止まれ、あたしの口。こんな言い方じゃ本当にお兄ちゃんに嫌われる。
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