橋本愛莉というおんな

まなづるるい

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第九章

64.

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 放課後になり、鹿児島と向かった先は喫茶店フルールだった。
 あたしはこれから加賀に会いに行く。鹿児島の目の前であたしと性的接触をしてくださいと言うために。
 制服のスカートのポケットの中には避妊具がひとつだけ入っている。一度だけ。一度だけでいいから、最後まですればミッションクリアなのだ。
 これは死ぬより簡単なことだと自分に言い聞かせながら入口のドアに手をかける。
 今日に限って加賀が休みだったりしないだろうか。
 そんな期待は加賀の、「いらっしゃいませ」の一声で掻き消されてしまった。

「こんにちは、愛莉さん。今日はお友達もご一緒なんですね」

 相変わらず外面だけはピカイチだ。こんなところで話を切りだすのも変なので、店内へと案内される。
 瑞穂がいないのが唯一の救いかもしれない。あいつに聞かれればあたしの人生はおわったも同然だろう。

「ご注文は」
「……」
「ご注文は」
「……か、加賀、で……」

 静まり返る店内。
 いや、正確には店内は煩いままなのだが、あたしの耳には周りの声など一切入ってこなかった。
 聞こえていないわけではないのだろう。流石の加賀もこれにはしばらく無言でいた。
 せめて笑い飛ばしてくれればいいんだ。そしたらあたしだって冗談だって言えるのに。なんでもいいからなんか言って。嘘。なんでもは嘘。お願いだからいまだけは拒絶して。空気を読んで、加賀。

「……ご指名ありがとうございます。お友達の方は、なにになさいますか」
「ラテで」

 鹿児島のラテがテーブルに運ばれると、加賀は何事もなかったかのように席を離れた。
 加賀のくせにこのただならぬ空気を読んでくれたのだろうか。いまだけは感謝してやってもいいと思った。
 ていうかあたしは加賀を頼んだのに、テーブルに運ばれてきたのは鹿児島のラテだけじゃん。やっぱり感謝しなくていいや。
 手のひらくるくる。なんだか加賀に振り回されている気がしてならないのが癪だけど、いつまでも気にしてたくなくて少しだけ溶けてしまったお冷の氷を口の中へと放り込む。
 バリバリボリボリ。加賀に相手にされなかった程度じゃ、鹿児島は諦めてはくれないだろう。
 氷をバリボリと噛み砕いていると、ふいに鹿児島と視線がぶつかった。

「なにみてんだよ」
「スタッフルームに行って」
「は?」
「関係者以外立入禁止の部屋に行けば必ず店長が声をかけてくる」
「だから?」
「そこがチャンス」

 ははあんなるほど。鹿児島はいまから閉店まで居座るんじゃなくて、いますぐやれって言いたいわけね。
 でもさ、そこに行くのは簡単だけど、そこからどうやってそういう雰囲気に持っていけばいいのかまではわからないんだけどどうすんの?
 あたしはまだなんの前触れもなく身体を許すような女に成り下がったつもりはないんだけど。

「で、あんたも一緒にくるの? それともあとから入ってくる?」
「私は此処にいる」
「は? あたしがちゃんと目的果たしてるかみなくていいわけ?」
「いい」
「やったふりして実はなにもしてないかもよ?」

 これが無言の圧というものなのだろうか。鹿児島は黙ったまま、じっとあたしをみつめている。
 とりあえず行くか。行かなきゃ鹿児島は許してくれそうにないし、このまま此処で座っているのも落ち着かない。
 あたしはスッと立ち上がると、スタッフルームへと向かった。
 向かったのだが。
 なんだろう、あまりにもすんなりと着いてしまったぞ。誰にも止められることのないままスタッフルームの前にきてしまったので、これはこれでゾッとする。
 セキュリティーがガバガバなのか?
 天井にある監視カメラはただの飾りだったりして。
 もう、誰か早く止めなさいよ。じゃないと部外者が勝手に入っちゃうんだから。

「……は、入れちゃった」

 誰も止めてくれないから入れちゃった。スタッフルームには沢山のロッカーがあって、テレビがあって、電子レンジがあって、冷蔵庫があって、テーブルがあって、ソファがある。
 これって不法侵入になるんじゃ。こんなつまらないことで警察に捕まるとか嫌なんだけど。
 そうなったら全部、鹿児島の所為だ。鹿児島が加賀としろなんて言うから。鹿児島がスタッフルームに行ってこいなんて言うから。
 そうだ、いまなら引き返せるかもしれない。スタッフルームに入ったけど加賀はこなかったと言えば、鹿児島も納得してくれるかも 。
 それにきっとこの部屋にだって監視カメラが……いや、ロッカーがあるということは、此処で着替えもするのだろう。なら、監視カメラはない。むしろあったらやばいはず。
 だけどあたしがスタッフルームに入るところは店内にある監視カメラにばっちり映ってるから、窃盗を疑われたとしてもおかしくはないだろう。
 どうする。なにもしていないのにスタッフルームからなかなかでてこなかったら余計に怪しまれるだけだし、もうでる?
 よしでよう。どうせ加賀も気づいてないっぽいし、トイレと間違えたふりして席に戻るんだ。
 すると、スタッフルームからでようとしたあたしの前でドアが開いた。
 やばい、誤解される。
 そう思い足を止めた瞬間、加賀と視線がぶつかった。

「……え……か、加賀? なんで此処に」
「それはこちらのセリフです。愛莉さんこそ、此処でなにをしているんですか?」

 ドアを開けたのが加賀でよかったと安堵すると同時に、ドアを開けたのが加賀である事実に落胆する。
 いっそ知らない人であれば鹿児島の所為にできたのに、どうして目の前にいるのが加賀なんだろう。

「あ、あたしは……トイレと間違えて」
「ああ、トイレに行きたかったんですか? では僕のことはお気になさらず」
「は?」
「どうぞ、してください」
「してくださいって、なにを?」
「放尿を」

 は?
 こいついま、放尿って言わなかった?
 まさか此処でしろって言いたいの?
 あたしは予想の遥か斜めを行く加賀の発言に酷く困惑した。
 だってそうでしょう、人前で放尿だなんてできっこない。それにトイレはトイレでするもんだ。あたしにそういう趣味はないんだし。

「あれ、しないんですか? それとも放尿の意味がわかりませんでした?」
「い、意味くらいわかるっての! あたしはあんたがきしょい発言するからドン引きしてんの! あんたの趣味をあたしに押しつけないで!」
「はは。愛莉さんは本当に可愛いですね。もしかして拭くものの心配をしてるんですか? それなら僕が全部舐めてあげますからご安心を。さあ、どうぞテーブルの上へ」

 全部舐め……。
 うっかり想像しちゃって心の底からドン引きした。そもそもトイレと間違えたなんて嘘だし、ちっとも尿意なんかないし。
 だけどトイレと間違えたのが嘘だとわかったら、あたしが此処にいる理由を説明しないといけなくなってしまう。
 どうしよう、どうするのが正解だ。考えろ、考えろ。

「ふふっ」
「な、なに笑ってんだよ」
「困ってるなぁと思って」
「あんたが阿呆なこと言うからじゃん」
「嫌なら僕を突っぱねてこの部屋からでていけばいいのに、それをしないのは此処でなにかをするためでしょう」

 加賀はとても勘がいい。だから嫌いだ。一度こうなってしまえば、これ以上誤魔化すのはむりだろう。
 しかしどうしてあたしが自分からこんな提案をしなくてはならないのか。いや、そもそも鹿児島の言うことなんか聞かなければいいだけの話なのに、どうしてあたしは律儀に守ろうとしてるんだ。
 そうだよ、鹿児島の言うことなんか聞かなければいいんだ。この部屋に監視カメラはないんだし、加賀と話を合わせておけば鹿児島の目は誤魔化せる。窃盗なんてしてないんだし、なにもビビる必要はない。

「いや、実はあたしと一緒にきた子さぁ、鹿児島っていうんだけど、そいつにスタッフルームに行ってこいって指示されたんだよね」

 加賀はあたしの話を黙ったまま聞いている。

「だからあたしは此処にいるの。で、誰かにばれたら戻ってきていいよって。だからもう行くね」

 黙ったままなのをいいことに、あたしはこの場を立ち去ろうとした。
 そうだ、鹿児島への言い訳はどうしよう。いまから戻ったら早すぎるって思われそうだよね。ううん。もし疑われたら加賀が早かったと言えばいい。勘のいい加賀なら鹿児島からなにか聞かれても、きっと上手く躱してかわくれるだろう。
 あたしはスタッフルームからでると、不自然にならないよう鹿児島のいるテーブルへと戻ることに成功した。

「おかえりなさい」
「……うん」
「早かったね」
「あいつが早いだけだよ」
「どうだった?」
「どうって?」
「きもちよかった?」

 他にも客がいるのによく平気でそんなふうに聞けるよね。正直引くわ。

「早すぎてあんまり……」

 いまあたしが嘘を吐いたところで、スタッフルームにこっそり監視カメラを仕掛けない限り、鹿児島にわかるわけがない。それとも事前に仕掛けているのだろうか。だとしたら詰むんだけど。
 え、ばれたりしないよね?
 鹿児島ならやりかねないんだけど?
 まさかと思いつつ心臓がドキドキと高鳴ってくる。もし嘘がばれていて、あたしを泳がせてるだけだったとしたら?
 鹿児島の表情からは、なにを考えているのか皆目検討がつかない。故にあたしは鹿児島に罪悪感を感じ始めていた。
 罪悪感だって。このあたしが鹿児島に?
 冗談。
 普段ならこんな負の感情なんてちっとも湧いてこないくせに、愛莉がいるからあたしがどんどん変になる。伝染るんだよ、愛莉のきもちが。
 くそ、本当のことを言うか?
 あたしの思い過ごしかもしれないのに?
 黙っていれば平和に過ごせたかもしれないのに、自分からわざわざ波風立てるの?
 黙ってろとあたしは思う。だけど愛莉はそれを許さない。
 あたしは自然と言葉にしていた。あたしの意に反してすらすらと。

「……鹿児島、あたし、さっき加賀に放尿してって言われたの」

 あたしはスタッフルームでの加賀のやりとりを、鹿児島に包み隠さず暴露した。鹿児島はあたしの話を黙って聞いている。

「だけどそんなのむりに決まってるじゃん。尿意だってなかったし、あったとしても絶対に嫌。こんな異常性癖者とこれからするなんてむり。だからなにもしないで逃げてきたんだ」
「ふうん」

 てっきり嘘吐いたことを責められるかと思ったのに、鹿児島はなにも言ってこなかった。

「どうして鹿児島が加賀を知ってるのかはわからないけど、あいつはあたしのことが好きで、きしょいくらいあたしを崇拝してるわけ。そんな野郎にあたしからしようなんて言ったらどうなるか……うっかり妊娠させられたりでもしたら、あたしは絶対にその子供を殺すわよ。あいつの子供とか産みたくない。自分で階段から落ちて流産させてやる。だからもう、あいつとだけはしろなんて言わないで」

 鹿児島はあたしが話しおえたとわかると、今度は自分の番だと言わんばかりに淡々と話し始めた。

「この店の監視カメラってほとんどダミーなんだって」
「は?」
「でもひとつだけ本物なの。それがあのカメラなんだけど」

 鹿児島はすぐ近くにある監視カメラを指さした。

「あのカメラはこの席がよくみえるのね。だから私達の姿もばっちり映ってる」
「はぁ」
「でね、そのカメラをみれる権限を持っているのってこの店の店長だけなんだって」

 この店の店長。つまり加賀。加賀だけが監視カメラをみれるということは、いまもカメラ越しにこちらをみているかもしれないということだ。

「今頃カメラをみながらにやにやしてるのかも」
「て、適当なこと言うんじゃねえよ」
「だってさっきから店長いないし」

 言われてみれば確かにそうだ。あれから結構時間が経つのに、店内の何処にも加賀の姿はない。

「あんたはなんで加賀を知ってんの?」
「なんでって、貴女が自分で言ったんじゃない」
「は?」
「加賀はいつもお兄ちゃんに色目使っててきしょいって」

 ああそうだ、確かにあたしがそう言った。
 あたしが事故に遭う前にあたしが流に漏らした愚痴。それを鹿児島が聞いてたんだ。顔まではわからなくても、お兄ちゃんのバイト先の加賀という男がどんなにきしょくて嫌いかを鹿児島は知っている。
 だから鹿児島はあたしの相手に加賀を選んだ。あたしが嫌いな相手だと知っていたから。

「世界で一番嫌いな人とそういう行為をする。それがなによりも貴女が嫌なことだよね、愛莉ちゃん」

 愛莉ちゃん。
 そうだ、鹿児島はあたしをそう呼んでいた。

『愛莉ちゃんは、どうして生きてるの?』
『は?』
『だって愛莉ちゃん、お兄さんに愛してもらえなかったんでしょう? 家族でもなければ恋人にもなれないなんて可哀想。なのにどうして生きてるの? 変な愛莉ちゃん』
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