橋本愛莉というおんな

まなづるるい

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第十二章

80.

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 目を開けると白いのがみえた。これが天井だと気づくまでに三秒、時間を要す。
 あたし、生きてる。やっぱりあの川は元の世界に戻るための道だったんだ。
 此処は多分病院で、ベットの中だ。
 視線を動かしながら、現状を把握していく。近くには看護婦さんや患者さんすらいない。勿論、加賀さんも。
 ナースコールを押せば気づいてくれるかな。
 手を動かそうとすると、身体のあちこちに痛みが走る。

「いたっ」

 それでもナースコールは押せたと思う。きっとこの病院の何処かに加賀さんもいると思う。いまはトイレか売店にでも行ってるんだ。
 しばらくすると看護婦さんがきて、状況を丁寧に説明してくれた。思った通り、あたしは車に轢かれて救急車で此処まで運ばれてきたらしい。あたしを轢いた人は謝りもせず、そのまま車で逃げたって。
 なにはともあれ、あたしは生きている。意識を失ってから数日が経過していると聞かされたけど、そんなことなどどうでもいい。愛莉はどうなったのか知らないけど、頭痛はもう、消えていた。これが答えでしょう?

「あの、加賀さん、は」
「加賀さん?」
「えっと、いますよね。あたしを此処まで連れてきてくれた人」
「んと……救急車を呼んでくれた人のことかしら。たまたま近くで犬の散歩をしていたお婆さんでね、その方なら救急車が到着するまで貴女に付き添って、自分は足が悪いのであとはよろしくお願いしますって、名前も名乗らずにさよならしたわ」

 は?
 犬の散歩をしていたお婆さん?
 加賀さんじゃなくて?
 加賀さんは犬なんて飼ってないし、足の悪いお婆さんなんかじゃない。看護婦さんの話が本当だとするならば、加賀さんはあたしが車に轢かれて数日間意識を失っていたことを知らないってこと?
 は?
 なんで加賀さんが知らないの?
 あたしにあんなことを言った張本人の加賀さんがなんで知らないの?
 なんでなんでなんで。

「……違う」
「え?」
「違う違う違う違うお前じゃないお前じゃないお前じゃないなんでなんでなんでなんでなんで」
「は、橋本さん? どうしたの、落ち着いて」
「はぁ? 意味わかんない。加賀さんは? なんでいないの? 意味わかんない意味わかんない意味わかんない」

 あたしがどんな思いであの真っ暗な闇の中に愛莉といたと思ってんの。あたしがどんなに加賀さんに会いたかったか、どんなにあの言葉でどん底に突き落とされたか、知らないなんて許さない。
 通りすがりの犬を連れた優しいお婆さんが助けてくれました。だからこうしてあたしはいま、生きているのです。生きてさえいれば加賀さんに会えますね。嬉しいですね。ありがとう、ありがとう。なんて感謝できるわけがないでしょう。あたしはそこまで聖人じゃないし、愛莉があたしの中から消えたと過程されるいま、やっとあたしの新しい人生が始まろうとしているいま、どうして加賀さんが此処にいないの?
 わかんないわかんない。そんなの絶対におかしいよね。あんなにあたしを傷つける言葉を吐いておいて、死ぬかもしれない瀬戸際までいって、当人である加賀さんはなにも知らないままのうのうと生きているなんておかしいよね。
 あたしが自分の髪を引っ張りだしたからか、看護婦さんは慌てて他の看護婦さんやお医者さんを呼んで、あたしの手足を押さえつけながら注射を打った。
 注射の中には安定剤が入っていたんだろう。打たれてから数十秒後には、あたしは落ち着きを取り戻していた。

「ごめんねいきなり注射なんて。でも、やっと目が覚めたのに自分を傷つけるなんてだめだよ。生きてさえいれば、絶対いいことはあるからね」

 あたしを宥めながらカーテンを閉める看護婦さん。

「……生きてたって、いいことないよ」

 本当に、なにもない。あたしだって生きたかったはずなのに、いざ生きてみると生きる希望がみいだせない。お兄ちゃんを失ったいまとなっては、加賀さんの存在があたしのすべて。そのすべてが此処にいないなら、あたしにはもうなにもない。

「加賀さんて方の連絡先がわかるなら、連絡してみようか?」

 そうだ。加賀さんは知らないだけで、あたしが車に轢かれていままで意識を失っていたんだと知れば、飛んできてくれるかもしれない。知らないだけ。まだ、知らないだけ。それだけで絶望するのはまだ早いよね。
 あたしは看護婦さんに加賀さんの実家の住所を伝えると、加賀さんが飛んできてくれるのを待っていた。
 思った通り。加賀さんは次の日の朝、あたしの前に現れた。だけど加賀さんは異常なくらい落ち着いていた。
 もっと取り乱してくれてもいいのに、どうして汗のひとつも掻かないでいられるの?
 あたしが死んだら愛莉だって死んじゃうのに。あたしが生きているから愛莉も生きていると思ってるの?
 だとしたらそれはあたしに対して失礼だよね。いま、此処にいるのは愛莉じゃなくてあたしなのに、加賀さんはそうやってあたしの奥にいるかもしれない愛莉だけをみてるんだ。 
 だったらそんな幻想、壊してあげる。愛莉はもう何処にもいないんだって、教えてあげる。

「……きてくれたんだ」
「わざわざ病院の方が実家まで出向いて事情を説明されたんだ。そうですかではお帰りくださいとは言えないでしょう」
「愛莉じゃなくてごめんね? 加賀さん、あたしとは会いたくなかったのに」

 無言は肯定の意。加賀さんはあたしに会いたくなかったんだ。

「本当にごめんね? 愛莉はもう、いないよ」
「……は?」
「愛莉はもういないの。あたしが選ばれたんだ。これからはずっと、この身体はあたしのものだよ」

 困惑と怒りが混ざったような瞳をみて、あたしの心は軽くなる。
 ざまぁみろ。あたしにあんなことを言ったから。そんなに愛莉が好きならあたしを大事にしなくちゃいけなかったのに、加賀さんがあたしを傷つけるから。

「だから……ふふっ、ごめんね?」

 笑いながら謝るなんて失礼だとわかっていても、誤魔化すことができなかった。だってそうでしょう。加賀さんの苦痛に歪む顔がみたくてわざと言ったんだもん。

「愛莉さん……愛莉さん……愛莉……」

 その場で力なく膝から崩れ落ちた加賀さんは、ただただ淋しそうに愛莉の名前を繰り返しぽつりと呼んでいた。
 許せないなぁ。もう愛莉はいないのに、いつまでも女々しく愛莉愛莉って。あたしだって愛莉だよ。本当に加賀さんって、あたしなんかどうでもいいんだね。
 そうだよね。愛莉がいないならあたしなんかどうだっていいよね。愛莉がいたから大切にされてきただけで、どうして勘違いしてしまったんだろう。やっぱり生きてたっていいことなんかないよ、看護婦さん。
 あたしは目の前にいる加賀さんに対して、急速にきもちが冷めていくのを感じていた。
 やっぱりあたしにはお兄ちゃんしかいないんだ。だけど、でも、お兄ちゃんは。あんなお兄ちゃんをお兄ちゃんだと思っていいのかな。もうあんなのはあたしが好きだったお兄ちゃんじゃないのかも。
 スリープモードみたく動かなくなった加賀さんが、突然水を得た魚のように動きだす。
 加賀さんはあたしになにも言わずに病室からでていってしまった。
 さようなら、加賀さん、お元気で。あたしも退院したら家に帰ろう。藍子さんは怒るかもしれないけど、本当に死にかけたんだからそこは大目にみてほしいな。
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