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第十二章
81.
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退院当日。入院中、一度も加賀さんはこなかった。だけど、そんなのあたしにとってはもうどうだってよかった。あたしは帰ったらまず最初に藍子さんに会わないといけないんだ。会って殴られてこなくては。
お世話になった看護婦さんにお別れの挨拶を済ませると、外に呼んでおいたタクシーに乗って藍子さんの家へと向かう。いざ家の前に着いてみると、心臓が口からでそうなくらい緊張しているのが自分でもよくわかる。
料金を支払いタクシーを降りる。インターフォンを鳴らせば、聞き覚えのある声がして息が止まった。
「はい」
「……っ、あ……」
油断した。だっているなんて思わなかったから。あんな別れ方をした以上、どんな顔して会えばいいのかわからない。
なにか、なにか言わないと。このままじゃ不審者だと思われちゃう。
頑張って声を振り絞るけど、でてくる言葉は、「あ」しかなくてもどかしい。
どのくらい時間が経ったかわからないし、どのくらいの間隔で、「あ」と言ったのかもわからないでいると、インターフォンからぷつんと音がして、向こうから切られてしまったんだと痛感する。
どうしよう。もう一度インターフォンを押したとしても、上手く話せる自信がない。かといってこんなところでいつまでも突っ立っていれば、それこそ不審者と思われて第三者に通報されてしまうかも。行動に移すならいましかない。
勇気をだしてもう一度インターフォンを押そうとすると、玄関が開いた。
「お、お兄ちゃん」
あたしがいつまでもはっきり喋んないから、わざわざ玄関まできてくれたんだろう。久しぶりにみるお兄ちゃんは、いままでとなにひとつ変わっていなかった。
「でたのが俺でごめん。いま、俺しかいないんだ」
「え、藍子さんは?」
「出掛けてる。もうすぐ帰ってくると思うけど」
本当になにも変わっていない。声も見た目もなにもかも。変わっていないことに安心したような、残念なような、不思議なきもち。
「……ま、またくる」
「愛莉」
名前を呼ばれてゾクッとした。あたしが世界で一番好きな声で呼ばれたから。
あたしはお兄ちゃんに背を向けたまま、「なぁに」と返事をする。
お兄ちゃん、いったいなにを言うつもり?
「あの、さ」
歯切れの悪い言い方に、あたしはどうしても期待してしまう。もしかしたらあたしにずっと会いたかったとか、会えなくて淋しかったとか、そういうあたしにとって都合のいい言葉を言ってくれるんじゃないかって。
だけど全然そんなんじゃなかった。そんなんじゃなさすぎていつまでもおめでたいあたしの頭の中を、頭のいい他の誰かさんと交換したくなっちゃった。
「俺、藍子さんと付き合うことになったんだ」
なんで?
どうして?
聞いた途端、一瞬でもやもやとした黒いきもちが溢れてくる。
お兄ちゃんはあたしのきもち、知ってるでしょう。知ってて藍子さんを選ぶんだ?
そうなんだ、そうなんだ、お兄ちゃんってそうなんだ。
お前は誰だ?
お前なんか知らない。お前なんかお兄ちゃんじゃない。
あたしの脳は、身体は、全力でお兄ちゃんを拒絶した。
だってそうでしょう。こんな奴知らない。あたしを好きじゃないお兄ちゃんなんてお兄ちゃんじゃない。
「……愛莉?」
「あっそう。それで? あたしはそれを聞いておめでとうとでも言えばいいの?」
「気を悪くしたならごめん。だけど、愛莉には一番に知らせたくて」
「どうして?」
「だって愛莉は俺の妹だから」
「貴方の妹は柚瑠ちゃんでしょう」
「そうだけど、愛莉も俺の妹だ」
「あたしは妹じゃないよ」
「……妹、だよ……」
ねぇ、どうしてそんな苦しそうな表情をするの?
こういう時はそういう表情をするって、インプットされてるの?
「……藍子さんにあたしの連絡先教えといて。それじゃ」
踵を返すと、あたしはそのまま歩きだした。もう振り返らない。だってあの人はあたしのお兄ちゃんじゃないから。
藍子さんには日を改めて会いに行こう。もやもやは全部シャワーで洗い流した。さようなら、加賀さん。さようなら、お兄ちゃん。
一日で二人にお別れを告げたあたしは、明日からどう生きていけばいいのかすらわからないでいた。あたしが生き残ったのに、もうあたしはあたしでいることが嫌になっている。
とりあえず学校には行かないと。そうだ、鹿児島さんはちゃんと学校にきてるのかな。他に友達ができていたりして。
流は、流にはまだ会えないかな。学校にあたしの居場所はあるのかな。
不安なきもちを引き摺ったまま朝を迎え、制服に袖を通す。足取りは重い。それでもあたしは前に進まないと。
ドアを開けて外にでる。空気はとても暖かく、あたしの生存を祝福しているようだった。
学校に行こう。
あたしは一歩前に足を踏みだした。
お世話になった看護婦さんにお別れの挨拶を済ませると、外に呼んでおいたタクシーに乗って藍子さんの家へと向かう。いざ家の前に着いてみると、心臓が口からでそうなくらい緊張しているのが自分でもよくわかる。
料金を支払いタクシーを降りる。インターフォンを鳴らせば、聞き覚えのある声がして息が止まった。
「はい」
「……っ、あ……」
油断した。だっているなんて思わなかったから。あんな別れ方をした以上、どんな顔して会えばいいのかわからない。
なにか、なにか言わないと。このままじゃ不審者だと思われちゃう。
頑張って声を振り絞るけど、でてくる言葉は、「あ」しかなくてもどかしい。
どのくらい時間が経ったかわからないし、どのくらいの間隔で、「あ」と言ったのかもわからないでいると、インターフォンからぷつんと音がして、向こうから切られてしまったんだと痛感する。
どうしよう。もう一度インターフォンを押したとしても、上手く話せる自信がない。かといってこんなところでいつまでも突っ立っていれば、それこそ不審者と思われて第三者に通報されてしまうかも。行動に移すならいましかない。
勇気をだしてもう一度インターフォンを押そうとすると、玄関が開いた。
「お、お兄ちゃん」
あたしがいつまでもはっきり喋んないから、わざわざ玄関まできてくれたんだろう。久しぶりにみるお兄ちゃんは、いままでとなにひとつ変わっていなかった。
「でたのが俺でごめん。いま、俺しかいないんだ」
「え、藍子さんは?」
「出掛けてる。もうすぐ帰ってくると思うけど」
本当になにも変わっていない。声も見た目もなにもかも。変わっていないことに安心したような、残念なような、不思議なきもち。
「……ま、またくる」
「愛莉」
名前を呼ばれてゾクッとした。あたしが世界で一番好きな声で呼ばれたから。
あたしはお兄ちゃんに背を向けたまま、「なぁに」と返事をする。
お兄ちゃん、いったいなにを言うつもり?
「あの、さ」
歯切れの悪い言い方に、あたしはどうしても期待してしまう。もしかしたらあたしにずっと会いたかったとか、会えなくて淋しかったとか、そういうあたしにとって都合のいい言葉を言ってくれるんじゃないかって。
だけど全然そんなんじゃなかった。そんなんじゃなさすぎていつまでもおめでたいあたしの頭の中を、頭のいい他の誰かさんと交換したくなっちゃった。
「俺、藍子さんと付き合うことになったんだ」
なんで?
どうして?
聞いた途端、一瞬でもやもやとした黒いきもちが溢れてくる。
お兄ちゃんはあたしのきもち、知ってるでしょう。知ってて藍子さんを選ぶんだ?
そうなんだ、そうなんだ、お兄ちゃんってそうなんだ。
お前は誰だ?
お前なんか知らない。お前なんかお兄ちゃんじゃない。
あたしの脳は、身体は、全力でお兄ちゃんを拒絶した。
だってそうでしょう。こんな奴知らない。あたしを好きじゃないお兄ちゃんなんてお兄ちゃんじゃない。
「……愛莉?」
「あっそう。それで? あたしはそれを聞いておめでとうとでも言えばいいの?」
「気を悪くしたならごめん。だけど、愛莉には一番に知らせたくて」
「どうして?」
「だって愛莉は俺の妹だから」
「貴方の妹は柚瑠ちゃんでしょう」
「そうだけど、愛莉も俺の妹だ」
「あたしは妹じゃないよ」
「……妹、だよ……」
ねぇ、どうしてそんな苦しそうな表情をするの?
こういう時はそういう表情をするって、インプットされてるの?
「……藍子さんにあたしの連絡先教えといて。それじゃ」
踵を返すと、あたしはそのまま歩きだした。もう振り返らない。だってあの人はあたしのお兄ちゃんじゃないから。
藍子さんには日を改めて会いに行こう。もやもやは全部シャワーで洗い流した。さようなら、加賀さん。さようなら、お兄ちゃん。
一日で二人にお別れを告げたあたしは、明日からどう生きていけばいいのかすらわからないでいた。あたしが生き残ったのに、もうあたしはあたしでいることが嫌になっている。
とりあえず学校には行かないと。そうだ、鹿児島さんはちゃんと学校にきてるのかな。他に友達ができていたりして。
流は、流にはまだ会えないかな。学校にあたしの居場所はあるのかな。
不安なきもちを引き摺ったまま朝を迎え、制服に袖を通す。足取りは重い。それでもあたしは前に進まないと。
ドアを開けて外にでる。空気はとても暖かく、あたしの生存を祝福しているようだった。
学校に行こう。
あたしは一歩前に足を踏みだした。
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