橋本愛莉というおんな

まなづるるい

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第十二章

83.

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 時は経ち、とある休日の午後。すっかり忘れていた人からの連絡に、あたしは目を丸くする。

『こんにちは。橋本くんから連絡先を聞きました、藍子です。覚えてますか?』

 そうだった。あたしは藍子さんに会いたかったんだ。
 あたしは急いで文字を打つ。

『こんにちは、覚えてますよ! 積もる話があるのでお会いしたいのですが、空いてる日はありますか?』

 ドキドキしながら返事を待っていると、一分以内に返信がきた。

『積もる話があるのですね。今日は一日空いてますが、愛莉ちゃんはどうですか?』

 今日。これから。予定は勿論ない。

『大丈夫です! そちらの家に向かいますね!』

 休日だからと家でパジャマのままごろごろしていたあたしは、急いで身支度を整える。これから藍子さんと会うんだと思うと、変に緊張してしまう。
 加賀さんを連れてこれませんでしたごめんなさい。
 第一声はこれだろう。藍子さんは許してくれるだろうか。そもそも今日、お兄ちゃんはいるのだろうか。
 いたらいたでやりにくいのだけど、「今日はお兄ちゃんいるんですか」なんて今更聞けないし。
 どうかお兄ちゃんがいませんようにと祈りながら家をでて、藍子さんの家へと向かう。家の前に着きインターフォンを押すのさえ躊躇っていると、ドアがガチャリと開いた。

「愛莉ちゃん、いらっしゃい」
「あっ、こ、こんにちは」

 中に入ると猫がいた。猫なんて飼っていただろうか。最近飼い始めたのかな。アメリカンショートへア。あたしの一番好きな猫の種類だ。

「なんか久しぶりだね。元気だった?」
「あ、はい。あ、猫がいたんですね」
「ああうん。最近飼い始めたの。可愛いでしょう?」
「はいとても」

 ソファで寛ぐ猫の頭を優しく撫でる藍子さんをみつめていると、「ふふっ」と笑う藍子さん。

「なんだか他人行儀ね。まるで初めて会ったみたい」

 そうだ、あたしは言いにきたんだった。あたしは唇をギュッと噛み締めると、静かなトーンで口火を切った。

「あの、加賀さんのことなんですけど。ごめんなさい、連れてこれませんでした」
「そうみたいね。みればわかるわ」

 藍子さんもまた、静かなトーンで返してくる。その表情は悲しんでいるのか怒っているのか、皆目検討もつかない。

「それで、話はできたのかしら?」
「……はい」
「そう。なら、どうして貴女はまだそこにいるの?」

 核心に触れられ言葉に詰まる。こればかりはごめんなさい、としか言いようがない。

「……あたしが、不慮の事故に遭いまして」
「事故?」
「向こうで車に轢かれて意識がなくて、しばらく入院してました」

 ふと、時が止まる。この瞬間、藍子さんはなにを考えているのだろうか。考えるまでもない、か。

「それで無事、生還して、加賀くんの大好きな愛莉ちゃんは、いったい何処に行ってしまったの?」
「愛莉はあたしの中から消えました」

 空気が濁る音がした。愛莉が消えたと断言していいのか。それはまだわからないけど、頭痛は消え、愛莉の声がしなくなった。もうあたしの中にはあたしの意思しかないと、自分でもなんとなくわかるのだ。
 時計の針の音がする。続いてあたしの心臓の音。一秒が一年に感じるくらい、長く、冷たく感じてしまう。
 なんでもいい。早くなにか喋って、行動を起こして。さもないとあたしの頭が変になりそうで怖かった。

「……貴女を行かせるんじゃなかったわ。そうすれば愛莉ちゃんはまだ生きていたのに」

 落胆の色がみなくてもわかってしまう。それでも殴られるよりはマシだった。もしかしたら殺されてしまうかもとすら思っていたくらいなのだ。このくらいは許容範囲。

「そうだ。私、橋本くんと付き合うことになったの」
「……存じております」
「でもあの橋本くんは、貴女の知ってる橋本くんじゃないわ」
「はぁ。あたしにはもう、関係のないことなので」
「あら、他人のものになった橋本くんには興味がないってことかしら? まぁいいわ。加賀くんに会えないのは残念だけど、貴女に言ってもしょうがないしね」

 正直、こないだ会ったお兄ちゃんがあたしと藍子さんを間違えたお兄ちゃんとは別個体だとか心底どうでもよかった。あのお兄ちゃんは今頃何処かで柚留ちゃんを探していて、また違うお兄ちゃんが藍子さんの家に転がり込んできたのだろう。
 それよりもこの言い方は、お咎めなしということなのだろうか。流石にそのパターンは想像していなかったので驚いた。

「え、あ、あの」
「なに?」
「お、怒ったりしないんですか?」
「怒ってるわよ。怒ってるけど、加賀くんに会いに行くと判断したのは愛莉ちゃんだからね。私は愛莉ちゃんの意思を尊重してあげただけ。貴女が行くと行ってこの様だったら、私だってぶん殴ってたわ」

 あたしじゃなくて、愛莉の意思だから。
 加賀さんに会って謝りたいと思ったのはあたしなのに、実際に加賀さんの居場所を聞きだそうとしたのは愛莉だから。あたしじゃなくて、愛莉だから。
 まただ。またあたしの存在は否定されて、あたしの中にいた愛莉の意思が尊重されている。いまこの瞬間、此処にいるのはあたしの方なのに、誰もあたしをみてくれない。
 否定、否定、否定。こいつもあたしを否定する。あたしを否定する奴は誰であろうとあたしの敵だ。敵は排除しなくては。あたしがあたしとして生きていくために。

「……そうですか。ならもう話すことはないです」
「え?」
「ふざけんじゃねえと、ブチ切れて怒ってくれた方がまだマシでした。だけど藍子さんはそれをしなかった。それが愛莉の意思だから。それって、いまこの瞬間、此処にいるあたしへの冒涜だと思いませんか?」

 あたしは完全にキレていた。これはキレてもいいと思う。誰だってキレるはずだ。

「愛莉ちゃん」
「此処にいるのがあたしですいませんでした。でもいまの言葉を聞いて、あたしは藍子さんとは仲良くなれないと思ったのでこれで失礼します」
「愛莉ちゃん待って」
「お兄ちゃん……いえ、橋本くんとお幸せに」

 あたしは藍子さんの制止を振り切ると、そのまま外にでた。
 あたしはあたしを必要としてくれる人のところに行かないと。あたしが此処にいてもいいんだって、愛莉じゃなくてあたしを受け入れてくれる人のところに行かないと。そうでないとあたしはあたしの存在価値を見出せない。誰にも愛されないあたしなんて、死んだ方がマシ。
 そうだ、誰にも必要とされないなら死ねばいいんだ。死んだらなにも考えなくて済む。生きているからつらいんだ。死んでしまえば楽になる。死ななきゃ。
 自殺衝動に駆られたあたしは、今度こそ高いところから飛び降りようと思った。下にクッションになるものがない場所で、もっともっと高い位置から飛べば、きっと死ねる。
 あたしは歩いた。そして高いビルをみつけてはエレベーターで最上階に行き、外にはでれないことに苛立ちを募らせていた。どこもかしこも警備員がいたり、鍵が閉まっていたりで入れない。
 あたしは別の方法を考えた。
 薬は何百錠と飲まないとだし、どれも即死はできそうにない。あたしは苦しまずに一瞬で死にたいのだ。
 いや、苦しまずに死ぬなんて稀だろう。ほとんどの死が痛みや苦しみと共にくるはずだ。死はその痛みや苦しみの先にあるのだから。
 いいな、愛莉は。きっと苦しまずに消えたんでしょう。この身体は愛莉のなのに、あたしのものになっちゃった。
 でもね、皆愛莉を求めてる。あたしじゃなくて愛莉を求めてる。
 逆だったらよかったのに。こんなことならあたしが消えればよかったんだ。
 開かないドアをいつまでもガチャガチャしてると、警備員と思われる若いお兄さんがあたしに声をかけてきた。

「きみ、そこは立入禁止だよ」
「あ……」

 どうしよう、逃げなきゃ。不審者だと思われちゃう。
 あたしは踵を返すと急いでその場から立ち去った。
 通報されちゃったかな。逮捕はされたくないや。自分でも勝手だと思うけど、死にたくても警察に捕まるのだけは嫌だった。
 自分がいま、何処を走っているのかもわからないくらい、懸命に走っていた。最悪、帰りはスマホの地図をみながら帰ればいい。このまま死ねずに帰るならの話だが。
 乱れた息を整えていると、前方から聞き慣れた声がした。

「……愛莉?」

 此処が何処だかはわからないけど、ずっと会いたかった人に会えたことに、あたしの心は軽くなる。

「……流……」

 流はあたしに近寄ると、「こんなところでなにしてるの?」と、優しく声をかけてくれた。
 いつもの流だ。
 そう思った瞬間、あたしの涙腺は崩壊した。

「流、会いたかった……っ」
「あは。なぁに、わざわざあたしに会いにきたのぉ?」

 流だ、本物の流だ。あたしはずっと流に抱きついたまま泣いていた。
 ようやく落ち着いてきた頃に、流がティッシュを渡してくれる。

「近くにベンチがあってよかったねぇ。そこにごみ箱もあるし、時計もあるよ」

 此処は駅から徒歩三十分ほど離れたところにある大きな公園で、流はいまこの近くの施設で暮らしているらしい。カウンセリングは夕方からなので、もう少しこの辺りをふらついたら戻る予定だったとか。
 なんてタイミングがいいんだろう。あたしは貰ったティッシュで鼻をかむと、前を向いて話し始めた。

「あのね、あたし振られちゃった」
「誰に?」
「加賀さんに」
「加賀さん?」
「あ、うん。実は色々あって加賀さんを好きになって、だけど振られちゃって。あ、加賀さんっていうのはお兄ちゃんのバイト先の店長なんだけど、加賀さんは愛莉が好きで、あたしのことは好きじゃないんだって」
「そっかぁ」
「それでね、色々あって、あたしって生きてる意味あるのかなって思って、死にたいなって思って、だけど死ねなくて。だからあたしが此処にいるのは偶然なの。流に会いたかったのは本当だけど、流に会いにきたんじゃないよ」

 暖かい風が吹く。流はなにかを考えているようだった。

「あたしね、愛莉のお兄さんを刺したでしょ。あれからずっと、心的外傷後ストレス障害っていうのになっていて、それで施設に入ったんだけど、死にたいって思うきもち、いまなら少しわかるんだぁ」

 以前はそう思う人達のことを馬鹿にしていたし、そういうのは心の弱い人達が考えることだと思っていた。だけど実際はそうではなくて、誰にでも起こりうることなんだと、流は静かなトーンで話してくれた。
 自分が死ねばよかったって、あたしへの罪悪感でいっぱいになって毎日が苦しかったって。
 あたしの手を握りながら、ごめんなさいと告げる流に、あたしはなにが言えただろうか。
 流はなんにも悪くないよ。大丈夫だよ。
 そんなありふれた定型文しか言えなくて。
 夕方のチャイムが鳴ると、「落ち着いたらまた学校に行くからね」と流は言った。
 今日、流があたしに会ったことで、流の中のもやもやが晴れてくれたらいいなと思う。あたしに直接謝る機会があったことで、流の心が少しでも軽くなれたなら。
 あのね、流。あたしも流に会えてよかったよ。今日、流に会えたから、あたしの生きる理由ができたんだもん。あたし、流が学校にきてくれる日がくるのを待ってるよ。だから死なない。だから生きる。
 あたしは地図を頼りに家に帰ると、着替えもしないまま泥のように眠っていた。
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