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「……なあ、カイル。私は、何か重大な選択を誤ったのではないだろうか」
騎士団の演習場。
休憩中、ヴィルフリート殿下は木剣を地面に突き立て、深い、深い溜息をつきました。
「殿下。今さらのお言葉ですね。婚約破棄のことでしたら、学園中の令嬢が『新しい愛の形』として全肯定しておりますし、リリアン嬢も鼻高々でございますよ」
カイルはタオルで汗を拭いながら、どこか遠い目をして答えました。
彼の視線の先には、演習場のフェンス越しに、ズラリと並んだ令嬢たちがいました。
彼女たちは皆、一様にメモ帳とペン、あるいは遠見の魔道具を構えています。
その中心には、もちろん、我が国のトップオタことメメル・フォン・ラズライトの姿がありました。
「違う。令嬢たちのことではない。……メメルのことだ」
「メメル嬢ですか? あんなに元気に殿下の発汗量を計測しているではありませんか。先ほども『殿下の右腕の血管の浮き具合に、建国以来の奇跡を見た!』と叫んで、周囲の令嬢たちと抱き合って泣いておられましたよ」
「それだ! まさにそれなんだよ、カイル!」
殿下は、苛立たしげに自身の額を拭いました。
「以前のあいつは、私がこうして汗をかいていれば、真っ先に駆け寄ってきて『ヴィル様、お疲れではありませんか?』と、恥じらいながらハンカチを差し出してきた。私の体調を案じ、私の言葉に一喜一憂し、……私の『愛』を求めていたはずなんだ」
「……左様でございますね。当時はそれを『重すぎて窒息する』と仰って、逃げ回っていたのは殿下ですが」
「それはそうだが! だが、今のあいつを見てみろ。ハンカチを差し出すどころか、私が汗を拭う仕草を『一瞬の芸術』として記録することに執着して、私自身には一切近づいてこようとしない!」
ヴィルフリート殿下は、フェンスの向こうで「尊い……ッ!」というポーズで固まっているメメルを指差しました。
「私が見てほしいのは、私の『血管』でも『発汗』でもない。私という『一人の男』なんだ。……なのに、あいつの目の中に、以前のような私個人への『甘い情熱』が見当たらない。あそこにあるのは、ただの……純粋な、観測者の熱情だけだ」
殿下は、胸の奥に芽生えた、言いようのない「空虚感」に戸惑っていました。
婚約破棄を告げたあの日。
自分は確かに、彼女を拒絶したはずでした。
重苦しい愛から解放され、清々すると思っていた。
しかし、いざ手に入れた「自由」は、想像していたものとは違いました。
メメルの愛は、拒絶されたことで消滅したのではなく、殿下の「外側」にある神棚へと移動してしまったのです。
「……私は、あいつに振られた気分だ。あいつは私を『婚約者(男)』というカテゴリーから外し、『偶像(神)』という、手が届かない、そして対話もできない場所へ勝手に祀り上げてしまった」
「殿下、それは……贅沢な悩みというものですよ。あんなに熱狂的に支持されているのですから」
「支持なんていらん! 私は……私は……!」
殿下はそこまで言って、言葉を飲み込みました。
「私は、あいつに嫉妬してほしい。私の横にいるリリアンを見て、顔を真っ赤にして怒ってほしい。私を独占しようとして、必死になってほしい」
そんな、あまりにも情けない本音。
殿下は意を決したように、フェンスへと歩み寄りました。
令嬢たちが「きゃああっ! 御本尊が接近してこられましたわ!」と色めき立ちます。
「メメル! 貴様、いい加減にしろ!」
フェンス越しに、殿下はメメルを睨みつけました。
「殿下! ああっ、至近距離での『睨み』供給、ありがとうございます! 今日の瞳の彩度は、まさに雨上がりの湖畔のような深みがございますわね!」
「うるさい! 彩度なんてどうでもいい! 貴様、さっきからリリアンが私の肩に触れているのが見えないのか!? これほど親しげにしているのに、何とも思わないのか!」
殿下はあえて、近くにいたリリアンを呼び寄せ、その腰を抱いて見せました。
リリアンは「えっ、あ、はいっ!」と驚きつつも、勝ち誇ったような笑みをメメルに向けます。
しかし、メメルの反応は、殿下の期待を無残に打ち砕くものでした。
「……ああっ! 殿下、リリアンさんの腰を抱くその『指の角度』! 少しだけ力を込めたことで生じる、手の甲の筋のライン! リリアンさん、素晴らしいわ! あなたのその控えめな身長が、殿下の『支配欲』を具現化させていますわ!」
「……なっ!?」
「皆様、見ました!? 今の殿下の『無自覚な雄み』! これはリリアンさんという対照(コントラスト)があってこその輝きですわ! リリアンさん、もっと! もっと殿下の懐に飛び込んで、殿下の困惑顔を引き出してちょうだい!」
「メメル様……あの、私、殿下と恋仲なんですけれど……?」
リリアンが困惑して尋ねますが、メメルは一点の曇りもない笑顔で返しました。
「存じておりますわ! だからこそ最高なのです! 愛し合う二人の間に流れる、密度の高い空気。それを外側から観測できるこの贅沢! 私はもう、その空気の中に割って入るような野蛮な真似はいたしません。ただ、その幸福の余波(おこぼれ)を吸って、生きていければそれで良いのですわ!」
「……違う。そうじゃないんだ、メメル」
ヴィルフリート殿下は、ガクリとフェンスに額を預けました。
何をしても、何を言っても、彼女は「愛の当事者」に戻ってこない。
彼女はもう、彼と同じ土俵(恋愛)には立っていないのです。
彼女は「客席(ファン)」という安全圏から、彼の人生を最高のショーとして楽しんでいる。
「……寂しいじゃないか」
殿下の小さな呟きは、令嬢たちの歓声にかき消されました。
「セバス! 今の殿下の『項垂れたうなじ』、撮った!? あれは『挫折を知った若き獅子』の哀愁よ! 絶対にアーカイブに入れて!」
「承知いたしました、お嬢様。……殿下、あまり項垂れていると、後頭部の毛量までカウントされますよ」
「……もういい。帰る。今日はもう、演習はやめだ!」
殿下は、泣き出しそうな顔でリリアンを放り出し、一人で更衣室へと走っていきました。
その後ろ姿を見送りながら、メメルはキラキラとした瞳でペンを走らせます。
「……ああ、今日の殿下は、なんだかとても『人間味』に溢れていて素敵でしたわね、セバス」
「左様でございますね。……ただ、少しだけ『構ってほしそうな犬』のような目をなさっていたのが気になりますが」
「あら、そんなバカな。殿下は神に等しい存在ですのよ? 私のような一信者に構ってほしいなんて、そんな贅沢な解釈(妄想)、私にはおこがましくてできませんわ!」
王子の切実な願いは、メメルの「高すぎる推しへの敬意」という壁に跳ね返され、今日も届くことはありませんでした。
ヴィルフリート殿下の、自業自得な片想い……のような何かが、静かに、しかし確実に始まろうとしていたのです。
騎士団の演習場。
休憩中、ヴィルフリート殿下は木剣を地面に突き立て、深い、深い溜息をつきました。
「殿下。今さらのお言葉ですね。婚約破棄のことでしたら、学園中の令嬢が『新しい愛の形』として全肯定しておりますし、リリアン嬢も鼻高々でございますよ」
カイルはタオルで汗を拭いながら、どこか遠い目をして答えました。
彼の視線の先には、演習場のフェンス越しに、ズラリと並んだ令嬢たちがいました。
彼女たちは皆、一様にメモ帳とペン、あるいは遠見の魔道具を構えています。
その中心には、もちろん、我が国のトップオタことメメル・フォン・ラズライトの姿がありました。
「違う。令嬢たちのことではない。……メメルのことだ」
「メメル嬢ですか? あんなに元気に殿下の発汗量を計測しているではありませんか。先ほども『殿下の右腕の血管の浮き具合に、建国以来の奇跡を見た!』と叫んで、周囲の令嬢たちと抱き合って泣いておられましたよ」
「それだ! まさにそれなんだよ、カイル!」
殿下は、苛立たしげに自身の額を拭いました。
「以前のあいつは、私がこうして汗をかいていれば、真っ先に駆け寄ってきて『ヴィル様、お疲れではありませんか?』と、恥じらいながらハンカチを差し出してきた。私の体調を案じ、私の言葉に一喜一憂し、……私の『愛』を求めていたはずなんだ」
「……左様でございますね。当時はそれを『重すぎて窒息する』と仰って、逃げ回っていたのは殿下ですが」
「それはそうだが! だが、今のあいつを見てみろ。ハンカチを差し出すどころか、私が汗を拭う仕草を『一瞬の芸術』として記録することに執着して、私自身には一切近づいてこようとしない!」
ヴィルフリート殿下は、フェンスの向こうで「尊い……ッ!」というポーズで固まっているメメルを指差しました。
「私が見てほしいのは、私の『血管』でも『発汗』でもない。私という『一人の男』なんだ。……なのに、あいつの目の中に、以前のような私個人への『甘い情熱』が見当たらない。あそこにあるのは、ただの……純粋な、観測者の熱情だけだ」
殿下は、胸の奥に芽生えた、言いようのない「空虚感」に戸惑っていました。
婚約破棄を告げたあの日。
自分は確かに、彼女を拒絶したはずでした。
重苦しい愛から解放され、清々すると思っていた。
しかし、いざ手に入れた「自由」は、想像していたものとは違いました。
メメルの愛は、拒絶されたことで消滅したのではなく、殿下の「外側」にある神棚へと移動してしまったのです。
「……私は、あいつに振られた気分だ。あいつは私を『婚約者(男)』というカテゴリーから外し、『偶像(神)』という、手が届かない、そして対話もできない場所へ勝手に祀り上げてしまった」
「殿下、それは……贅沢な悩みというものですよ。あんなに熱狂的に支持されているのですから」
「支持なんていらん! 私は……私は……!」
殿下はそこまで言って、言葉を飲み込みました。
「私は、あいつに嫉妬してほしい。私の横にいるリリアンを見て、顔を真っ赤にして怒ってほしい。私を独占しようとして、必死になってほしい」
そんな、あまりにも情けない本音。
殿下は意を決したように、フェンスへと歩み寄りました。
令嬢たちが「きゃああっ! 御本尊が接近してこられましたわ!」と色めき立ちます。
「メメル! 貴様、いい加減にしろ!」
フェンス越しに、殿下はメメルを睨みつけました。
「殿下! ああっ、至近距離での『睨み』供給、ありがとうございます! 今日の瞳の彩度は、まさに雨上がりの湖畔のような深みがございますわね!」
「うるさい! 彩度なんてどうでもいい! 貴様、さっきからリリアンが私の肩に触れているのが見えないのか!? これほど親しげにしているのに、何とも思わないのか!」
殿下はあえて、近くにいたリリアンを呼び寄せ、その腰を抱いて見せました。
リリアンは「えっ、あ、はいっ!」と驚きつつも、勝ち誇ったような笑みをメメルに向けます。
しかし、メメルの反応は、殿下の期待を無残に打ち砕くものでした。
「……ああっ! 殿下、リリアンさんの腰を抱くその『指の角度』! 少しだけ力を込めたことで生じる、手の甲の筋のライン! リリアンさん、素晴らしいわ! あなたのその控えめな身長が、殿下の『支配欲』を具現化させていますわ!」
「……なっ!?」
「皆様、見ました!? 今の殿下の『無自覚な雄み』! これはリリアンさんという対照(コントラスト)があってこその輝きですわ! リリアンさん、もっと! もっと殿下の懐に飛び込んで、殿下の困惑顔を引き出してちょうだい!」
「メメル様……あの、私、殿下と恋仲なんですけれど……?」
リリアンが困惑して尋ねますが、メメルは一点の曇りもない笑顔で返しました。
「存じておりますわ! だからこそ最高なのです! 愛し合う二人の間に流れる、密度の高い空気。それを外側から観測できるこの贅沢! 私はもう、その空気の中に割って入るような野蛮な真似はいたしません。ただ、その幸福の余波(おこぼれ)を吸って、生きていければそれで良いのですわ!」
「……違う。そうじゃないんだ、メメル」
ヴィルフリート殿下は、ガクリとフェンスに額を預けました。
何をしても、何を言っても、彼女は「愛の当事者」に戻ってこない。
彼女はもう、彼と同じ土俵(恋愛)には立っていないのです。
彼女は「客席(ファン)」という安全圏から、彼の人生を最高のショーとして楽しんでいる。
「……寂しいじゃないか」
殿下の小さな呟きは、令嬢たちの歓声にかき消されました。
「セバス! 今の殿下の『項垂れたうなじ』、撮った!? あれは『挫折を知った若き獅子』の哀愁よ! 絶対にアーカイブに入れて!」
「承知いたしました、お嬢様。……殿下、あまり項垂れていると、後頭部の毛量までカウントされますよ」
「……もういい。帰る。今日はもう、演習はやめだ!」
殿下は、泣き出しそうな顔でリリアンを放り出し、一人で更衣室へと走っていきました。
その後ろ姿を見送りながら、メメルはキラキラとした瞳でペンを走らせます。
「……ああ、今日の殿下は、なんだかとても『人間味』に溢れていて素敵でしたわね、セバス」
「左様でございますね。……ただ、少しだけ『構ってほしそうな犬』のような目をなさっていたのが気になりますが」
「あら、そんなバカな。殿下は神に等しい存在ですのよ? 私のような一信者に構ってほしいなんて、そんな贅沢な解釈(妄想)、私にはおこがましくてできませんわ!」
王子の切実な願いは、メメルの「高すぎる推しへの敬意」という壁に跳ね返され、今日も届くことはありませんでした。
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