「婚約破棄? ええ、どうぞ!(食い気味)」

黒猫かの

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「待てと言っているだろう! リオナ・エヴァンス!」

背後から響く怒声に、私は全力疾走の足を止めることなく舌打ちをした。
せっかく「自由への第一歩」を踏み出し、門を抜けようとした矢先である。

振り返ると、そこには顔を真っ赤にしたヴィンス王子と、彼に付き従う数名の近衛騎士たちが息を切らして追いかけてきていた。
ついでに、なぜかミリア様までもが王子の腕に縋り付くようにしてついてきている。

「なんですの、殿下。私、今は一分一秒が惜しいのですわ。市場の屋台が閉まってしまいますわ」

「貴様、まだそんなふざけたことを……! 先ほどの態度はなんだ! 婚約破棄を言い渡されたのだぞ? 普通は泣き崩れるか、ミリアに謝罪するものではないのか!」

私は、夜風に揺れる自分の燃えるような赤い髪を乱雑に指でかき上げた。
そして、わざとらしく深いため息をついてみせる。

「殿下、お言葉ですが、先ほど私ははっきりと承諾いたしましたわ。それとも、私の滑舌が悪くて聞き取れませんでしたの?」

「そういう問題ではない! 貴様のあの喜びようは、王家に対する侮辱だ!」

王家に対する侮辱、ね。
私はふっと口角を上げると、改めてヴィンス王子の正面に立った。

「では、改めて確認させていただきますわ。第一に、殿下は私との婚約を、一方的かつ確定的に破棄なさる。これに異議はございませんわね?」

「……あ、ああ。当然だ。今さら撤回など――」

「異議なし! 受理いたしましたわ!」

食い気味に宣言すると、私は指を一本立てた。
王子の顔が、驚きでわずかに引きつる。

「次に第二! 私は本日をもって公爵令嬢としての地位を(実質的に)放棄し、王都、ひいてはこの国からの追放処分を受け入れる。こちらについても、殿下のお考えに相違はございませんわね?」

「相違はないが……追放と言っても、最低限の着替えなどは――」

「異議なし! 即刻、身一つで出て行きますわ!」

二本目の指を立てた私の勢いに、近衛騎士たちまでもが気圧されて一歩引いた。
ヴィンス王子は、まるで化け物を見るような目で私を見つめている。
しかし、私は止まらない。

「最後に第三! 今後、この婚約破棄に関して私から慰謝料を請求することはありませんが、同時に王家側からも『やっぱり戻ってこい』だの『国の運営が回らないから手伝え』だのという、見苦しい泣き言を一切言わないと約束していただけますわね?」

「なっ、誰が貴様などに泣き言など言うか! 私にはミリアがいるのだ!」

「異議なし! 完全決着、婚約破棄の成立ですわ! おめでとうございます、殿下! おめでとうございます、ミリア様!」

私はパンパンと軽快に手を叩き、まるで他人の結婚を祝うかのような明るい声で叫んだ。
三連呼された「異議なし」という言葉が、夜の宮廷の広場に虚しく響き渡る。

「……リオナ様、本当によろしいのですか? 私、申し訳なくて……。私が殿下と愛し合ってしまったばかりに、貴女の人生が……」

ミリア様が、ハンカチを片手に潤んだ瞳でこちらを見てくる。
その瞳の奥に、「勝者の優越感」が隠しきれていないのを私は見逃さなかった。
普通ならここで「泥棒猫!」と叫ぶ場面なのだろうが、あいにく今の私は彼女が聖母に見えるほど感謝しているのだ。

「いいえ、ミリア様。謝る必要なんて一切ございませんわ。むしろ、貴女は私の救世主です。その王子、見た目はいいかもしれませんが、中身はかなり……その、使い勝手が悪いですわよ?」

「使い勝手だと!? 貴様、私を道具扱いするか!」

「お黙りになって、殿下。私が毎日、貴方の机の上に山積みになった書類をどれだけ片付けていたと思っているのです? 明日からは、その愛らしいミリア様に手伝ってもらうとよろしいわ。あ、ミリア様は算術や歴史学、各国の力関係などは把握していらっしゃいますわよね?」

私の問いに、ミリア様はびくっと肩を震わせた。

「え……あの、私、お花を飾ったり、歌を歌ったりするのは得意ですが……お勉強は、その……」

「まあ! 素敵ですわね! きっとヴィンス殿下も、仕事中に隣で歌を歌われたら、効率が通常の三倍には跳ね上がるはずですわ! ……まあ、負の方向にでしょうけれど」

私は最後にくすりと笑うと、今度こそ二人に向かって深々と、だが形式的に頭を下げた。

「それでは、私はこれにて失礼いたします。殿下、鼻毛のチェックは毎日なさることを強くお勧めしますわよ。では!」

「待て! リオナ! おい!」

背後でヴィンス王子の叫び声が何度も聞こえたが、近衛騎士たちも呆然としているのか、追いかけてくる気配はない。

私は門番の横を「開けなさい!」という一言で突破し、ついに王宮の外へと飛び出した。
石畳の道が、月明かりに照らされてどこまでも続いている。

「ふう、ようやく一人になれましたわ」

私は大きく伸びをして、夜の空気を吸い込んだ。
王宮の、あの行き詰まるような香水の匂いではない。
どこからか漂ってくる、煮込み料理や馬糞、そして自由の匂いだ。

「さて、まずは腹ごしらえですわね。私の全財産は……ふふふ、ドレスの隠しポケットに忍ばせた、この金貨数枚。これで当面は遊んで暮らせますわ!」

スキップをしながら大通りへと向かう私の影を、屋根の上から追いかける人影があることにも、私はまだ気づいていなかった。

「……三連呼か。あそこまで清々しく捨てられる王子も珍しいな」

シオンは、夜風にマントをなびかせながら、獲物を追う猛禽類のような目でリオナの背中を見つめていた。
彼の瞳には、好奇心という名の火が灯っている。

「公爵令嬢としての地位も名誉も捨てて、彼女はどこへ行くつもりだ? これは、目が離せそうにないな」

シオンは指を鳴らすと、音もなく隣の屋根へと跳んだ。
リオナ・エヴァンスの「自由という名の暴走」は、まだ始まったばかりである。
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