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「……はあ、どうしてこうなったのだ」
アステリア王宮の客館。その一室で、ヴィンスは豪華なソファに力なく沈み込んでいました。
目の前には、脱ぎ散らかされた上着と、ミリアが「喉が渇きましたわ」と言って半分だけ飲んで放置した温い果汁のグラス。
かつての彼なら、指先一つ動かす必要はありませんでした。
リオナがいれば、彼が言葉を発する前に全てが片付き、最適な温度の飲み物が差し出されていたはずなのです。
「殿下ぁ、まだお仕事のお話ですの? 私、退屈すぎて死んでしまいそうですわ。ねえ、あのお節介なリオナ様のことなんて忘れて、夜のお散歩に行きましょう?」
隣の部屋からミリアの声が聞こえてきますが、今のヴィンスにはそれが呪呪(じゅじゅ)のように聞こえました。
彼はふと、先ほど廊下で見たリオナの姿を思い出しました。
侍女の服を着て、重いバケツを軽々と持ち上げ、あろうことか隣国の王子と親しげに笑い合っていたあの姿。
捨てられて惨めな思いをしているはずの彼女が、自分よりもずっと「輝いて」見えたのは気のせいでしょうか。
「……いや、気のせいではない。あいつは、私といた時より楽しそうだ」
ヴィンスは拳を握りしめ、震える声で呟きました。
今の自国は、リオナという優秀な「管理官」を失ったせいで、行政から宮廷の掃除に至るまで、文字通り機能不全に陥っています。
父である王からは「リオナを連れ戻せないなら、次期王位継承の権利を再考する」とまで脅されている始末。
「プライド……? そんなもので腹は膨れん。……よし、こうなれば」
ヴィンスは決意を固めたように立ち上がり、部屋を出ました。
廊下を曲がると、ちょうど階段の踊り場を、新品のワックスのような気合で磨き上げているリオナを発見しました。
「リオナ! 少し……話をさせてくれ」
「あら、ヴィンス殿下。お散歩ですかしら? 今そこを磨いたばかりですので、非常に滑りやすくなっておりますわよ。ペンギンさんのように慎重に歩くことをお勧めいたしますわ」
リオナは手を休めることなく、雑巾を高速で回転させて答えました。
「……そんな話ではない。リオナ、お前に……いや、貴女に謝りたいのだ。その、ミリアの件も、婚約破棄の件も、私が少し、その、盲目になっていたというか……」
「盲目? まあ、大変! アステリアには腕の良い眼科医もおりますわよ。紹介状を書きましょうか? ついでに脳外科もセットにして差し上げますわ」
「ふざけないでくれ! 私は真剣なのだ! リオナ、頼む、我が国に戻ってきてはくれないか! 貴女がいなくては、書類も、掃除も、私の鼻毛のチェックも、誰もやってくれないんだ!」
ヴィンスはなりふり構わず、リオナの前に膝をつこうとしました。
いわゆる「土下座」の構え。プライドの塊だった第一王子が、一介の侍女に対して取ろうとする、究極の謝罪のポーズ。
ですが、リオナはそれを華麗なステップで回避しました。
「殿下、おやめになって! そんなところで跪かれたら、私の磨き上げた床に殿下の膝の油がついてしまいますわ! 油膜は侍女の敵ですのよ!」
「油……!? 私の誠意を油呼ばわりするか! リオナ、分かっているのだろう? 私は……私は、お前が必要なんだ!」
「あら、嬉しい。必要、ですって? その言葉、かつての私なら泣いて喜んだかもしれませんわね」
リオナは雑巾をバケツに投げ入れ、スッと背筋を伸ばしました。
その瞳には、かつての婚約者への未練など、微塵も残っていませんでした。
「でも、今の私が必要としているのは、殿下の謝罪ではなく、明日の朝食に出てくる予定の『焼きたてのベーコン』だけですの。殿下、お忘れですか? 私には一週間の返品保証も、クーリングオフも適用されないと、あの日、三連呼で確認いたしましたわよね?」
「それは……だが、あれは冗談というか、その、勢いというか……」
「私は大真面目でしたわ。おかげさまで、私は今、かつてないほどの『自由』と『労働の喜び』に浸っておりますの。殿下、貴方との婚約時代は、私にとって『重労働で低賃金のブラック企業』のようなものでしたわ。一度退職した人間が、わざわざ自分から地獄に戻ると思いますこと?」
リオナの言葉は、ヴィンスの心に鋭いナイフのように突き刺さりました。
自由、労働、そしてブラック企業。
言葉の意味は半分も分かりませんでしたが、彼女が自分を「拒絶」していることだけは、痛いほど伝わってきました。
「お断りいたしますわ、殿下。私の再就職先は、ここアステリア。そして私の主人は、シオン殿下お一人ですの。……あ、でも、もしどうしても掃除が足りないとおっしゃるなら、自国の城の廊下を自分で磨いてみるのはいかが? 心が洗われて、少しは賢くなるかもしれませんわよ。おーっほっほっほ!」
「リ……リオナ……!」
ヴィンスが手を伸ばそうとした瞬間、横から強い力が彼を遮りました。
「我が国の侍女に、あまりしつこくしないでいただきたいな。ヴィンス殿下」
いつの間にか現れたシオンが、リオナの肩に手を置き、ヴィンスを冷たく見下ろしていました。
「彼女は私の宝物だ。……例え君がその場で土下座をして、国中の富を差し出したとしても、私は彼女を渡すつもりはないよ」
「シオン……! 貴様、部外者のくせに!」
「部外者? いいえ、私は彼女の『雇用主』ですよ。……さあ、リオナ。掃除が終わったら、新作のスイーツの試食が待っている。行こうか」
「まあ! 行きますわ、殿下! ヴィンス殿下、ごきげんよう! 足元にお気をつけてね!」
リオナはバケツを抱え、シオンと共に軽やかな足取りで去っていきました。
後に残されたのは、完璧に磨き上げられ、自分の情けない顔がくっきりと映り込んでいる廊下と、一人取り残されたヴィンスだけでした。
「……クソッ……クソオォォォッ!!」
ヴィンスの叫び声が、虚しく王宮に響きました。
一度捨てた宝石は、二度と手には戻らない。
彼はその当然すぎる真理を、自分の顔が映るほど綺麗な床の上で、ようやく思い知らされたのでした。
アステリア王宮の客館。その一室で、ヴィンスは豪華なソファに力なく沈み込んでいました。
目の前には、脱ぎ散らかされた上着と、ミリアが「喉が渇きましたわ」と言って半分だけ飲んで放置した温い果汁のグラス。
かつての彼なら、指先一つ動かす必要はありませんでした。
リオナがいれば、彼が言葉を発する前に全てが片付き、最適な温度の飲み物が差し出されていたはずなのです。
「殿下ぁ、まだお仕事のお話ですの? 私、退屈すぎて死んでしまいそうですわ。ねえ、あのお節介なリオナ様のことなんて忘れて、夜のお散歩に行きましょう?」
隣の部屋からミリアの声が聞こえてきますが、今のヴィンスにはそれが呪呪(じゅじゅ)のように聞こえました。
彼はふと、先ほど廊下で見たリオナの姿を思い出しました。
侍女の服を着て、重いバケツを軽々と持ち上げ、あろうことか隣国の王子と親しげに笑い合っていたあの姿。
捨てられて惨めな思いをしているはずの彼女が、自分よりもずっと「輝いて」見えたのは気のせいでしょうか。
「……いや、気のせいではない。あいつは、私といた時より楽しそうだ」
ヴィンスは拳を握りしめ、震える声で呟きました。
今の自国は、リオナという優秀な「管理官」を失ったせいで、行政から宮廷の掃除に至るまで、文字通り機能不全に陥っています。
父である王からは「リオナを連れ戻せないなら、次期王位継承の権利を再考する」とまで脅されている始末。
「プライド……? そんなもので腹は膨れん。……よし、こうなれば」
ヴィンスは決意を固めたように立ち上がり、部屋を出ました。
廊下を曲がると、ちょうど階段の踊り場を、新品のワックスのような気合で磨き上げているリオナを発見しました。
「リオナ! 少し……話をさせてくれ」
「あら、ヴィンス殿下。お散歩ですかしら? 今そこを磨いたばかりですので、非常に滑りやすくなっておりますわよ。ペンギンさんのように慎重に歩くことをお勧めいたしますわ」
リオナは手を休めることなく、雑巾を高速で回転させて答えました。
「……そんな話ではない。リオナ、お前に……いや、貴女に謝りたいのだ。その、ミリアの件も、婚約破棄の件も、私が少し、その、盲目になっていたというか……」
「盲目? まあ、大変! アステリアには腕の良い眼科医もおりますわよ。紹介状を書きましょうか? ついでに脳外科もセットにして差し上げますわ」
「ふざけないでくれ! 私は真剣なのだ! リオナ、頼む、我が国に戻ってきてはくれないか! 貴女がいなくては、書類も、掃除も、私の鼻毛のチェックも、誰もやってくれないんだ!」
ヴィンスはなりふり構わず、リオナの前に膝をつこうとしました。
いわゆる「土下座」の構え。プライドの塊だった第一王子が、一介の侍女に対して取ろうとする、究極の謝罪のポーズ。
ですが、リオナはそれを華麗なステップで回避しました。
「殿下、おやめになって! そんなところで跪かれたら、私の磨き上げた床に殿下の膝の油がついてしまいますわ! 油膜は侍女の敵ですのよ!」
「油……!? 私の誠意を油呼ばわりするか! リオナ、分かっているのだろう? 私は……私は、お前が必要なんだ!」
「あら、嬉しい。必要、ですって? その言葉、かつての私なら泣いて喜んだかもしれませんわね」
リオナは雑巾をバケツに投げ入れ、スッと背筋を伸ばしました。
その瞳には、かつての婚約者への未練など、微塵も残っていませんでした。
「でも、今の私が必要としているのは、殿下の謝罪ではなく、明日の朝食に出てくる予定の『焼きたてのベーコン』だけですの。殿下、お忘れですか? 私には一週間の返品保証も、クーリングオフも適用されないと、あの日、三連呼で確認いたしましたわよね?」
「それは……だが、あれは冗談というか、その、勢いというか……」
「私は大真面目でしたわ。おかげさまで、私は今、かつてないほどの『自由』と『労働の喜び』に浸っておりますの。殿下、貴方との婚約時代は、私にとって『重労働で低賃金のブラック企業』のようなものでしたわ。一度退職した人間が、わざわざ自分から地獄に戻ると思いますこと?」
リオナの言葉は、ヴィンスの心に鋭いナイフのように突き刺さりました。
自由、労働、そしてブラック企業。
言葉の意味は半分も分かりませんでしたが、彼女が自分を「拒絶」していることだけは、痛いほど伝わってきました。
「お断りいたしますわ、殿下。私の再就職先は、ここアステリア。そして私の主人は、シオン殿下お一人ですの。……あ、でも、もしどうしても掃除が足りないとおっしゃるなら、自国の城の廊下を自分で磨いてみるのはいかが? 心が洗われて、少しは賢くなるかもしれませんわよ。おーっほっほっほ!」
「リ……リオナ……!」
ヴィンスが手を伸ばそうとした瞬間、横から強い力が彼を遮りました。
「我が国の侍女に、あまりしつこくしないでいただきたいな。ヴィンス殿下」
いつの間にか現れたシオンが、リオナの肩に手を置き、ヴィンスを冷たく見下ろしていました。
「彼女は私の宝物だ。……例え君がその場で土下座をして、国中の富を差し出したとしても、私は彼女を渡すつもりはないよ」
「シオン……! 貴様、部外者のくせに!」
「部外者? いいえ、私は彼女の『雇用主』ですよ。……さあ、リオナ。掃除が終わったら、新作のスイーツの試食が待っている。行こうか」
「まあ! 行きますわ、殿下! ヴィンス殿下、ごきげんよう! 足元にお気をつけてね!」
リオナはバケツを抱え、シオンと共に軽やかな足取りで去っていきました。
後に残されたのは、完璧に磨き上げられ、自分の情けない顔がくっきりと映り込んでいる廊下と、一人取り残されたヴィンスだけでした。
「……クソッ……クソオォォォッ!!」
ヴィンスの叫び声が、虚しく王宮に響きました。
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