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「……ふぅ。これで百枚目か」
『黒字屋』のバックヤード、洗い場。
エプロン姿のロベルト(元王子)は、額の汗を手の甲で拭い、目の前に積み上がった白い皿の山を見上げた。
かつては剣よりも重い物を持ったことがなかった手が、今は洗剤の泡にまみれ、スポンジを握りしめている。
「ロベルト君、手が止まっていますよ。時給泥棒ですか?」
背後から、冷徹な監視者――オーナーのアイーダの声が飛んできた。
ロベルトはビクリと肩を震わせ、慌ててスポンジを動かした。
「や、やってるよ! ちょっと休憩しただけじゃないか!」
「休憩は十五分後に設定されています。それまでは、マシーンのように手を動かしなさい。皿の汚れは貴方の心の汚れだと思って」
「心の汚れ……」
ロベルトは手元の皿を見た。
ギトギトした肉料理の油汚れ。
トマトソースの頑固なシミ。
以前の彼なら、「汚らわしい!」と叫んで皿ごと投げ捨てていただろう。
だが、今の彼は違う。
「……落ちろ。落ちてくれ、僕の罪(油)よ……」
キュッ、キュッ。
彼は無心でスポンジを擦る。
洗剤が泡立ち、油汚れを包み込んでいく。
そして、水で流した瞬間。
――キュキュッ!
指先で擦ると、心地よい音が鳴り、皿は新品のような輝きを取り戻した。
「……おお」
ロベルトの口から、感嘆の声が漏れた。
「綺麗だ……」
彼は洗いたての皿を光にかざした。
蛍光灯の光を反射し、一点の曇りもなく輝く白磁。
それは、彼が今まで書いてきたどんなポエムよりも、具体的で、明白な「成果」だった。
「すごい……。僕が擦るだけで、こんなに汚かった皿が、純白に生まれ変わるなんて……」
「……何ブツブツ言ってるんですか? 気持ち悪いですよ」
隣で野菜の皮むきをしていたミシェルが、怪訝な顔で覗き込む。
「ミシェル! 見てくれ、この輝きを!」
ロベルトは皿を掲げた。
「まるで、生まれたての赤子の肌のようだ! 僕の手によって、この皿は救済(サルベーション)されたんだ!」
「はいはい、綺麗ですねー。さっさと水切りカゴに入れてください」
ミシェルは冷たくあしらうが、ロベルトの興奮は収まらない。
「わかるか、ミシェル? ポエムは……いくら書いても、誰も褒めてくれない。正解がないからだ。でも、皿洗いは違う!」
ロベルトは熱弁を振るう。
「汚れが落ちれば正解! 落ちなければ不正解! このシンプルさ! そして達成感! ……僕は今、人生で初めて『確かな手応え』を感じている!」
「……オーナー。新人君が壊れました」
ミシェルが振り返って報告する。
私は帳簿をつけながら、チラリとロベルトを見た。
「いいえ。あれは『覚醒』よ」
「覚醒?」
「ええ。無能な人間が、単純作業の中に『己の存在意義』を見出した瞬間ね。……いい傾向だわ。これで生産性が上がる」
私はロベルトに声をかけた。
「ロベルト。その調子で鍋のこげ落としも頼めるかしら? オプション手当として銅貨五枚つけるわよ」
「やります! 僕に落とせない汚れはない!」
ロベルトは勇者のように金タワシを手に取り、真っ黒に焦げ付いた鍋に向かっていった。
ゴシゴシゴシゴシ!
その鬼気迫る背中は、かつてドラゴン退治を夢見ていた頃よりも、よほど頼もしく見えた。
***
数時間後。
『黒字屋』のランチタイムが終わった頃。
洗い場には、ピカピカに磨き上げられた食器類が芸術的なタワーとなって積み上げられていた。
「……完璧だ」
ロベルトは満足げに腕組みをした。
指先はふやけ、腕はパンパンだが、その顔には清々しい笑みがある。
「よくやったわね、ロベルト。検品合格よ」
私がチェックを入れると、彼は嬉しそうに破顔した。
「ありがとう、オーナー! ……あ、そうだ」
彼はエプロンのポケットから、一枚の紙切れを取り出した。
「休憩時間に、新しいポエムが浮かんできたんだ。……皿洗いのインスピレーションで」
「嫌な予感がしますが、一応聞きましょう」
ロベルトは咳払いをし、高らかに詠み上げた。
『ああ、スポンジよ。
お前はなぜ、己を削ってまで皿を愛するのか。
泡の中に消えゆく油(ギルティ)。
残されたのは、真実の白(ピュア・ホワイト)。
僕の心も……キュキュッと鳴きたい……』
「…………」
洗い場に沈黙が流れた。
ミシェルがピーラーを持ったまま固まっている。
「……どうかな?」
ロベルトが不安そうに尋ねる。
私は電卓を叩き、即決した。
「採用」
「えっ!?」
「タイトルは『元王子の洗浄詩集 ~汚れちまった悲しみに、洗剤を~』。……主婦層にバカ売れする予感がします」
「ほ、本当かい!?」
「ええ。生活感と哀愁、そして無駄な高尚さが絶妙なハーモニーを奏でています。これで洗剤メーカーとタイアップ広告が取れれば、収益は倍増ね」
私はニヤリと笑った。
ロベルトは「やったぁぁ!」とガッツポーズをした。
「僕の才能が! ついに時代に追いついた!」
「勘違いしないでください。時代が貴方の『底辺』に降りてきただけです」
その時、のれんをくぐってクラウス公爵が入ってきた。
「……やけに騒がしいな。裏方から歓喜の声が聞こえるが」
「いらっしゃいませ、閣下。うちの洗浄機(ロベルト)が、高性能に進化したところです」
私は洗い立てのカップに紅茶を注ぎ、出した。
クラウスはカップを手に取り、その輝きに目を細めた。
「……ほう。一点の曇りもない。いい仕事だ」
「でしょう? 元王子の手仕事です」
「彼もようやく、人の役に立つことを覚えたか」
クラウスは一口飲み、満足げに頷いた。
「このカップで飲む紅茶は、いつもより少し美味い気がするな」
その言葉を聞いたロベルトが、洗い場の陰でこっそりと涙を拭っていたのを、私は見逃さなかった。
「ぐすっ……。叔父上に褒められた……初めて……」
「泣くと塩分で皿が汚れますよ。拭いて」
ミシェルがタオルを投げる。
「ありがとう、ミシェル……。僕、明日も頑張るよ。もっとすごい輝きを目指すよ……!」
「はいはい、頑張ってくださいねー」
元王子のアルバイト生活。
それは過酷だが、少なくとも「虚無」ではなかった。
皿を洗えば皿が光る。
鍋を磨けば鍋が光る。
その単純な因果関係こそが、今の彼に必要な「救い」だったのかもしれない。
そして私は、洗剤メーカーへの営業メールを書きながら、ほくそ笑んだ。
「……次のボーナスで、高性能ゴム手袋くらいは買ってあげようかしら」
私の店は、今日も黒字である。
『黒字屋』のバックヤード、洗い場。
エプロン姿のロベルト(元王子)は、額の汗を手の甲で拭い、目の前に積み上がった白い皿の山を見上げた。
かつては剣よりも重い物を持ったことがなかった手が、今は洗剤の泡にまみれ、スポンジを握りしめている。
「ロベルト君、手が止まっていますよ。時給泥棒ですか?」
背後から、冷徹な監視者――オーナーのアイーダの声が飛んできた。
ロベルトはビクリと肩を震わせ、慌ててスポンジを動かした。
「や、やってるよ! ちょっと休憩しただけじゃないか!」
「休憩は十五分後に設定されています。それまでは、マシーンのように手を動かしなさい。皿の汚れは貴方の心の汚れだと思って」
「心の汚れ……」
ロベルトは手元の皿を見た。
ギトギトした肉料理の油汚れ。
トマトソースの頑固なシミ。
以前の彼なら、「汚らわしい!」と叫んで皿ごと投げ捨てていただろう。
だが、今の彼は違う。
「……落ちろ。落ちてくれ、僕の罪(油)よ……」
キュッ、キュッ。
彼は無心でスポンジを擦る。
洗剤が泡立ち、油汚れを包み込んでいく。
そして、水で流した瞬間。
――キュキュッ!
指先で擦ると、心地よい音が鳴り、皿は新品のような輝きを取り戻した。
「……おお」
ロベルトの口から、感嘆の声が漏れた。
「綺麗だ……」
彼は洗いたての皿を光にかざした。
蛍光灯の光を反射し、一点の曇りもなく輝く白磁。
それは、彼が今まで書いてきたどんなポエムよりも、具体的で、明白な「成果」だった。
「すごい……。僕が擦るだけで、こんなに汚かった皿が、純白に生まれ変わるなんて……」
「……何ブツブツ言ってるんですか? 気持ち悪いですよ」
隣で野菜の皮むきをしていたミシェルが、怪訝な顔で覗き込む。
「ミシェル! 見てくれ、この輝きを!」
ロベルトは皿を掲げた。
「まるで、生まれたての赤子の肌のようだ! 僕の手によって、この皿は救済(サルベーション)されたんだ!」
「はいはい、綺麗ですねー。さっさと水切りカゴに入れてください」
ミシェルは冷たくあしらうが、ロベルトの興奮は収まらない。
「わかるか、ミシェル? ポエムは……いくら書いても、誰も褒めてくれない。正解がないからだ。でも、皿洗いは違う!」
ロベルトは熱弁を振るう。
「汚れが落ちれば正解! 落ちなければ不正解! このシンプルさ! そして達成感! ……僕は今、人生で初めて『確かな手応え』を感じている!」
「……オーナー。新人君が壊れました」
ミシェルが振り返って報告する。
私は帳簿をつけながら、チラリとロベルトを見た。
「いいえ。あれは『覚醒』よ」
「覚醒?」
「ええ。無能な人間が、単純作業の中に『己の存在意義』を見出した瞬間ね。……いい傾向だわ。これで生産性が上がる」
私はロベルトに声をかけた。
「ロベルト。その調子で鍋のこげ落としも頼めるかしら? オプション手当として銅貨五枚つけるわよ」
「やります! 僕に落とせない汚れはない!」
ロベルトは勇者のように金タワシを手に取り、真っ黒に焦げ付いた鍋に向かっていった。
ゴシゴシゴシゴシ!
その鬼気迫る背中は、かつてドラゴン退治を夢見ていた頃よりも、よほど頼もしく見えた。
***
数時間後。
『黒字屋』のランチタイムが終わった頃。
洗い場には、ピカピカに磨き上げられた食器類が芸術的なタワーとなって積み上げられていた。
「……完璧だ」
ロベルトは満足げに腕組みをした。
指先はふやけ、腕はパンパンだが、その顔には清々しい笑みがある。
「よくやったわね、ロベルト。検品合格よ」
私がチェックを入れると、彼は嬉しそうに破顔した。
「ありがとう、オーナー! ……あ、そうだ」
彼はエプロンのポケットから、一枚の紙切れを取り出した。
「休憩時間に、新しいポエムが浮かんできたんだ。……皿洗いのインスピレーションで」
「嫌な予感がしますが、一応聞きましょう」
ロベルトは咳払いをし、高らかに詠み上げた。
『ああ、スポンジよ。
お前はなぜ、己を削ってまで皿を愛するのか。
泡の中に消えゆく油(ギルティ)。
残されたのは、真実の白(ピュア・ホワイト)。
僕の心も……キュキュッと鳴きたい……』
「…………」
洗い場に沈黙が流れた。
ミシェルがピーラーを持ったまま固まっている。
「……どうかな?」
ロベルトが不安そうに尋ねる。
私は電卓を叩き、即決した。
「採用」
「えっ!?」
「タイトルは『元王子の洗浄詩集 ~汚れちまった悲しみに、洗剤を~』。……主婦層にバカ売れする予感がします」
「ほ、本当かい!?」
「ええ。生活感と哀愁、そして無駄な高尚さが絶妙なハーモニーを奏でています。これで洗剤メーカーとタイアップ広告が取れれば、収益は倍増ね」
私はニヤリと笑った。
ロベルトは「やったぁぁ!」とガッツポーズをした。
「僕の才能が! ついに時代に追いついた!」
「勘違いしないでください。時代が貴方の『底辺』に降りてきただけです」
その時、のれんをくぐってクラウス公爵が入ってきた。
「……やけに騒がしいな。裏方から歓喜の声が聞こえるが」
「いらっしゃいませ、閣下。うちの洗浄機(ロベルト)が、高性能に進化したところです」
私は洗い立てのカップに紅茶を注ぎ、出した。
クラウスはカップを手に取り、その輝きに目を細めた。
「……ほう。一点の曇りもない。いい仕事だ」
「でしょう? 元王子の手仕事です」
「彼もようやく、人の役に立つことを覚えたか」
クラウスは一口飲み、満足げに頷いた。
「このカップで飲む紅茶は、いつもより少し美味い気がするな」
その言葉を聞いたロベルトが、洗い場の陰でこっそりと涙を拭っていたのを、私は見逃さなかった。
「ぐすっ……。叔父上に褒められた……初めて……」
「泣くと塩分で皿が汚れますよ。拭いて」
ミシェルがタオルを投げる。
「ありがとう、ミシェル……。僕、明日も頑張るよ。もっとすごい輝きを目指すよ……!」
「はいはい、頑張ってくださいねー」
元王子のアルバイト生活。
それは過酷だが、少なくとも「虚無」ではなかった。
皿を洗えば皿が光る。
鍋を磨けば鍋が光る。
その単純な因果関係こそが、今の彼に必要な「救い」だったのかもしれない。
そして私は、洗剤メーカーへの営業メールを書きながら、ほくそ笑んだ。
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