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霧雨
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さびしさを抱えてうろうろと歩き回り、気付けば三十四になっていた。長野の実家を出てからの日々が、それまでの日々の長さを凌駕しようとしていた。
紗雪は肌寒い霧雨の朝、立川の駅から少し離れた小さな店のシャッターを、今日も開ける。自宅はここから青梅線に乗って更に西、東京とは名ばかりの緑豊かな場所にある。
画家として活動しているけれど、元々大学は授業料免除の文学部を選んだ。卒業後は数年間、古本屋勤務やイベントへの日雇い派遣の仕事を経て、古本市での出張販売が主の小さい古本屋開いて、もう七年になる。朝一でツイッターに今日の営業時間とおすすめの一冊を投稿する。常連ばかりの店は、不定休な事もあり、一日に来る客は主にツイッターを見た数人のみ。
お客が来ない間は、事務や経理の仕事をしたり、古本市や個展のスカイプでの打ち合わせ、クラウドソーシングで受注している書評やエッセイの仕事、読書にスケッチまでしていればあっという間に時間が過ぎる。大変な事は山ほどあったけれど、好きな事をして赤字にならずなんとか暮せる日々は、しあわせだと思う。
それでも。
浮いた話も無く、軽々しく三十も飛び越えて、なんとなく一人暮らしを続ける日々の中で、時々疼く様に、心の奥底でさびしさを感じていた。
(だから、今日、OKしちゃったのかな………)
最初は三人で映画に行く予定だったけれど。湊から、都合が合わないのでタキと二人で行って欲しいとLINEが来た。今更断れないけれど、男性は苦手だ。良い思い出は何もない。「本日は午前中のみの営業です」とツイッターに投稿しながら、ちらりと苦い後悔がよぎった。IKEAで買ったオレンジの照明を付けると、早速読書好きの初老の商店街理事長がやって来た。
「おはようございます、朝霧さん。今日は冷えるね」
「あ、おはようございます」
愛想のいいこの理事長には、開店以来助けられた事も多い。紗雪も一礼した。
「なんか、面白い本、入った?」
「先週仕入れたんですけど、このハルキ文庫の時代小説シリーズはいかがですか?」
「三冊で千円か。いいね」
「ありがとうございます」
紗雪の本来の専門は美術書と絵本だけれど、お客に合わせて小説を半分ほど置いている。
理事長がキャッシュレスで支払っている間、外で傘の雫を払う音がした。
(あ)
背の高い影が、カランコロンと入口のドアの鐘を鳴らした。
「おはようございます」
理事長も新しいお客に一礼して「じゃ、また」と出て行った。
「ありがとうございます。こんな所まで来ていただいて」
「いえ。立川も来て見たかったので………」
髪に付いた雨をハンカチで拭う、それはタキだった。今日は銀縁の眼鏡をしている。
「………素敵なお店ですね………」
タキは照れたように辺りを見回す。
「元々は小さなカウンターバーだったそうです。本棚の木材と壁、あとカウンターもその頃のものを活かしているので、ちょっと重厚な雰囲気になっちゃって………」
「『はてしない物語』に出てきそうですね」
「えへへ、その岩波書店の本、置いてあります」
紗雪は棚からハードカバーの本を取り出した。灰色で、ずっしりと重い。
「ああ。子供の頃図書館で借りて読んだな。装丁が綺麗ですよね。この物語の中に出てくる『はてしない物語』の本、そのままで」
タキが本をしげしげと眺めている間、紗雪は小さなカウンターに置いてあるステンレスボトルから、紙コップにコーヒーを注いだ。常連へのサービス用のものだ。地元のコーヒー店の豆を使っていて、今日の待ち合わせのLINEをする際にその話をしたら、タキに「是非飲んでみたい」と言われ、はるばる立川まで来てくれたのだった。
「ああ、すみません」
俺はコーヒーが好きで、いつもブラックで飲むんです、と呟きながらタキは両手でコップを持って、一口啜った。
「美味しい」
「はい、フルーティであっさりしていて、飲みやすいんですよね」
丸く大きなレンズの眼鏡を曇らせながら、カウンターのスツールに猫背気味に座り、ゆっくりとタキは珈琲を飲んだ。午前中の二時間、何人かの客が代わりばんこに訪れ、同じ様にコーヒーを飲んだり、店内を見たりした。一度駅前の新刊書店に行ったタキは、紗雪が閉店準備をしている間に、数冊の本を抱えて戻って来た。
「いやあ、沢山買っちゃって」
「オリオン書房さん、広いですよね」
「ええ……………あ、あと、これも買っていいですか。コーヒー代も一緒に」
「そんな、コーヒーはサービスなので良いですよ」
タキは『はてしない物語』を購入し、笑顔を見せた。
(あ)
なんて柔らかい笑顔をするひとなんだろう、と紗雪はなんだか。
胸を突かれた気がした。
「映画、楽しみです」
紗雪がシャッターを下ろすのを手伝いながら、タキは嬉しそうな様子を見せる。
紗雪は楽しみ半分…………実は怖さが半分だった。
霧雨の中、二人並んで駅へ歩き出しながら、紗雪はふと思い出した。
もう数年前、男と二人で映画を観にいった、あの最悪な秋の出来事を。
紗雪は肌寒い霧雨の朝、立川の駅から少し離れた小さな店のシャッターを、今日も開ける。自宅はここから青梅線に乗って更に西、東京とは名ばかりの緑豊かな場所にある。
画家として活動しているけれど、元々大学は授業料免除の文学部を選んだ。卒業後は数年間、古本屋勤務やイベントへの日雇い派遣の仕事を経て、古本市での出張販売が主の小さい古本屋開いて、もう七年になる。朝一でツイッターに今日の営業時間とおすすめの一冊を投稿する。常連ばかりの店は、不定休な事もあり、一日に来る客は主にツイッターを見た数人のみ。
お客が来ない間は、事務や経理の仕事をしたり、古本市や個展のスカイプでの打ち合わせ、クラウドソーシングで受注している書評やエッセイの仕事、読書にスケッチまでしていればあっという間に時間が過ぎる。大変な事は山ほどあったけれど、好きな事をして赤字にならずなんとか暮せる日々は、しあわせだと思う。
それでも。
浮いた話も無く、軽々しく三十も飛び越えて、なんとなく一人暮らしを続ける日々の中で、時々疼く様に、心の奥底でさびしさを感じていた。
(だから、今日、OKしちゃったのかな………)
最初は三人で映画に行く予定だったけれど。湊から、都合が合わないのでタキと二人で行って欲しいとLINEが来た。今更断れないけれど、男性は苦手だ。良い思い出は何もない。「本日は午前中のみの営業です」とツイッターに投稿しながら、ちらりと苦い後悔がよぎった。IKEAで買ったオレンジの照明を付けると、早速読書好きの初老の商店街理事長がやって来た。
「おはようございます、朝霧さん。今日は冷えるね」
「あ、おはようございます」
愛想のいいこの理事長には、開店以来助けられた事も多い。紗雪も一礼した。
「なんか、面白い本、入った?」
「先週仕入れたんですけど、このハルキ文庫の時代小説シリーズはいかがですか?」
「三冊で千円か。いいね」
「ありがとうございます」
紗雪の本来の専門は美術書と絵本だけれど、お客に合わせて小説を半分ほど置いている。
理事長がキャッシュレスで支払っている間、外で傘の雫を払う音がした。
(あ)
背の高い影が、カランコロンと入口のドアの鐘を鳴らした。
「おはようございます」
理事長も新しいお客に一礼して「じゃ、また」と出て行った。
「ありがとうございます。こんな所まで来ていただいて」
「いえ。立川も来て見たかったので………」
髪に付いた雨をハンカチで拭う、それはタキだった。今日は銀縁の眼鏡をしている。
「………素敵なお店ですね………」
タキは照れたように辺りを見回す。
「元々は小さなカウンターバーだったそうです。本棚の木材と壁、あとカウンターもその頃のものを活かしているので、ちょっと重厚な雰囲気になっちゃって………」
「『はてしない物語』に出てきそうですね」
「えへへ、その岩波書店の本、置いてあります」
紗雪は棚からハードカバーの本を取り出した。灰色で、ずっしりと重い。
「ああ。子供の頃図書館で借りて読んだな。装丁が綺麗ですよね。この物語の中に出てくる『はてしない物語』の本、そのままで」
タキが本をしげしげと眺めている間、紗雪は小さなカウンターに置いてあるステンレスボトルから、紙コップにコーヒーを注いだ。常連へのサービス用のものだ。地元のコーヒー店の豆を使っていて、今日の待ち合わせのLINEをする際にその話をしたら、タキに「是非飲んでみたい」と言われ、はるばる立川まで来てくれたのだった。
「ああ、すみません」
俺はコーヒーが好きで、いつもブラックで飲むんです、と呟きながらタキは両手でコップを持って、一口啜った。
「美味しい」
「はい、フルーティであっさりしていて、飲みやすいんですよね」
丸く大きなレンズの眼鏡を曇らせながら、カウンターのスツールに猫背気味に座り、ゆっくりとタキは珈琲を飲んだ。午前中の二時間、何人かの客が代わりばんこに訪れ、同じ様にコーヒーを飲んだり、店内を見たりした。一度駅前の新刊書店に行ったタキは、紗雪が閉店準備をしている間に、数冊の本を抱えて戻って来た。
「いやあ、沢山買っちゃって」
「オリオン書房さん、広いですよね」
「ええ……………あ、あと、これも買っていいですか。コーヒー代も一緒に」
「そんな、コーヒーはサービスなので良いですよ」
タキは『はてしない物語』を購入し、笑顔を見せた。
(あ)
なんて柔らかい笑顔をするひとなんだろう、と紗雪はなんだか。
胸を突かれた気がした。
「映画、楽しみです」
紗雪がシャッターを下ろすのを手伝いながら、タキは嬉しそうな様子を見せる。
紗雪は楽しみ半分…………実は怖さが半分だった。
霧雨の中、二人並んで駅へ歩き出しながら、紗雪はふと思い出した。
もう数年前、男と二人で映画を観にいった、あの最悪な秋の出来事を。
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