朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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青空

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 新宿駅はいつもながらに人が溢れていて、東京に出てきてもうすぐ二十年が見えそうな紗雪も、未だに圧倒される。
「……すごいひとですね」
 ロッカーに本を預け、人にぶつからないように南口へと歩きながら、タキも呟いた。
「榎本さんはずっと東京ですか?」
 NEWoManの横を通り過ぎて、バルト9へと歩く。
「いいえ。二十数年前に田舎から上京してきました」
「あ。じゃあ私と一緒」
 タキの広げている骨太の青い傘に、ボッボッと雨のあたる音がする。宇多田ヒカルの「COLORS」みたいだと紗雪は思う。ふと、タキが問うた。
「……藤田嗣治、好きですか?」
「はい。猫の絵が可愛いですよね。印象派の絵も好きなんですけど、日本画も好きな作家さんが多くて。菱田春草とか」
「俺も。絵を見るのも好きで。美術館も行きたいですね。六本木の森美術館とか」
 駅前から離れると、少しは人が減る。まだ映画の時間には少し早くて、ゆったりと歩く。
 
 映画館に着くと、タキは用意していたチケットを二枚出した。
「あ。すみません」
「いえいえ。今日は俺に付き合って貰ったので」
 いつ来てもバルト9は重厚な雰囲気で好きだ。売店を通りがかると、美味しそうなサンドイッチが見えた。
(そう言えば、お昼食べてなかったなあ)
「朝霧さん、軽食、買って行きましょうか?」
「え、いいんですか」
「まだ時間余裕ありますよ。ていうか、すみません、俺、あまり食事をきちんととらない方なので、気が利かなくて」
「そんな全然」
 紗雪はサンドイッチとオレンジジュースを、タキはアイスコーヒーを頼んだ。
「あ、持ちますよ」
 タキはそう言って、二人分を軽々引き受けた。
(あ、なんか嬉しい)
 タキは紗雪の質問にも答えてくれるし、様子もちゃんと見ていてくれる。
(コミュニケーションや気遣いが丁寧なひとだなあ)
 男性でそんなひとに、本当に久々に出会った気がする。
 やがて映画が始まった。エコール・ド・パリでの華やかな日々、日本での戦争が落とした影、晩年のフランス帰化………芸術家として波乱の人生を送る藤田嗣治の生涯が重厚に描かれた映画に、紗雪は釘付けになった。
(あ。二人で映画見てるの忘れてた)
 途中でチラリとタキを見遣ったら、彼もスクリーンに釘付けで、コーヒーは氷がすっかり溶けていた。
 紗雪は思わず苦笑した。

「ああ、面白かったですね、映画」
「はい」
 映画館を出ると、すっかり雨が上がり、夕方前の青空が広がっていた。都会の雨上がりならではの生臭い匂いがした。
「まだ時間大丈夫ですか?新宿御苑で休んで行きませんか?」
「ああ。いいですね」
 二人は歩いてすぐの新宿御苑に向かう。紗雪が「今度は私が」と二人分の入場料を払った。
「新宿御苑は桜の季節も綺麗ですけど、今だとスイレンとかマンジュシャゲが身頃みたいですね」
 入口近くの案内を見ながらタキが言う。二人でそっと寄り添って、午後の昼下がりの新宿御苑を歩いた。雨上がりの広大な庭園は空いていた。日本庭園に温室に原っぱ。美しく咲いた花と、水鳥の写真をゆったりと撮って微笑みあう。
(あ、なんだかデートみたいだ)
 そう考えると紗雪は気恥ずかしくなって、少し俯いた。
「……疲れました?お茶しましょうか」
 レストランでタキはコーヒー、紗雪はたんぽぽティーを飲む。タキは昼から何も食べていないのに、少しも空腹そうに見えない。
「あ、あの、ご飯とか、大丈夫ですか」
「あ、いいえ」
 思い切って紗雪が聞くと、タキは少し言いづらそうに口を開いた。
「……実は軽く腎臓の病気があって、食べられるものが決まってるんです。なので、あまり気にしないで下さい。元々食にはあんまり執着がなくて」
「あ、あ、そうなんですか……」
(余計な事聞いちゃった)
 こんな時、上手く会話を繋げない自分が嫌になる。
「ああ、そう言えば」
 何気なくタキが口を開く。
「藤田嗣治って新宿の生まれでしたよね。新宿御苑は『言の葉の庭』の舞台だし。映画の中の人物の暮らした場所に今いるんだと思うと、不思議な感じですね」
「新宿は色んな本の舞台になってますよね。『ジウ』とか『眉山』とか」
 閉館までのしばらくの間、二人でまた映画や小説の話をした。
(ああ、楽しいなあ)
 紗雪はこんな風に誰かと語らう事がもうずっと無かったのを思い出した。
 やがて閉園の音楽が流れ、後ろ髪を引かれる思いで御苑を後にした。
  その時。
 トゥルルルトゥルルルと紗雪のスマホが鳴った。電話だ。珍しい。
「どうぞ」
 タキが道の端によけて、少し距離をとってくれる。
「あ、もしもし」
『ああ、朝霧さん。すみません、店に掛けても留守電だったので』
 電話は、来週行われる古本市の主催者からだった。なんと、現場まで配送してくれるはずのドライバーが急病で都合がつかなくなってしまい、代理の手配も難しいという。
『予め本を宅急便で送るとか、朝霧さんの方でドライバーと車を手配出来そうなら参加してもらえそうかなと思うんですが、いかがですかね?』
「そうですね………ちょっと明日まで考えて良いですか?」
 紗雪は少し落ち込んで電話を切った。紗雪は免許を持っていない。コストがかさむけれど、ここは宅急便しか手がないかも知れない。しかしそれだと、よっぽど売れない限りほぼ儲けが無くなる計算になりそうだ。
(また似顔絵を描きまくるしかないかな)
 と、そこに。
「朝霧さん」
 タキが遠慮がちに声を掛けた。
「来週の古本市って何曜日ですか?」
「あ………水曜日です。撤収は再来週で」
「ああ、水曜日は丁度俺休みですね。もし車が手配出来たら、俺免許持ってますよ」
「えっ、本当ですか!?」
 紗雪は思わず大声を出した。車は商店街からトラクターを格安で借りた事がある。
「で、でもそんなの悪いんじゃ………お礼も往復で数千円しか出せないし」
「お礼は、オススメの本を頂けるだけで大丈夫ですよ。休みの日はヒマなので全然構わないです」
「ええ………すごく助かります。ありがとうございます」
 一礼する紗雪に、タキは微笑んだ。
 二人で新宿駅までの道をゆっくりと歩いた。夕方の新宿は車とネオンのライトがつき始め、相変わらず埃っぽくてガス臭く、繰り返す狂騒の夜を迎えようとしている。
「送りましょうか。満員電車危ないし」
 南口の改札前でタキは立ち止まった。
「あ、いいえ!いいえ!!大丈夫です!!」
 ふいに嫌な記憶が呼び起こされて、紗雪は胸の前で両手をぶんぶん振った。
「……そ、そうですか」
 タキは少しびっくりしたように眼をぱちくりさせた。
(あ、あ、変に思われたかな………どうしよう)
「あ、あの、今日はすごく楽しかったです。ありがとうございました」
「あ、ちょっと待ってて下さい。五分だけ」
 タキはそう言うと足早にルミネに向かった。どうしたんだろうと紗雪が待っていると、花柄の包みを抱えて戻って来た。
「おみやげに。クッキーです。荷物になるかと思ったんですけど、ここの、美味しいので是非」
「ええ、すみません、とても嬉しいです」
(やさしいひとだな)
 こんなひとに紗雪は初めて会ったかも知れない。
「じゃあ、ここで」
 二人で改札をくぐり、総武線と逆方向の中央線のホームに分かれる所で手を振って別れた。
 九月が、終わろうとしていた。
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