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ひかり
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七月の銀座のギャラリーには、六十号の大きなキャンバスが二つ、夏の風に吹かれて鮮やかに佇んでいた。
一つは、百匹近くはいるだろう蜘蛛の絵。楳図かずおの「漂流教室」に出てきそうなおどろおどろしい黒い大きな蜘蛛から、玉虫色の鮮やかな蜘蛛までが、大樹を背景にキャンバスにびっしりと書かれている。
そしてもう一つは鮮烈で温かな光の絵だった。丸く描かれた光の中心から、画面一杯に虹色の光線がこれでもかと迫ってくる。全体的に色調が暗いと言われるさゆの絵は、たまにこうして鮮やかな希望を魅せる。
「へへ。何かいい事あった?タキと」
久しぶりに会った湊は、さゆの個展開催に花束を持って駆けつけ、自分事のように喜んでくれた。一つ一つじっくりと作品を鑑賞して貰い、なんだか恥ずかしかった。初日は他のギャラリーのオーナーや大学の美術講師など、顔見知りもそうでない人も何人もギャラリーを訪れ、さゆも一日在廊して、久々に着たスーツで馴れない挨拶を交わし続けた。数日経って会期も真ん中になった今は、人出もとても落ち着いている。
「う………うん」
真夜中の駅でタキと抱き合った感触をさゆは不意に思い出し、下を向いてもじもじした。
「お店は?会期中はどうしてるの?」
「あ、ネット通販のみか、午前中だけ開けてる……」
「そっか。大変だね」
正直、今月の生活はカツカツだ。店とアパートの家賃と光熱費を払うのがやっとかも知れない。イベントに行けないので、タキが通販の発送を手伝ってくれる事もあった。
(もし、何ヶ月も店を閉めなきゃいけなくなったら、家賃の更新月で古本屋は辞めるしかなくなるんだろうな)
幸い、数枚の絵にレストランなどから買い手がついてくれたので、先行きはまだ少しは見通せる。
湊はさゆの絵が印刷されたポストカードを数枚買うと、表に飾られた小ぶりの花環を最後にしげしげと見た。さゆの誕生花のフリージアと雪のようなコットンヒースなどがあしらわれた上品な花環。タキからだ。
湊はそれを見て満足そうに微笑むと、「じゃ、そろそろ。暑さに気をつけて」と手を振る。
行きかけて……少し迷いながら口を開いた。
「あのさ、さゆさん」
「は、はい」
「これは言おうか迷ったんだけど………あいつ、もしかしたらその内、ちょっとびっくりするような事をさゆさんに打ち明けるかもしれない」
「え……?」
(なんだろう)
胸の内がざわざわする。
ものすごい不安が身体を包み込んでゆく感触。黒い真綿のように。
「でも、でもさゆさんに覚えていて欲しいのは、あいつがさゆさんに見せてる姿も間違いなく本当のあいつの姿だってこと。むしろ、それが本当のタキじゃないかって、あたしは思ってる。………あいつの事、出来れば、信じてやって欲しい」
「………」
「タキ、きっとさゆさんと一生一緒にいたいって思ってるよ」
急過ぎて何も返せない。タキが一体何の秘密を抱えているんだろう。
湊が帰ってからも、さゆは何だかぼんやりして、次の日のライブペインティングの準備が上手く進まなかった。なんとか夕方まで在廊し、オーナーにおみやげにと花の形をしたクッキーを渡されて、ギャラリーを出た。薄桃色のワンピース姿で、中央通りから一本外れた裏道を歩きながら、無意識にLINEを開いた。新橋駅まで歩きながら、何をどう送れば良いのか混乱しすぎて分からず、迷った末に『会いたい』とだけ送った。
山手線に乗った所でLINEが鳴った。
『仕事今終わったよ。俺も会いたい』
『次、いつ会える?』
『今日』
満員に近い電車の中で、さゆは息を呑んだ。
『今どこ?東京駅で下りられそう?俺、会社の最寄り駅が葛西臨海公園駅だから、京葉線ですぐだよ。一時間位カフェ行こう?』
『うん。行く。今新橋駅出た所』
新橋駅から東京駅はほんの数分だけれど、とてつもなく長くて、待ち遠しい時間だった。
待ち合わせたカフェに、タキは二十分ほどで小走りにやって来た。
「お待たせ」
「ううん!」
顔を見るとタキを問い詰めたい気持ちが全部吹き飛んで、さゆは笑顔で首を振った。
「個展、順調?」
「うん。なんとか」
「また古本の発送手伝えそうなら言って」
「うん、ありがと」
混雑した、席の感覚が狭い都会のカフェで、結局食事もとりながら三時間近く他愛もない話を続けた。
(今じゃなくていいや)
さゆは、ついそう思ってしまう。いつか、自分がタキに話していない事も、タキが自分に話していない事も、みんな明らかにしなくてはいけない日が来る。きっと来る。
でも、それは、今じゃなくていい。まだ。
(今は、今だけの、幸せの中にいたい)
「あ、そうだ、さゆ」
「うん?」
「来月、鎌倉に行こう?行った事ある?」
「一度だけ。何年か前、鶴岡八幡宮の牡丹を描きに」
「俺、夏の鎌倉をさゆに見せたい。海とか、『ミルクホール』っていう、映画人も良く訪れたカフェに行こう?あと、鎌倉文学館も行きたいな」
「うん」
「さゆ………俺、もしかしたら………」
そこでタキが言い澱んで、さゆはドキッとした。
「う、うん…………」
「まだ分からないけど。俺もしかしたら、今バイトなんだけど、契約社員から正社員を目指すかもしれない」
「えっ、すごいね!」
さゆは正社員で働いた事がないので、正社員として社会で活躍している人は尊敬する。
「ありがとう。だから、年明け頃からちょっと忙しくなるかも。あんまり会えなくなったらごめんね」
「ううん」
一抹の寂しさと共にさゆは首を振った。
二〇一九年の夏は、こうして始まった。
一つは、百匹近くはいるだろう蜘蛛の絵。楳図かずおの「漂流教室」に出てきそうなおどろおどろしい黒い大きな蜘蛛から、玉虫色の鮮やかな蜘蛛までが、大樹を背景にキャンバスにびっしりと書かれている。
そしてもう一つは鮮烈で温かな光の絵だった。丸く描かれた光の中心から、画面一杯に虹色の光線がこれでもかと迫ってくる。全体的に色調が暗いと言われるさゆの絵は、たまにこうして鮮やかな希望を魅せる。
「へへ。何かいい事あった?タキと」
久しぶりに会った湊は、さゆの個展開催に花束を持って駆けつけ、自分事のように喜んでくれた。一つ一つじっくりと作品を鑑賞して貰い、なんだか恥ずかしかった。初日は他のギャラリーのオーナーや大学の美術講師など、顔見知りもそうでない人も何人もギャラリーを訪れ、さゆも一日在廊して、久々に着たスーツで馴れない挨拶を交わし続けた。数日経って会期も真ん中になった今は、人出もとても落ち着いている。
「う………うん」
真夜中の駅でタキと抱き合った感触をさゆは不意に思い出し、下を向いてもじもじした。
「お店は?会期中はどうしてるの?」
「あ、ネット通販のみか、午前中だけ開けてる……」
「そっか。大変だね」
正直、今月の生活はカツカツだ。店とアパートの家賃と光熱費を払うのがやっとかも知れない。イベントに行けないので、タキが通販の発送を手伝ってくれる事もあった。
(もし、何ヶ月も店を閉めなきゃいけなくなったら、家賃の更新月で古本屋は辞めるしかなくなるんだろうな)
幸い、数枚の絵にレストランなどから買い手がついてくれたので、先行きはまだ少しは見通せる。
湊はさゆの絵が印刷されたポストカードを数枚買うと、表に飾られた小ぶりの花環を最後にしげしげと見た。さゆの誕生花のフリージアと雪のようなコットンヒースなどがあしらわれた上品な花環。タキからだ。
湊はそれを見て満足そうに微笑むと、「じゃ、そろそろ。暑さに気をつけて」と手を振る。
行きかけて……少し迷いながら口を開いた。
「あのさ、さゆさん」
「は、はい」
「これは言おうか迷ったんだけど………あいつ、もしかしたらその内、ちょっとびっくりするような事をさゆさんに打ち明けるかもしれない」
「え……?」
(なんだろう)
胸の内がざわざわする。
ものすごい不安が身体を包み込んでゆく感触。黒い真綿のように。
「でも、でもさゆさんに覚えていて欲しいのは、あいつがさゆさんに見せてる姿も間違いなく本当のあいつの姿だってこと。むしろ、それが本当のタキじゃないかって、あたしは思ってる。………あいつの事、出来れば、信じてやって欲しい」
「………」
「タキ、きっとさゆさんと一生一緒にいたいって思ってるよ」
急過ぎて何も返せない。タキが一体何の秘密を抱えているんだろう。
湊が帰ってからも、さゆは何だかぼんやりして、次の日のライブペインティングの準備が上手く進まなかった。なんとか夕方まで在廊し、オーナーにおみやげにと花の形をしたクッキーを渡されて、ギャラリーを出た。薄桃色のワンピース姿で、中央通りから一本外れた裏道を歩きながら、無意識にLINEを開いた。新橋駅まで歩きながら、何をどう送れば良いのか混乱しすぎて分からず、迷った末に『会いたい』とだけ送った。
山手線に乗った所でLINEが鳴った。
『仕事今終わったよ。俺も会いたい』
『次、いつ会える?』
『今日』
満員に近い電車の中で、さゆは息を呑んだ。
『今どこ?東京駅で下りられそう?俺、会社の最寄り駅が葛西臨海公園駅だから、京葉線ですぐだよ。一時間位カフェ行こう?』
『うん。行く。今新橋駅出た所』
新橋駅から東京駅はほんの数分だけれど、とてつもなく長くて、待ち遠しい時間だった。
待ち合わせたカフェに、タキは二十分ほどで小走りにやって来た。
「お待たせ」
「ううん!」
顔を見るとタキを問い詰めたい気持ちが全部吹き飛んで、さゆは笑顔で首を振った。
「個展、順調?」
「うん。なんとか」
「また古本の発送手伝えそうなら言って」
「うん、ありがと」
混雑した、席の感覚が狭い都会のカフェで、結局食事もとりながら三時間近く他愛もない話を続けた。
(今じゃなくていいや)
さゆは、ついそう思ってしまう。いつか、自分がタキに話していない事も、タキが自分に話していない事も、みんな明らかにしなくてはいけない日が来る。きっと来る。
でも、それは、今じゃなくていい。まだ。
(今は、今だけの、幸せの中にいたい)
「あ、そうだ、さゆ」
「うん?」
「来月、鎌倉に行こう?行った事ある?」
「一度だけ。何年か前、鶴岡八幡宮の牡丹を描きに」
「俺、夏の鎌倉をさゆに見せたい。海とか、『ミルクホール』っていう、映画人も良く訪れたカフェに行こう?あと、鎌倉文学館も行きたいな」
「うん」
「さゆ………俺、もしかしたら………」
そこでタキが言い澱んで、さゆはドキッとした。
「う、うん…………」
「まだ分からないけど。俺もしかしたら、今バイトなんだけど、契約社員から正社員を目指すかもしれない」
「えっ、すごいね!」
さゆは正社員で働いた事がないので、正社員として社会で活躍している人は尊敬する。
「ありがとう。だから、年明け頃からちょっと忙しくなるかも。あんまり会えなくなったらごめんね」
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二〇一九年の夏は、こうして始まった。
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