朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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翳りゆく日々

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その日さゆは、半蔵門線の座席にもたれかかって、錦糸町へ向かっていた。ずっとダルさがとれない。仕事以外で都心へ向かうのは久々だ。道行く人、みんながマスクをしている初めての夏。さゆも地下鉄の生暖かい空気が「暑いなあ」「マスク蒸れるなあ」とうだりながら、地上へ向かうエスカレーターに乗る。
 二千二十年八月。オリンピックの無い東京の夏だった。結局、YOUTUBEは止められていない。やっと収益が上がって来たし、楽しみに待ってくれている常連の視聴者が何十人か出来たので、そんな簡単には止められなかった。しかし理事長に確認した所、やはり連絡は何回かあったらしい。とても心配された。
(何か対策を打った方が良いんだろうな)
 そうは思うけれど、ネットで家族関係を相談出来る場所を検索すると、高額なサイトばかり出てきて、気が引けた。性的な事も、話したくない。
(貧乏だと出来る事が限られるんだよね)
 でも何かしなくちゃ、と焦る気持ちが募り、誰かに頼りたい気持ちを膨らみ―――――。
 タキに、会って相談して見る事にした。 
 LINEすると、タキはとても喜んですぐに返信をくれた。「外でルークに会いたい」というと、錦糸町にあるネコを連れて入れるカフェはどうかと提案された。
『半個室になっちゃうから、さゆが良ければだけど』
『うん、いいよ。でも隣じゃなくて、向かい合わせに座りたい』
『大丈夫』
 その三文字の『大丈夫』からは、感情が見えなかった。
 約束した時間五分前に、駅に程近い新しいカフェに着くと、タキはもう席に座っていた。
(あ)
 タキの雰囲気が柔らかいな、と思った。昔のタキみたいだ。
「ひさしぶり」
「うん」 
 なんとなく眼を合わせずらくて、さゆはワイドパンツの裾を直しながら席に着いた。
「さゆ・・・まだ、さゆって呼んでいい?」
「うん」
「今日は来てくれてありがとう。・・・まずは、謝らせて欲しいんだ。・・・この前の事、本当にごめん。俺、さゆに酷い事をした。やっぱり忙し過ぎると精神的に追い詰められ易くて、ダメなんだって気付いたんだ。俺は、人並みには頑張れない。それで、もう課長と話し合ったんだけど・・・正社員になるのは、諦めようと思う」
「えっ、あんなに正社員になりたがってたのに・・・」
「うん、でも、体力的な面から言っても、精神的な面から言っても、どうしても俺には厳しいよ。今までの生活に近い、契約社員のままならきっと、続けられるから、もうそれで良しとしないと」
「そっか・・・」
「昔行ってた医者にまた通ってて、高いんだけどカウンセリングを月二で受けてるんだ。それでメンタルもケアして、日常を守れるようにしていきたい」
 タキは古びたバッグから、何かを取り出してテーブルの上に置いた。さゆがよく見ると、病院の領収証だった。
(でもそれ、偽造じゃない証拠はないよね)
 咄嗟にそう思うほど、もうさゆの気持ちは冷めていた。他に頼れる人もいないし、もう事情を知られているからタキに相談するだけだった。
 今の自分とタキを辛うじて繋いでいるものは、世界が変容する前の、楽しかった思い出だけだ。二人の間だけにある、あの、煌めいていた日々の、思い出。
「タキが日常を問題なく送れるなら、それで良かったよ」
 そこでウエイトレスが注文を聞きにきたので、二人は慌ててコーヒーとオレンジジュースを注文した。
「私も、タキに話さなくちゃいけない事があるんだ」
「うん?」
「・・・これ、後で読んで欲しい」
 さゆは自分の小説が載った文芸誌をバッグから取り出すと、タキの方に置いた。中身をパラパラとめくったタキの表情が曇った。
「・・・私、タキの事をモデルにして、勝手に小説を書いて発表したの。ごめんね。今日は、それを言いに来たの」
「・・・そっか・・・」
 タキは運ばれて来たアイスコーヒーを一口飲んで、そのまましばらく黙り込んだ。さゆも俯いていた。世の中から隠れて暮らす事を切望しているタキにとって、世間の眼に晒されるような事は耐え難い苦痛のはずだった。それを知っていて、自分はタキの物語を書いた。
 唇を噛んでいたタキは、長い長い沈黙の後、小さなかすれた声で言った。
「・・・いいんだ・・・・俺が、さゆにそうせずにいられないほどの苦痛を与えたんだから・・・さゆがそうしたかったなら、俺はいいんだ」
 タキが自分に言い聞かせているような、噛み締めるような言葉だった。
 その時。タキの持っていた大きなキャリーの中から、カリカリという音がした。
「あ、ルーク!ごめんね、暑かったかな」
 タキが慌ててキャリーを開けると、毛糸玉のようにルークがコロコロと転がり出た。
「ルーク!」
 さゆが呼ぶ。ルークはもう自分の事なんて忘れたかと思っていたけれど、さゆの声を聞いたルークは、真っ直ぐさゆに走り寄ってくると、ふわふわの身体を擦り付けた。
「いや、可愛いなあ」
 ルークを抱き上げて久々に思いっきり撫でながら、思わず笑顔になる。それを見たタキが、
「良かった」
 と呟いた。
「ルーク、さゆに会えなくなったのが寂しかったみたいで、しばらく食が細くなっちゃったんだ」
「えっもう大丈夫なの?」
「うん、前よりは食べるようになったかな。でも夏はどうしても他の季節よりも食欲が落ちるみたいなんだよね」
 そこからしばらくは、タキとさゆは昔の様に他愛ない話をした。一時よりは動き出した街で、落ち着いたらどこに行きたい、なんて夢物語を話した。タキからは一時期のような攻撃性は失せ、気遣いと優しさを感じた。タキと話すのは楽しかった。
 ―――――――それでも。
(なんかもう、ドキドキしたりしないなあ)
 ルークを膝に眠らせて、タキと話しながら、友達とも恋人とも違う距離に、自分の中でタキが収まりつつあるのをさゆは感じていた。
 もう、自分は、タキに「触れたい」とか「抱き締められたい」とかそういう事は思わない。「なんとなく頼れるかも」「会っても良いかも」そんなポジションだ。
(都合良過ぎるかな)
 タキがそんな関係なら嫌だというなら、もう会わなくていいやという気もする。
(ああ、あの時)
 あの、一瞬、全てが煌いていたような春の朝に。
(結婚しなくて良かったな)
「さゆ」
 タキもさゆの変化を知ってか知らずか、親の件は遠慮がちにアドバイスをくれた。住民票の閲覧制限、市役所や警察に予め相談をした方が良いこと。もしひとりが嫌なら、自分も同行する事。YOUTUBEが止められないなら、今の場所が特定されない配信のみを続ける事。
「もしさゆが野分さんにこの件を相談しても良いっていうなら、俺よりももっと有益なアドバイスが出来ると思う。あの人はそういうのプロだから」
「・・・うーん、それは良いかな」
 知られたくない、という気持ちが大きい。
「・・・実は俺も、少し前にどこでかぎつけたか知らないけど、母親から連絡があって。なけなしの貯金を崩して渡して、一応縁は切れたんだ。法律的には難しいけど、これ以上絶対に援助しないって弁護士同席で話して、切った、って事にしてる」
「そっか、良かったね」
 良かったと言ってくれるさゆがいてくれて良かったよ、とタキは微笑んだ。

 結局その日は、数時間カフェで話し込み、ルークが目覚めてはしゃぎ始めた所で出て、生温い夕方の錦糸町駅で別れた。帰り際タキは、心配そうな素振りをみせた。
「さゆ。俺はさゆが事件に巻き込まれないか本当に心配だよ。YOUTUBEの配信後とかいつでも送るから、連絡して」
「うん、ありがとう」
「さゆ」
 タキはしばらく黙り、やがて意を決したように口を開いた。
「・・・さゆ、また会ってくれる?」
「・・・・・・・うん・・・・・・・」
 今のタキなら、時々会っても良いかな、とは思う。
(もうヨリを戻す気はないけど)
「ありがとう、とっても嬉しい。・・・俺、ものすごく勝手な事言うけど、やっぱりさゆの近くにいたい。さゆのいない人生は、どうしても考えられないよ。さゆが他の誰と付き合っても、結婚しても構わない。もう二度と触れられなくてもいいから、時々でも会って話せたら嬉しい」
「うん」
 俯いたままさゆは頷いた。
「さゆが困ってる事があるなら、いつでも助けたいから、呼んでね」
「ありがとう」
 またね、と小さく手を振ってさゆはタキに背を向けて歩き出した。タキと愛し合っていた頃の自分を、とても昔の事のように、懐かしく思い出していた。
 もうきっと。何があっても自分はその場所には戻れない。そんな予感がしていた。 

 
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