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かりそめの平穏
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タキと会うのがこの頃少し平気になったな、とさゆは気付いた。季節はゆっくりと秋に向かおうとしている。タキはyoutubeの配信の日に自分の休みを合わせ、自宅近くまで必ず付き添ってくれる。それだけだとなんだか申し訳ないので、別の日にたまに公園を散策したりしていた。なんだかんだで週に一日は会っている。タキは通院を続けていると言い、いつも穏やかで幸せそうで、出会った頃のタキそのままのようだった。
(でも、私まだタキに貰った服、着れないや)
肩より少し下まで伸びた髪を、鏡の前で一つに縛りながら、さゆは今日も自分で買った黒いワイドパンツと濃紺のブラウスを選ぶ。髪はなんとなく、伸ばしたままだ。ここ数ヶ月は、スカートが履けない。さゆは、もうタキへの恋愛感情がすっかり自分自身の中から抹え失せてしまったのを感じていた。それでもタキとの縁をなんとなく切れないのは、二人の間に降り積もった二年間の思い出とか、愛着とか、寂しさとか、そういう感情からだ。きっとタキもそれを分かっていて、適度な距離を置いてさゆに接してくれる。
不意に気持ち悪さがこみあげて来て、さゆはトイレに駆け込んだ。思いっきり吐いた後、青ざめた顔でトイレに座り込んだ。
(どうしよう)
この頃、時々急に吐き気がする。生理は数ヶ月来ていない。ずっと、予感めいた、もやもやした気持ちを胸の底に抱えながら、ただただ恐ろしくて、検査薬も使えずにいる。
(私、どうしよう)
タキにはまだ、何も話せていない。
「どうしたの?顔色悪いよ」
ルークを連れて錦糸町の公園で会ったタキは、さゆに会うなりそう言って、空いているベンチを探してくれた。礼を言いながらさゆは腰を下ろす。気分が回復したので電車で出て来たのだけれど、なんだか身体の奥がまだひんやりしている気がする。九月になり、今日は日中でもそこまで暑くなっていないのが幸いだった。タキも夏でも長袖なので、暑いのは苦手だ。
「大丈夫?無理して来てくれたの?」
「ううん、大丈夫・・・」
タキに差し出された水を飲むルークを、さゆは眼を細めて眺めた。
「なんか、夏バテしちゃって・・・」
「今年も暑かったもんね」
「ルークは平気?」
「うん、今の所元気。昨日もおもちゃに夢中で、抱えたまま寝ちゃったよ」
写真見る?とタキが差し出したスマフォを眺め、さゆは微笑んだ。それを横で見て、タキはふと胸を突かれた様な表情をした。そのままのんびりと二人、雑談をした。他の人とは作り出せないような、平和で穏やかに見える時間がそこにあった。
「・・・さゆ、俺、またさゆと美術館とか行きたいな。浮世絵の展覧会がこの頃幾つか開催されているから、そのどれかにでも」
「うん、そうだね・・・」
さゆは少し心元なげに答えた。長時間立ったままだと、また具合が悪くなるかも知れない。
(どうしよう、いつ話そう・・・)
きっと、ずっと黙ってはいられない。タキと話し合って、これからどうするか決めなくてはいけない。
(でも・・・もし妊娠してるとしても、育てられないのは分かってる・・・)
精神的にも経済的にも自分達に子育ては無理だ。
「さゆ、あのさ・・・」
タキがそこで言いにくそうに口を開いて、さゆはドキリとした。
「なに?」
「さゆ、なんだか痩せたよね?生活とか大変?」
「え、あ、あ・・・うん」
胸を撫で下ろしながらさゆは曖昧に答えた。
「昔みたいな暮らしに戻れるには、まだまだ時間が掛かりそうだもんね・・・」
「うん・・・」
二人ともなんとか仕事には通えていた。さゆは派遣の仕事中に気持ち悪くなるとトイレで戻してからラインに復帰して、どうにか仕事を続けていた。
タキはこの頃、博物館や美術館で公開されているVRや無料オンラインイベントに興味を持っているようで、ルークを抱えながら、時間さえあればサイトを巡っているのだそうだ。
その後も二人はとりとめの無い談笑をした。ルークはケージの中で眠っている。かりそめの平穏の中で、さゆは何度か「さゆと話せて嬉しい」と言いながら自分に微笑みかける、かつて自分が大好きだったタキの横顔を、そっと眺めた。ここにいるけれど、ここにいない様な、全てが遠い、不思議な感覚の中にいた。ああ、この感覚を抽象画で書きたいなあと思った時、さゆはまたもやもやしてトイレに行きたくなって来た。タキとは公園で別れようと思っていたけれど、
「具合悪そうだから途中まで送らせて。新宿辺りまで。心配だから」
とタキは少し眉根を寄せた。
「いいよ、いいよ。悪いよ」
「まだ時間も早いし。送って行くよ。ね?」
そんなやりとりをしている間に、さゆはまた気持ち悪くなって来て、ベンチから立ち上がった。
「さゆ?大丈夫?」
タキが遠慮がちに肩を支えてくれる。けれどそのタキの皮膚の感覚にさゆは震える位の嫌悪感を覚えてしまって、浅い息を繰り返した。
「・・・ごめんタキ、気持ち悪い・・・」
「あ、あ、ごめんね・・・」
タキは慌ててさゆから少し離れる。
「病院行こう?」
さゆは大きく首を振った。
「いい・・・吐きそう・・・」
フラつきながらさゆは公園のトイレに駆け込んだ。中で思いっきり吐いて、しばらく呼吸を整える。なんとか立ち上がって外に出ると、タキが戸惑ったような表情でさゆの荷物を持っていた。
「ごめん・・・どこかで・・・休みたい・・・」
「タクシーで病院に行った方が良いよ。一緒に行こう?」
「・・・タキはルークもいるし・・・もう帰って大丈夫。私、どこか探すから・・・」
「でもさゆ、お金ないでしょ?都心で女性が一人で具合悪いまま座ってるの、危ないよ」
「・・・うん・・・」
「って言ってもどうしよう・・・」
タキはさゆを近くのベンチに座らせて、しばらく考え込んだ。
「・・・さゆ。本当に申し訳ないんだけど、ウチで休む?俺、他には思いつかないや。飲食店とかはきっと入らない方が良いもんね・・・」
さゆは吐き気の中で迷った。
「・・・・・・うん・・・そうする」
長い沈黙の後、もう色々考えられなくなって、さゆは頷いた。タキの部屋に入るのは恐怖だったけれど、今はどこかで横になって休みたかった。タキが駅前でタクシーを止めてくれる。二人、ゆっくりと、黒塗りの車に乗り込んだ。
(でも、私まだタキに貰った服、着れないや)
肩より少し下まで伸びた髪を、鏡の前で一つに縛りながら、さゆは今日も自分で買った黒いワイドパンツと濃紺のブラウスを選ぶ。髪はなんとなく、伸ばしたままだ。ここ数ヶ月は、スカートが履けない。さゆは、もうタキへの恋愛感情がすっかり自分自身の中から抹え失せてしまったのを感じていた。それでもタキとの縁をなんとなく切れないのは、二人の間に降り積もった二年間の思い出とか、愛着とか、寂しさとか、そういう感情からだ。きっとタキもそれを分かっていて、適度な距離を置いてさゆに接してくれる。
不意に気持ち悪さがこみあげて来て、さゆはトイレに駆け込んだ。思いっきり吐いた後、青ざめた顔でトイレに座り込んだ。
(どうしよう)
この頃、時々急に吐き気がする。生理は数ヶ月来ていない。ずっと、予感めいた、もやもやした気持ちを胸の底に抱えながら、ただただ恐ろしくて、検査薬も使えずにいる。
(私、どうしよう)
タキにはまだ、何も話せていない。
「どうしたの?顔色悪いよ」
ルークを連れて錦糸町の公園で会ったタキは、さゆに会うなりそう言って、空いているベンチを探してくれた。礼を言いながらさゆは腰を下ろす。気分が回復したので電車で出て来たのだけれど、なんだか身体の奥がまだひんやりしている気がする。九月になり、今日は日中でもそこまで暑くなっていないのが幸いだった。タキも夏でも長袖なので、暑いのは苦手だ。
「大丈夫?無理して来てくれたの?」
「ううん、大丈夫・・・」
タキに差し出された水を飲むルークを、さゆは眼を細めて眺めた。
「なんか、夏バテしちゃって・・・」
「今年も暑かったもんね」
「ルークは平気?」
「うん、今の所元気。昨日もおもちゃに夢中で、抱えたまま寝ちゃったよ」
写真見る?とタキが差し出したスマフォを眺め、さゆは微笑んだ。それを横で見て、タキはふと胸を突かれた様な表情をした。そのままのんびりと二人、雑談をした。他の人とは作り出せないような、平和で穏やかに見える時間がそこにあった。
「・・・さゆ、俺、またさゆと美術館とか行きたいな。浮世絵の展覧会がこの頃幾つか開催されているから、そのどれかにでも」
「うん、そうだね・・・」
さゆは少し心元なげに答えた。長時間立ったままだと、また具合が悪くなるかも知れない。
(どうしよう、いつ話そう・・・)
きっと、ずっと黙ってはいられない。タキと話し合って、これからどうするか決めなくてはいけない。
(でも・・・もし妊娠してるとしても、育てられないのは分かってる・・・)
精神的にも経済的にも自分達に子育ては無理だ。
「さゆ、あのさ・・・」
タキがそこで言いにくそうに口を開いて、さゆはドキリとした。
「なに?」
「さゆ、なんだか痩せたよね?生活とか大変?」
「え、あ、あ・・・うん」
胸を撫で下ろしながらさゆは曖昧に答えた。
「昔みたいな暮らしに戻れるには、まだまだ時間が掛かりそうだもんね・・・」
「うん・・・」
二人ともなんとか仕事には通えていた。さゆは派遣の仕事中に気持ち悪くなるとトイレで戻してからラインに復帰して、どうにか仕事を続けていた。
タキはこの頃、博物館や美術館で公開されているVRや無料オンラインイベントに興味を持っているようで、ルークを抱えながら、時間さえあればサイトを巡っているのだそうだ。
その後も二人はとりとめの無い談笑をした。ルークはケージの中で眠っている。かりそめの平穏の中で、さゆは何度か「さゆと話せて嬉しい」と言いながら自分に微笑みかける、かつて自分が大好きだったタキの横顔を、そっと眺めた。ここにいるけれど、ここにいない様な、全てが遠い、不思議な感覚の中にいた。ああ、この感覚を抽象画で書きたいなあと思った時、さゆはまたもやもやしてトイレに行きたくなって来た。タキとは公園で別れようと思っていたけれど、
「具合悪そうだから途中まで送らせて。新宿辺りまで。心配だから」
とタキは少し眉根を寄せた。
「いいよ、いいよ。悪いよ」
「まだ時間も早いし。送って行くよ。ね?」
そんなやりとりをしている間に、さゆはまた気持ち悪くなって来て、ベンチから立ち上がった。
「さゆ?大丈夫?」
タキが遠慮がちに肩を支えてくれる。けれどそのタキの皮膚の感覚にさゆは震える位の嫌悪感を覚えてしまって、浅い息を繰り返した。
「・・・ごめんタキ、気持ち悪い・・・」
「あ、あ、ごめんね・・・」
タキは慌ててさゆから少し離れる。
「病院行こう?」
さゆは大きく首を振った。
「いい・・・吐きそう・・・」
フラつきながらさゆは公園のトイレに駆け込んだ。中で思いっきり吐いて、しばらく呼吸を整える。なんとか立ち上がって外に出ると、タキが戸惑ったような表情でさゆの荷物を持っていた。
「ごめん・・・どこかで・・・休みたい・・・」
「タクシーで病院に行った方が良いよ。一緒に行こう?」
「・・・タキはルークもいるし・・・もう帰って大丈夫。私、どこか探すから・・・」
「でもさゆ、お金ないでしょ?都心で女性が一人で具合悪いまま座ってるの、危ないよ」
「・・・うん・・・」
「って言ってもどうしよう・・・」
タキはさゆを近くのベンチに座らせて、しばらく考え込んだ。
「・・・さゆ。本当に申し訳ないんだけど、ウチで休む?俺、他には思いつかないや。飲食店とかはきっと入らない方が良いもんね・・・」
さゆは吐き気の中で迷った。
「・・・・・・うん・・・そうする」
長い沈黙の後、もう色々考えられなくなって、さゆは頷いた。タキの部屋に入るのは恐怖だったけれど、今はどこかで横になって休みたかった。タキが駅前でタクシーを止めてくれる。二人、ゆっくりと、黒塗りの車に乗り込んだ。
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