朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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真夜中の雨

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 タキはコンビニコーヒーを片手に独り、ため息を吐いた。深夜、病院近くの公園だ。人気はない。湊は一度帰った。ずっと、なんとかさゆをこの窮地から助け出せないか、スマホでひたすら検索しているけれど、有益な情報は出て来ない。自分の母親の時に世話になった弁護士の事務所には、営業が始まったらすぐに連絡してみようと思うけれど。
(間に合わないかも知れないな)
 また日中になったら、あの両親が病院へ押しかけてくるだろう。病院側が消極的な対応をするなら、さゆを連れ去られてしまうかも知れない。
(考えろ。考えるんだ)
 スマホのLINEと電話帳をずっとスクロールして、力になってくれそうな人を探す。元々タキには、知り合いが多くない。バイト先の上司は落ち着くまで数日間休んで良いと言ってくれたけれど、それ以上何かを相談出来る雰囲気でもない。
 ひとつの名前の前で、タキは連絡しようとして、迷って止めて、また発信ボタンを押そうとする仕草を何度も何度も繰り返した。三十分近く逡巡した末に、タキは勇気を奮い起こして、通話ボタンを押した。数回の呼び出し音の後、留守電につながる。
「野分さん、深夜に本当にすみません。榎本です・・・実は、たってのお願いがあって、お電話しました・・・」
 タキの一世一代の賭けが、始まろうとしていた。

 廊下に響く自分の足音に緊張しながら、辺りを用心深く見渡して、タキは入院病棟を進んだ。大きな窓から降り注ぐ月光が、廊下の隅に暗い影を落としていた。幸い、誰とも擦れ違わない。真夜中の廊下をゆっくりゆっくり進み、さゆの病室に辿り着く。
 そおっとドアを開けると、さゆは浅い呼吸を繰り返しながら眠っていた。その寝顔を見ながら、タキは昼間の苦い記憶を呼び覚ました。
『だれ?』
 腫れ上がった片眼でタキを見たさゆは、確かにそう言った。茫然とするタキと湊を、やって来た医師と看護師はさゆから引き離した。医師の質問にも、全くさゆは要領を得なかった。恐らく実父の、別の名字を名乗り、中学校に通っていたはずとか、自分が十二歳だとか言い、ここが埼玉である事も、タキや湊の事も分からないようだった。段々錯乱してゆくさゆを看護師が宥め、なんとか眠らせた。
「記憶障害かも知れない」という医師と看護師のやりとりをタキは聞いた。
(ツラかったんだよね、さゆ)
 そっとさゆの髪を撫で、タキは枕元になけなしの五千円を置いた。
(今回の事件だけじゃなくて、ずっとツラかったんだよね)
 布団をめくった所で、点滴をどうしようかと迷い、吊り下げられているパウチをなんとか外して、さゆの病衣のポケットに入れてみた。
(ごめんね、俺が、守ってあげられなくて)
 さゆの膝の裏と肩に手を差し入れて、抱き上げた。大分軽くなった気がする。さゆはまだ眼を覚まさない。タキはそのまま足早に病室を出て、辺りを警戒しながら裏口へと進む。

(あ)
 廊下を進む途中で看護師の持つライトが見えて、タキは慌てて廊下の陰に隠れた。
(まずい)
 こちらに看護師が来たら、一貫の終わりだ。コツコツコツと、足音が近づく。腕の中のさゆを、タキは抱き締めた。もう、ここまでかも知れない。この柔らかな感触を、自分は永久に喪うのかも知れない。
(終わりか)
 ところが。近づいて来た足音は、タキのすぐ近くで急に向きを変えて遠ざかって行った。
(なんだ?)
 そのまま気を付けてタキは進んだ。入院病棟は余りにも静かだった。時々機械音が聞こえてくるだけだ。なんだか不自然過ぎるぐらいだなとタキは思う。
 まるでさゆの脱走を、黙認してくれているみたいだ。
 寿命が縮まる様な十数分を過ごし、なんとかタキはさゆを連れて裏口から外へ飛び出した。
「こっちや」
 裏口の近くには、ワンボックスカーが待ち構えていた。
「え、野分さん、すみません。お願いします」
 車と転院先の紹介をお願いしたのは確かに自分だが、まさか忙しい野分本人が来るとは思っていなかった。
「後輩のピンチやからな。まあ、店は休業状態でヒマやし」
 さゆを連れて一番後ろの座席に乗り込み、タキが膝枕して横にさせる。途中でさゆが起きたら大変だと思っていたけれど、なんとか眠ったままでいてくれた。野分が一つ前の座席から毛布を渡してくれたので、さゆにかけると、微かにみじろぎした。
「ひどい顔やな」
「そうなんです・・・結構殴られたみたいで」
「いんや、『二人とも』っていう意味やで」
 運転手は作業服を着た中年の男性だった。後方部がスモークガラスになっている車は、ゆったり入口へと向かう。タキは思わず守衛室を見て緊張したけれど、車は難なく病院の入口を突破した。そのまま、要塞の様な夜の病院はどんどん背後へ遠ざかってゆく。
「病院はな、俺の知り合いの茨城の所に話ついたから。朝霧さんはしばらくそこで養生するとええ」
 場所を聞くと、浅草からつくばエクスプレスで数十分の、駅に近い病院だった。それならなんとか通えそうだ。タキは野分に頭を下げた。電話で大体の事情を聞いていた野分は、プラプラと手を振る。
「俺はな、榎本がやっと俺を頼ってくれて、嬉しいんや。・・・ずっと浮草みたいだったお前が、ルークと出会って、朝霧さんとも出会って、今こうやって必死で朝霧さんを、自分の人生賭けて守ろうとしている。こんなに人間で変われるんやと、嬉しいんや」
「ひとまず弁護士に今日、相談してみようと思います・・・俺のアパートも引っ越さなくてはいけないので、費用が心配ですけど、なんとか」
「それがええ。暴力振るってくるような輩には、法律の笠を味方にして対抗せんと。俺も従業員の家族の問題に介入した回数は、両手の指じゃ足りひんけど、家族ってのはある意味、他人よりも厄介やで。長期戦覚悟した方が良い。ひとまず神奈川の郊外の家賃安い土地にでも二人で住んだらどうや?・・・まあ、あんまり気を張り過ぎるなよ、榎本。ここでお前が倒れたら最後やからな。出来るだけ肩肘張らんと、今日を乗り切れたら万々歳くらいの気持ちでおれよ」
「はい、ありがとうございます・・・」
 不意に、街灯の少ない真夜中の国道に、パラパラと叩きつける様な雨が降り出した。車の赤とオレンジのライトが、フロントガラスに幾つも滲んでいる。それを眺め、また眠るさゆの髪を撫でながら、ひとまず、緊急事態は脱したけれど、不安定な社会情勢の中で、これから自分達を待ち受ける困難に、タキは暗澹たる気持ちで、下唇を噛んだ。
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