朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

文字の大きさ
45 / 68

新しいひび

しおりを挟む
 院長らから丁重に見送りをされたさゆとタキは、やっとの思いで駅までの道を歩いた。
「ゆっくり、ゆっくりで良いからね」
 片手で荷物を持ち、もう片方の手をタキは、さゆの背に軽く添える。長く続く枝ばかりの街路樹が、木枯らしに吹かれて揺れている。重く垂れてきそうな、圧迫感のある曇り空。冷たい冬の空気と、師走のせわしない街の様子に、さゆは圧倒されたようで、眼を丸くしている。さゆにとっては、何もかもが「初めて」の光景だ。
「途中で休憩しながら行こう」
 さゆのマフラーを巻き直してあげながら、タキは声を掛ける。ここ茨城から北千住駅、東京駅、大船駅と三回も電車を乗り換えて、鎌倉の新しい家まで向かわなくてはいけない。さゆは若干震えながら必死に頷いている。本当はレンタカーにしたかったけれど、厳しい予算を考えて、少しでも安上がりな電車にした。
「俺が付いてるから、ね?」
 繰り返し励ましながら、迷った末にタキは、さゆとゆるく手を繋いだ。これからは、こんな困難をひとつひとつ、二人で乗り越えて行かなくてはいけない。さゆは赤くなって身体を強張らせながら、また頷いた。

「タキ・・・ごめん、気持ち悪い」
 午後の昼下がりに出発したので、電車内はさほど混んでいなかったけれど、都心に近づくにつれて人は増え、賑やかな雰囲気や絶え間ないアナウンスと電車の機械音が合わさって、さゆは眼が周りそうだった。東京駅で遂に、見渡す限りの人に囲まれて、吐きそうになった。
「お手洗い行こうか、ね?」
「うん・・・・」
 浅い息を繰り返して震えるさゆは、一度頷いたけれど、そのままフラフラと壁際に近づき、座り込んでしまう。手足がピリピリと痺れる感じがする。
(過呼吸かな・・・)
 タキはさゆの背を撫でながら、「息を押し殺してみると楽になるかもね」とアドバイスする。しばらくして、さゆが荒くなっていた息をなんとか整えると、白っぽかった視界と冷たくなった体温が段々戻って来た。
「ご、ごめん、ね、タキ・・・」
「いいって」
「タキ、あ、あの、ね・・・」
「ん?」
「お、男のひと、気持ち悪い、みたい。タキは大丈夫だけど、他の男のひと、みんな、気持ち悪く、感じる・・・。病院にいた時も、そうだったけど、ずっと、言えなかった」
 タキは思わず、黙り込んだ。そのまま、さゆが立てるようになるまで、東京駅の片隅で二人、小さく小さく丸まっていた。

 結局なけなしの金をはたいて、東京駅から鎌倉駅まではグリーン車の切符を買った。さゆは、
「なんだかお腹がモヤモヤする」
 と訴えて、タキに寄り掛かって必死に耐えていた。自分の上着も彼女に掛けてやりながら、なんとか夕方まで掛かって、二人は鎌倉まで辿り着いた。
「ただいまー、ルーク」
 タキが電気を点けながらそう呼びかけると、ルークはトコトコとしっぽを振りながらやって来る。さゆが来たのにびっくりして、二人を交互に見つめた。
「ルーク、今日からはまたさゆが一緒だからね」
「こんばんは、ルーク」
 ぎこちなくさゆがかがんで挨拶すると、ルークは「ニャオ」と一声鳴いた。
「さゆ、さゆの部屋に布団あるから、そこでちょっと休むと良いよ」
「うん、ありがとう」
 手洗いうがいとファブリーズもすると、さゆは案内された段ボールだらけの部屋で一旦休んだ。不安感と高揚感が身体中を包んで、全く眠くならなかった。今日一日で見たものが、余りに多過ぎた。布団で浅い息を繰り返していると、ルークが入って来て、前触れなしでさゆの顔にお尻をくっ付けて眠り始めた。
「うっぷ・・・ふふ」
 その規則正しい寝息を聞きながら、
(ルークは私の事、覚えているのかもしれない)
とふっとさゆは思った。
「さゆ、ご飯作ってみたけど、食べれそう?」
 七時を過ぎた頃、ドアを開け、逆光の中でタキがそう呟いた。頷いてさゆは起きる。
「あ、あ、ありがとう」
 夕飯はチーズリゾットだった。
「体調、大丈夫?」
「うん・・・ひとがいない場所だと、大分平気になるみたい」
 昼間の不調が嘘のようだった。吐き気も腹痛もない。お礼を言って食べながら、ふとタキを見ると、サラダのみだ。
「タキも、具合悪いの?」
「いいや・・・・俺、言って無かったけど、実は軽く腎臓の病気があって、食べられるものが決まってるんだ。でも、あまり気にしないで、さゆは好きなものを食べて欲しいな。俺は元々食にはあんまり執着がないから」
「あ、あ、そうなんだ・・・」
 この話をさゆにしたのは、本当は何年前かなとタキはふと思い出した。そうだ、もう二年ほど前、初めてデートした新宿御苑だ。さゆの反応も、その時とほぼ一緒で、思わずタキは苦笑する。
 少し変わってしまったけれど、少し脆くなってしまったかも知れないけれど、それでも自分と今日から一緒に暮らし始めるのは、やっぱり「さゆ」なんだな、と。
「え、え、え、なあに?」
「ううん・・・・俺、さゆとまた暮らせて、本当に幸せだなと、思って」
 タキは一言一言噛み締めるようにそう言って、俯いて軽く、唇を噛んだ。
「・・・・・わ、わ、わたしも」
 さゆは真っ赤になって、下を向いてリゾットを食べた。完食すると、タキの分も合わせて食器を洗った。自分に関しての記憶は全くないのに、こういう家事は教わらなくても出来るのは、さゆ自身も不思議だ。
 その間に、タキがバスタブにお湯を張ってくれる。
「さゆ、お湯が一杯になったら、先にお風呂入って、ね」
「あ、う、うん」
 お風呂、というワードに、なんだかドキッとした。
「上がったら、今日はもう眠ろう。・・・さゆの部屋、鍵も掛かるから」
「う、うん・・・」
 さゆは頷いて、そそくさと手早く風呂に入った。改めて、ここでタキやルークとこれから暮らすのだ、という事実がリアルにのしかかって来て、今さらながら緊張して来た。
(タキと同棲するとか、私全然現実的に考えて無かった)
 湯船に首まで浸かって、上せそうになりながら出る。
「あ、ドライヤーそこに置いといたからね。それじゃ、ゆっくり休んでね」
 タキはそう言うと、脱衣所に消えていった。さゆは髪を乾かすと、いそいそと布団に潜り込んだ。
 鍵は、掛けなくても良い気がした。昼間の、タキの柔らかな手の感触を思い出した。
 眼を閉じても、なかなか眠れない。不意に、キイという音がして、ドアに眼をやると、ルークがトットッとまたやって来る音だった。
「ルーク、一緒に寝る?」
 ルークは布団に入ると、さゆの胸元に丸まった。ルークを撫でながら、そのあたたかい体温を感じて、ようやくさゆは少しづつ、緊張がほぐれ、眠りの渦に絡めとられていった。

 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

処理中です...