朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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穏やかな冬のはじまり

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秋バラがそよ風に揺れている。和洋折衷の美しい建物を背景にして。少しづつ寒さを増してゆく鎌倉の風を存分に全身に受けて、ジーンズ姿のさゆは、クルクルと駒のように舞った。
「行こう、タキ!」
 二人は軽やかな足取りで、江ノ電の駅へ向かった。

 極楽寺近くでトンネルから出てくる江ノ電を撮影すると、小さなリュックを背負ったさゆは住宅街へと意気揚々と進み、月影地蔵を過ぎて、山の中にある階段を上り始めた。さゆは山に近づくと以前は「心がザワザワする」と避けていたけれど、今はタキがいれば段々平気になって来たらしい。紅葉し始めた山道を、ふたり話しながら歩く。遠く、稲村ガ崎の海を眺め、切通を歩き、山道と砂利道を進んで、鎌倉山神社へ到る。富士山の蒼く、勇壮な姿が遠くに見える。さゆのペースはゆっくりになって来たけれど、しっかり一人で歩いている。
(長くて短い1年だったな)
 激動の一年が過ぎ、遂に十一月だ。個展は無事に終わり、少しだけれど収益も出た。湊も髪を隠してお忍びで行ってくれたらしく、LINEで写真が送られて来た。
 さゆは古本屋でも働き始め、そちらが好調だ。貸し棚が貸しスペースに広がり、イベントの手伝いや軽食の提供もしている。これまでより多くの人と関わったり、電車での移動をタキは心配していたけれど、さゆは頑張ってなんとかこなしている。
(ずっとこのまま、さゆの両親に見つからずに暮らせたらな)
 依然警戒はしているけれど、今の所その影は微塵もない。
 そんな事を思いながら、鎌倉山を登り始めた所で、中年の夫婦と行き違った。タキは白いマスク姿で軽く礼をしたけれど、女性の方がタキをじろじろ見ている気がして、タキは内心焦った。さゆも視線に気付いて、「行こう」とタキの手を引いて、山をずんずん登ってゆく。
 しばらく歩いて、人気の無い東屋に来た所で休憩にした。今日はフルーツサンドだ。さゆは、
「ね、昔どこかの駅で、タキとフルーツサンド食べたよね」
 と言いながら、マスクをずらして笑顔で頬張る。
「いちごとパイナップルだったね、あの時は」
 あれはどこの駅だったか、とタキも思い返しながらふと、
(俺だけなんだな、今は。さゆのマスクなしの素顔を見られるのは)
 とふっと思う。さゆはリラックスした様子で、人気のない秋の鎌倉山の紅葉をスケッチし始めた。タキは、ルークの動画を眺めている。
 鎌倉の森の澄んだ空気の中で、遠く静かに、海が光っていた。

「こら、ルーク、テレビ画面叩いちゃだめだよ」
 この頃タキがテレビに、youtubeで見つけた猫の動画を流すと、ルークはしっぽを振りながら凝視している。夕方に二人は帰宅し、早々に風呂も済ませ、かぼちゃスープの夕食にした。二人で片付けをすると、さゆはまた、昼間の下絵の続きに取り掛かる。
「葉っぱが難しいの。どこまで描き込もうかなって」
「いや、すごく味わい深く描けてるよ。『どこかの森』じゃないんだよね。千年の歴史のある、『鎌倉の森』って感じがする」
 さゆは昼間から何時間も、木の葉を描いている。よくそんなに飽きないなと思う。床に座り込んで熱心に描き続けるさゆを、タキは後ろから抱き締めた。
「ふふふふふ」
 さゆは微笑んで、そのまま鉛筆を走らせる。タキはテレビに夢中なルークを眺めながら、古本屋の事務作業に取り掛かる。ふっとさゆが振り返ったので、そのまま自然にキスをした。さゆは色鉛筆を数本だけ持って来て、着色し始める。
(いや、最高だな)
 腕の中にさゆの、あたたかい存在を感じる。さゆは鼻歌交じりで上機嫌だ。何色も緑と赤と茶色を塗り重ねて、ひとつひとつの葉に、生命が吹き込まれてゆく。
「私が描くものは永遠だよね。永遠だといいな」
 不意に、なんの脈絡もなくさゆが言った。絵に眼を落としたまま。
「百貨店に絵が飾られる作家なんてそうそういないよ。きっとどこかで、さゆの絵はずっと、誰かに見て貰えるはずだよ」
 百貨店は時短で営業を再開している旨が、少し前にメールで来ていた。安全を考慮して、様子は見に行っていないけれど、さゆの絵は今も、飾られているはずだ。youtubeも更新はしないが、閉鎖もしていない。
 うん、と曖昧な表情でさゆは頷いた。そのままふたり、また軽いキスをした。さゆの心に何が引っ掛かっているのかは、タキには分からなかった。それでも。
「タキ、私、幸せだな」
「俺も」
 二人は噛み締めるように呟く。さゆはタキに寄り掛かった。
 もう、いつタキに抱かれても良いと、思っていた。不意に、
「あ」
 とさゆは呟いて、トイレに立った。何だかお腹が、少し締め付けられるように痛い。下着を見ると、うっすら血が付いていた。
(生理だ)
 いつぶりなのか、嬉しいのか戸惑っているのかも、さゆには分からない。遂にここまで、体調が回復して来たのだ。
 家の中だけは穏やかさに包まれたまま、ゆっくりと、冬が来ようとしていた。
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