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第十七話 アール・スレイターという男
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あああ……
ううう……あああ……
まだ小鳥も覚めやらぬ早朝、亡者のうめき声で目が覚めた。
まだ暗い中、眼を開くと、五十代ほどに見える赤毛の男が枕元に立ち、俺を見下ろしている。
サイドテーブルに置いた聖水の瓶の蓋を開け、中の水を手に取り、方角を見て南に向かって、少し撒く。
「ほら、あっちだ。向こうに行け」
男は少し戸惑う動作を見せたが、やがて零れた水滴が差す方に向かって、よろよろ歩いて消えていった。
これであの世の入り口まで辿り着くだろう。
「これだから、田舎の安宿は……」
ここはスノーベルン国の城下町、その片隅にある、ひなびた宿屋の一室。
悪魔祓い師、アール・スレイタ―は、聖水の瓶を再びテーブルに戻し、寝台に戻ると頭まで毛布をかぶった。
***
完全に夜が明けきって、街が動き出す時刻。
すっかり寝入っていたアールは、宿屋の女将に起こされた。
「お客さん、起きてくださいな。もう朝も朝、いい時間ですよ。朝食はどうします? 一応一人分残してありますけど」
「ああ、分かった。今、起きる。飯はいい、カフェで食う。それより、女将。この部屋、赤毛のおっさんが出るだろう?」
しまった、という顔をした女将は、眉と声をひそめる。
「あっ……出ました? 見えそうな人には貸さないんですけどねえ。お客さん、見える人でしたか。これはまた……」
「あの男はもう出ないぞ。あの世に行った」
「えっ!? えっ? そんな……本当ですか? お客さん、人をからかっちゃダメですよ?
アレは悪さこそしませんが、ずっと昔からこの部屋に居ついてて、今まで何人もの神父様にお願いして誰も追い払えなかったんですから」
女将は素っ頓狂な声を上げたが、アールは心底面倒臭そうに答えた。
「信じなければ、それで結構。着替えるから出て行ってくれ」
起き上がった彼は上半身裸で、女将は「こりゃまた失礼を」と、そそくさと出て行った。
***
宿を出たアールは、近くのオープンカフェで薄いコーヒーを飲みながら、自らの手帳を繰る。
手帳に挟んでいた教会からの除霊依頼書を取り出すと、もう一度、隅から隅まで読み返した。
「まずは調べ物からだな……」
午後になり、アールは、国立貴族図書館を訪れていた。彼は書籍ではなく、新聞のバックナンバーを探した。
「シェアリア事件、これか……」
先月上旬の日付の新聞を、まとめて手に取る。その事件は、何日も大きく一面を飾っていた。
「俺が悪魔祓いで隣国に招かれていた時期か……長期に渡って、ずいぶん大きく報道されているな」
旧スレア伯爵家で、当主とその愛人が夫人に保険金を掛け、殺害未遂。愛人には前当主が薬漬けにされ廃人となり、使用人三人が殺害され、夫人の治療に当たった医師が行方不明……か、なるほど。
裁判の経過も記載されていて、フラン子爵には罰金刑とマリーゼ夫人への接近禁止令が出されていた。
これを見落とすとは、教会もたるんでいる。帰国したら苦情を入れよう。
昨日、訊かれた『ライナス・ハンター』という医師……
そんな名前の人物は知らない。
だが、俺に容姿がそっくりで、医学を志した男なら知っている。
ラッシュ・スレイター。
同い年の、腹違いの兄だ。
海を渡った帝国の筆頭公爵、スレイター家の正妻の息子で、嫡男だった。
俺のようなメイドの息子とは違う、サラブレッド。
半分しか血が繋がっていないのに二人とも父親似で、ラッシュが黒、俺が朱色の瞳の色以外はそっくりだ。
中身は対照的だが。
あいつは真面目で優秀で清廉潔白な、誰からも信頼される男。だが……優し過ぎた。
人を助けることを良しとし、政治よりも医学を志し、親の反対を押し切って家を出てしまった。
その後は便りも途絶えていたが、まさか、こんなところで偽名を使って医者をしていたのか?
しかも現在、行方不明とは……
ラッシュがいなくなった後、スレイター家の領地経営の仕事を俺が一部引き継いだが、父親と義母は兄がいつか戻るのを待っている。俺はただの代理、身代わりでしかない。
もしも、ハンターという医師が本当に兄ならば、その行方を、そして生死を確かめる必要がある。
手掛かりは……
何気に、昨日会った女を思い出した。幽霊屋敷に何食わぬ顔で暮らす女。流れるような艶やかな銀髪に、紫紺の瞳。線が細く気弱そうに見えて、その眼差しには確固たる意志の強さが垣間見えた。彼女に会えば、兄の居場所を探す糸口が見つかるかもしれない。
俺は司書に声を掛け、『シェアリア事件』の総括記事が載った新聞を借りると、図書館を後にした。
ううう……あああ……
まだ小鳥も覚めやらぬ早朝、亡者のうめき声で目が覚めた。
まだ暗い中、眼を開くと、五十代ほどに見える赤毛の男が枕元に立ち、俺を見下ろしている。
サイドテーブルに置いた聖水の瓶の蓋を開け、中の水を手に取り、方角を見て南に向かって、少し撒く。
「ほら、あっちだ。向こうに行け」
男は少し戸惑う動作を見せたが、やがて零れた水滴が差す方に向かって、よろよろ歩いて消えていった。
これであの世の入り口まで辿り着くだろう。
「これだから、田舎の安宿は……」
ここはスノーベルン国の城下町、その片隅にある、ひなびた宿屋の一室。
悪魔祓い師、アール・スレイタ―は、聖水の瓶を再びテーブルに戻し、寝台に戻ると頭まで毛布をかぶった。
***
完全に夜が明けきって、街が動き出す時刻。
すっかり寝入っていたアールは、宿屋の女将に起こされた。
「お客さん、起きてくださいな。もう朝も朝、いい時間ですよ。朝食はどうします? 一応一人分残してありますけど」
「ああ、分かった。今、起きる。飯はいい、カフェで食う。それより、女将。この部屋、赤毛のおっさんが出るだろう?」
しまった、という顔をした女将は、眉と声をひそめる。
「あっ……出ました? 見えそうな人には貸さないんですけどねえ。お客さん、見える人でしたか。これはまた……」
「あの男はもう出ないぞ。あの世に行った」
「えっ!? えっ? そんな……本当ですか? お客さん、人をからかっちゃダメですよ?
アレは悪さこそしませんが、ずっと昔からこの部屋に居ついてて、今まで何人もの神父様にお願いして誰も追い払えなかったんですから」
女将は素っ頓狂な声を上げたが、アールは心底面倒臭そうに答えた。
「信じなければ、それで結構。着替えるから出て行ってくれ」
起き上がった彼は上半身裸で、女将は「こりゃまた失礼を」と、そそくさと出て行った。
***
宿を出たアールは、近くのオープンカフェで薄いコーヒーを飲みながら、自らの手帳を繰る。
手帳に挟んでいた教会からの除霊依頼書を取り出すと、もう一度、隅から隅まで読み返した。
「まずは調べ物からだな……」
午後になり、アールは、国立貴族図書館を訪れていた。彼は書籍ではなく、新聞のバックナンバーを探した。
「シェアリア事件、これか……」
先月上旬の日付の新聞を、まとめて手に取る。その事件は、何日も大きく一面を飾っていた。
「俺が悪魔祓いで隣国に招かれていた時期か……長期に渡って、ずいぶん大きく報道されているな」
旧スレア伯爵家で、当主とその愛人が夫人に保険金を掛け、殺害未遂。愛人には前当主が薬漬けにされ廃人となり、使用人三人が殺害され、夫人の治療に当たった医師が行方不明……か、なるほど。
裁判の経過も記載されていて、フラン子爵には罰金刑とマリーゼ夫人への接近禁止令が出されていた。
これを見落とすとは、教会もたるんでいる。帰国したら苦情を入れよう。
昨日、訊かれた『ライナス・ハンター』という医師……
そんな名前の人物は知らない。
だが、俺に容姿がそっくりで、医学を志した男なら知っている。
ラッシュ・スレイター。
同い年の、腹違いの兄だ。
海を渡った帝国の筆頭公爵、スレイター家の正妻の息子で、嫡男だった。
俺のようなメイドの息子とは違う、サラブレッド。
半分しか血が繋がっていないのに二人とも父親似で、ラッシュが黒、俺が朱色の瞳の色以外はそっくりだ。
中身は対照的だが。
あいつは真面目で優秀で清廉潔白な、誰からも信頼される男。だが……優し過ぎた。
人を助けることを良しとし、政治よりも医学を志し、親の反対を押し切って家を出てしまった。
その後は便りも途絶えていたが、まさか、こんなところで偽名を使って医者をしていたのか?
しかも現在、行方不明とは……
ラッシュがいなくなった後、スレイター家の領地経営の仕事を俺が一部引き継いだが、父親と義母は兄がいつか戻るのを待っている。俺はただの代理、身代わりでしかない。
もしも、ハンターという医師が本当に兄ならば、その行方を、そして生死を確かめる必要がある。
手掛かりは……
何気に、昨日会った女を思い出した。幽霊屋敷に何食わぬ顔で暮らす女。流れるような艶やかな銀髪に、紫紺の瞳。線が細く気弱そうに見えて、その眼差しには確固たる意志の強さが垣間見えた。彼女に会えば、兄の居場所を探す糸口が見つかるかもしれない。
俺は司書に声を掛け、『シェアリア事件』の総括記事が載った新聞を借りると、図書館を後にした。
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