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「アディ、帰るわよ。ほら、こちらにおいで」

 ヴァレリオの腕の中にいるアディは、リーナが手を差し伸べるのを見てもそっぽを向いたままだ。ルーチェはアディの気持ちがよくわかるため、もどかしい気持ちになる。

「アディ、ご迷惑をおかけするものではないわ」
「いえ、アデリーナ様。俺は迷惑だとは思っていないので、しばらくこちらにいても」
「手当をしていただいたこと、感謝いたします。しかし、もう日が暮れるものですから」

 久々に想い人に会ったというのに、ヴァレリオも何だか複雑そうな表情を浮かべているのにルーチェは気づく。今、目の前にいるのは本物のアデリーナではなく、フィオリーノだ。ヴァレリオはそれに気づいたのだろうか。

「そうですか。香茶でもと思ったのですが」
「侯爵家にこれ以上の迷惑をかけるわけにはまいりません。さあ、アディ、帰りましょう」

 なかなか戻ってこようとしないアディに苛立つリーナは、助けを求めるようにルーチェを見つめた。ルーチェはヴァレリオの腕に抱かれるアディの頭を撫でる。

「アディ、ここは居心地がいいんだね?」
「……ナァ」
「でも、ずっとはいられないと知っているよね? 今日は帰ろう。また連れてきてあげるから」
「……ナーア」

 アディはヴァレリオの胸に頭を擦りつける。離れがたい様子だ。

「アディ、じゃあ今日は伯爵家に泊まろうか。王宮には戻らない。いいよね、リーナ」
「……好きにすればいいわ」

 リーナの返答を聞いて、アディは渋々といった表情でルーチェの腕に移る。打ち身だと診断されたため、アディの動作がゆっくりになるのは仕方がない。ヴァレリオは名残惜しそうにアディを見下ろす。

「ヴァレリオ、ありがとう。またアディを連れてきてもいいかな?」
「もちろん。俺も母も猫が好きだからな。それより、ルーチェ」

 声を潜め、ヴァレリオがルーチェに問う。

「あの方が、アデリーナ様か?」
「そうだよ」
「そうか……アリーチェの結婚式のときにも思ったが、昔と比べると随分と印象が変わったな。俺はずっと睨まれているんだが、なぜだろう?」
「あぁ、それはたぶん……私に変な虫がつかないように見張っているからじゃないかな?」

 ――妬いているからだよ、とは言えないよなぁ。

 ヴァレリオは首を傾げながらも、愛想よくリーナに話しかけている。その姿を、アディはむっすりとした表情で眺めているのだった。



「ありがとう、ルーチェ。寝間着まで貸してくださって」

 ルーチェの寝間着を着たアデリーナが、腹を擦りながらソファに座る。どうやら打ち身は人間の体にも現れるらしい。その後ろに立ち、ルーチェは浴巾タオルを持って、湯から上がったばかりのアデリーナの金色の髪を優しく拭き始める。

 コレモンテ伯爵家に向かう馬車の中で、リーナはフィオに、アディはアデリーナに戻った。ディーノからアデリーナ用の衣服を受け取り、狭い馬車の中で着替えをしたのだが、フィオはリーナの衣服のままじっとアデリーナを睨んでいた。アデリーナも無言で着替えるだけだった。
 そうして、兄妹喧嘩はおさまらないままに、アデリーナだけが伯爵家に泊まることになったのだ。

「……男って、鈍感ね」
「そうだね」
「どうして気づいてくれないのかしら」
「鈍感だから言わないと気づかないんだよ」

 ハァと溜め息をつくアデリーナ。日中は女の姿になっているとは言え、フィオの本質は男だ。乙女心はわからない。また、筋肉馬鹿のヴァレリオは、最も女心から遠い存在だと言える。
「言葉にしないとわからない……」とアデリーナは呟く。

「心配かけてごめんなさい、ルーチェ」
「うん。心配した。でも、アデリーナに大きな怪我がなくてよかったよ」
「ルーチェが剣術を習っていたことをすっかり忘れていたから、わたくし、あなたがあの馬鹿を殺してしまうのではないかとドキドキしてしまったわ」
「ふふ。脅しただけだよ。一つくらい、潰してやってもよかったかもしれないけれど」

 どうやら、塀の外へ逃げる際にトーニオとの乱闘を見られていたらしい。「だったら逃げなくてもよかったのに」とアデリーナを責めることはない。彼女は彼女で必死だったのだ。

「……ヴァレリオが猫好きでよかったね」
「よくないわ。猫が好きでも、猫と結婚なんてしたくないものでしょう」
「そうかな? 私はフィオが男でも女でも構わないけれど」
「お兄様は人間だもの。獣ではないんだもの」

 ルーチェは後悔する。フィオにとっては「呪い」であり、アデリーナとジラルドにとってはただの「魔法」でしかないと思っていたが、あれは間違いだったのだ。
 これは「呪い」だ。三兄妹にとっては、等しく「呪い」でしかないのだ。

「想いが成就できないのであれば、猫のままでいい、ということなんだね?」
「……ええ、そう。わたくしは人並みの幸福を諦めているの。お兄様だけよ、諦めていなかったのは」
「ヴァレリオは、それでも諦めないと思うよ。彼はまだアデリーナのことが好きなんだ」

 アデリーナの頬が少し染まる。ルーチェは時折ブラシをかけながら、水分を浴巾タオルで吸っていく。

「アデリーナも、ヴァレリオのことが好きなんだろう?」
「そっ」

 続く言葉はない。アデリーナは溜め息をつく。

「……ルーチェには気づかれてしまったのに、どうして男たちにはわからないのかしら」
「うーん……言葉かな」
「やっぱり言葉なのね。言わなければ伝わらないなんて、男って本当に馬鹿なんだから」

 それでも、アデリーナは自分の気持ちを伝えようとするだろう。ルーチェはそんなふうに思う。

「ヴァレリオの結婚の話は、結局どうなったんだろう?」
「そうね……大臣に聞くことができればいいのだけれど」
「今は陛下がいらっしゃらないから、難しいかもしれないね。明日、ヴァレリオ本人に聞きに行ってみようか?」

 アデリーナは力なく首を左右に振る。
 想い合っているのに、「呪い」が邪魔をする。緋色の魔獣は国王へ復讐したかったのだろう。国王の子どもたちにとってはかなり有効な復讐方法だったみたいだ。

「わたくし、お兄様が羨ましいわ」
「どうして?」
「だって、ルーチェみたいに、理解のある人と結婚できるのよ? わたくしたちのことを気味悪く思わない人がいるなんて……そんな人と出会うことができるだなんて、奇跡なの。本当に、お兄様が羨ましい」

 ――奇跡、ではないんだよなぁ。

 多少驚きはしたものの、ルーチェがフィオとリーナを受け入れられたのは、二人からの好意や愛情を信じられたからに他ならない。それは、奇跡でも何でもないことだとルーチェは知っている。

「違うよ、アデリーナ。奇跡なんかじゃないんだ」

 ルーチェは穏やかな笑みを浮かべながら、ぽんぽんと髪を浴巾タオルで挟んで叩く。

「奇跡じゃなくて、フィオの努力なんだよ」
「……お兄様の、努力」
「うん。私がフィオを受け入れられたのは、好きになったのは、彼の行動や言葉を信じられたからだよ。信頼関係を築こうと、フィオが努力してくれたからだよ。それは奇跡じゃないよね。フィオの努力が実を結んだからだと、私は思ってる」
「……そう、ね」
「だから、アデリーナがヴァレリオと幸せになりたいのなら、思い切って何か行動してみたらいいんじゃないかな」

 アデリーナは「努力、行動」と呟いたのち、ガバとルーチェのほうを振り向いた。

「ルーチェ、紙とペンを用意してくださる?」
「もちろん、喜んで」

 やる気に満ちたアデリーナを見下ろし、ルーチェは微笑むのだった。


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