【R18】サキュバスちゃんの純情

千咲

文字の大きさ
59 / 75

59.黒白の告白(八)

しおりを挟む
 鮭とほうれん草のお粥、シラス入りのだし巻きと大根のスープを作り、寝室からゼリーの容器とコップを引き取って台所を片付けたところで、帰る予定だった。
 書き置きを残し、帰る支度をして、最後にもう一回だけ先生の顔を見に寝室へ入った。

 薄暗い寝室のベッドの上で、湯川先生は眠っている。呼吸はだいぶ穏やかになってきている気がする。ちゃんとご飯を食べて、栄養をつけてくれるといいんだけど。
 ふと、サイドボードの写真立てを見てぎょっとした。中に入っていたのは、村上叡心の描いた裸婦像のポストカードだったのだ。箱根で見た、縁側に横たわる私の姿。綺麗な一枚だ。
 このポストカードは、いつ買ったものだろう。薄暗くてはっきりとはわからないけれど、少し色褪せているような気がする。まさか、高校生のときに買ったものだろうか。
 先生は、こんなものを大事に大事に持っていてくれたのか。何年も、十何年も。

 先生は、私のことが好きですか?
 こんな愚かな女でも、まだ、好きだと思ってくれますか?
 結婚するときに、ポストカードは持っていってくれますか? 飾ってくれますか?
 ……私のことを、忘れないでいてくれますか?

 ダメだなぁ。
 涙が溢れてきてしまう。先生の顔が滲んでよく見えない。
 いつの間に、こんなに好きになっていたのか。別れを惜しむくらいの情を、いつの間に抱いていたのか。

「……せんせ、好き」

 零れた言葉が届かないことくらいはわかっている。わかっているのに、溢れてしまう。
 掛け布団からはみ出た左手を直そうとして、そのまま握る。熱くはなく暖かい。ゴツゴツしているけど、変なタコができているけど、長くて繊細な指が好きだった。

「好きだったよ、望」

 額に、頬に、マスク越しの唇にそれぞれキスをして、離れようとしたときだ。ぐいと手を引かれ、バランスを崩して先生の上に乗ってしまい、さらに顔をしたたかにシーツにぶつけてしまう。
 うぅ、痛い。痛いです、湯川先生。

「……そば、に」

 寝ぼけた先生が無意識のうちに手を引いたのだろう。体の上に乗られたというのに、先生が目を覚ました様子はない。手はがっちりと握られており、解けそうもない。眠っているのに、なんて力。
 ……まぁ、不可抗力、だよね。
 いい、よね、最後くらい。

 いそいそと掛け布団の中に潜り込み、先生の隣に寝転ぶ。熱のある先生は暖かい。暖かいのは、好き。
 ぎゅうと抱きついて、先生の熱を堪能する。香水の匂いはもうしない。そう、消えてしまえばいい。他の女の痕跡なんて、必要ない。

「望、好きだよ……大好き」

 ……あ、ダメだ。眠くなってきた。昨夜遅くまでケントくんの相手をしていたから、かなり疲れていたんだった。

「……あいしてる……」

 湯川先生はまだセフレだけど、聞こえていないなら、言ってもいいよね。翔吾くんには黙っていよう。
 これが最後だから。
 少しくらい、触れ合っても、いいよね。
 最後に、するから。もう少しだけ、このままでいさせて……。
 好きな人の隣で、眠らせて……。


◆◇◆◇◆


 ザアア、という水の音に気づいて目を開けると、目の前で眠っているはずの湯川先生がいなかった。ベッドには、寝室には、私しかいなかった。

「せんせ!?」

 慌ててベッドから降りてリビングへ向かうと、あたりはすっかり薄暗くなっている。時計を確認して愕然とする。十七時……かなり寝てしまっていたらしい。寝過ごしてしまった。
 しかも、窓の外は一面灰色の世界。雨だ。しまった。傘を持ってきていないのに。
 ガチャン、とどこかで音がした。奥から音が聞こえるドアを開けてみると、脱衣所。バスタオルで体を拭いている先生と目が合い、「うわっ」と声を上げられる。
 あの、裸は見慣れているので、バスタオルで隠さなくてもいいです。女子高生か。

「あかりのえっち!」
「だって、先生がいないから!」
「あ、ごめん、探した? 寂しかった? あかりはかわいいなぁ」

 明るく笑う湯川先生。しんどそうな気配はそこまで感じられない。

「大丈夫なの?」
「うん、熱も下がった。よく寝たからかな、調子はいいよ。あ、お腹空いたから、ご飯食べたいな」
「……準備する」
「うん、ありがとう」

 シャワーを浴びることができるくらいまで回復したなら、良かった。食欲があるなら、良かった。
 お粥とスープを温めながら、ホッとする。本当に、良かった。
 ただ、寝過ごしてしまったせいで、私が帰るタイミングをかなり外してしまった。困ったなぁ。別れ話、あんまりしたくないんだけどなぁ。

「あー、いい匂い! 何? 何作ったの?」
「お粥とスープとだし巻きだよ」
「すごいな! あかりはいい奥さんになれるなぁ!」

 パジャマではなく、Tシャツにジャージ姿で現れた先生に、さらにホッとする。あのパジャマは着てもらいたくなかったから。
 ……私、意外と独占欲強かったみたいだ。

「あかり」
「ん」

 後ろから抱きすくめられて、ドキドキしてしまう。耳の後ろあたりにキスをされ、ペロリと舐められると、ゾクリと背中が粟立つ。

「せんせ、ダメ」
「なんで? 熱が危ないから? 吹きこぼれちゃう? それとも」

 体のラインを優しく撫でられる。壊れ物に触れるように、優しく。

「俺が結婚するって思い込んでいるから?」
「!?」

 ぐいと顔を先生のほうに向けられ、唇を塞がれる。先生にしては乱暴なキス。すぐに舌を挿れられ、口内を犯される。

「んんんっ!」

 パチンとIHの電源を切られて、せっかく温めていたのに、と非難の視線を向けようとして、やめた。先生の目が、とても穏やかで優しかったからだ。

「ごめん、いろいろと心配かけて。でも、熱は引いたし、結婚するつもりもないから、安心して」
「……ほんと?」
「本当」

 湯川先生にぎゅうと抱きついて、キスを求める。応じてくれる唇と舌は、優しい。

「その代わり、就職活動しないといけなくなったけど」
「病院、辞めるの?」
「ま、病院長の娘との縁談を断るってことは、そういうことだよ。病院にはいられないからね」

 先生は、お父様を超えたいんじゃなかったの? 縁談さえうまくいけば、地位も名誉も、手に入れることができたはずなのに。

「朝、来ていた女の人が、病院長の娘さん?」
「そう。あぁ、すれ違ったんだね。参ったよ、こんな状態なのに押しかけられちゃって。もちろん、きちんとお断りして、帰ってもらったよ」
「なん、で?」

 ぐ、と体重がかけられ、その場に倒れ込む。マットの上で押し倒され、湯川先生だけを視界に映す。

「なんで、って……俺が結婚したいのは、あかりだけだからね」
「……ほんと?」
「嘘ついてどうするの。セフレだとわかっているけど、願うことは自由でしょ。俺は諦めていないから。十年たっても諦めないから」

 諦めない、って聞こえた。それは聞き間違いではない? 本当に?
 私は諦めようとしたのに、先生は。

「フラれる、と、思っ」
「あかりはそう思っていたみたいだけどね」
「……あ!」
「手紙だけ置いてサヨナラは、傷つくなぁ、俺」

 帰る前に、テーブルの上に短い書き置きを残しておいたのだ。面と向かってさようならを言えないくらい、落ち込んでいたから。

「ごめ、なさ……卑怯、だった」
「いいよ。不安にさせた俺も悪い。水森のせいでもあるけど。ごめん、あかり」

 思わず、体を起こして湯川先生を抱きしめる。熱い体を抱きしめる。
 やっと、向き合えた……。
 キスをして、お互いの体温を感じ合って、理性のタガが外れそうになるのを何とか押し留めている。

 先生が好き。
 伝えられないと思っていた気持ちが、むくむくと大きくなってくる。このままだと爆発してしまう。

「あかり」

 太腿に押しつけられているものの存在に、私の体が喜ぶ。熱を帯びた雄を、早く受け入れろ、と喚く。

「ごめん、あかり。今すぐここで抱きたい」
「せんせ、待っ」
「待てない」
「待って!」

 強い声に、湯川先生が手を止める。ワンピースのボタン、いつの間にそんなに外していたのか。気づかなかった。油断も隙もありゃしない。

「ベッドがいい?」
「違う、違うの。そうじゃなくて。私、先生に言わないといけないことが」
「ん、何?」

 ボタンを外そうとする先生の右手をやんわりと包んで、言葉を探す。けれど、適切な言葉が見つからない。
 なんて言えば、先生に伝わるだろうか。
 なんて言えば、私の気持ちが伝わるだろうか。
 探したけれど、一つしかなかった。

「せんせ、好き」

 驚いて目を見開く先生の顔。珍しく、先生が動揺している。

「好きなの。望のことが好き」

 先生が息を呑むのがわかった。ごくりと喉が鳴った。

「愛してるの」

 湯川先生の目に私だけ映して。私だけを見て。私だけに触れて。私だけを抱いて。

「望を、愛してる」

 湯川先生は長々と息を吐き出して、ゆっくりと深呼吸をした。

「……戻れないよ?」
「いいよ」
「夢じゃない、よな?」
「うん。夢じゃない」
「あかりをぜんぶ、もらっていいってこと?」
「……あ、半分、じゃダメ?」
「あー……なるほどね」

 参ったな、と湯川先生は小さく呟いて、苦笑した。
 二月のあの日、先生は、同じようにそう言って笑ったような気がした。忘れかけていた記憶だ。

「残酷な選択肢だな、これは」
「ご、ごめんなさい」
「その半分の中に、心は含まれる?」
「うん。心と体を半分こ」

 翔吾くんもだったけど、湯川先生も理解が早い。全部を説明しなくても理解してくれる。ただ、納得できるかどうかは、別みたいだけど。

「なるほど、あかりの心と体を、もう一人と共有するわけね……こんなに独り占めしたくて仕方ないのに。本当にこんな残酷な選択肢、聞いたことないよ」

 ごめんなさい、と再度謝ろうとした瞬間に、唇が塞がれる。優しく労るようなキス。ゆっくりと緊張を解していくキスだ。

「覚悟を決めろってことでしょ。わかってる」

 湯川先生は、深い深い溜め息をついたあとに私の頬にそっとキスをして。

「あかり、結婚しよう」

 耳元で、甘く痺れるような言葉を囁いた。

しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

兄様達の愛が止まりません!

恋愛
五歳の時、私と兄は父の兄である叔父に助けられた。 そう、私達の両親がニ歳の時事故で亡くなった途端、親類に屋敷を乗っ取られて、離れに閉じ込められた。 屋敷に勤めてくれていた者達はほぼ全員解雇され、一部残された者が密かに私達を庇ってくれていたのだ。 やがて、領内や屋敷周辺に魔物や魔獣被害が出だし、私と兄、そして唯一の保護をしてくれた侍女のみとなり、死の危険性があると心配した者が叔父に助けを求めてくれた。 無事に保護された私達は、叔父が全力で守るからと連れ出し、養子にしてくれたのだ。 叔父の家には二人の兄がいた。 そこで、私は思い出したんだ。双子の兄が時折話していた不思議な話と、何故か自分に映像に流れて来た不思議な世界を、そして、私は…

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです

沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

ドSな彼からの溺愛は蜜の味

鳴宮鶉子
恋愛
ドSな彼からの溺愛は蜜の味

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

処理中です...