忍びしのぶれど

裳下徹和

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第三章

⑨ 愛

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 跳は、るまと別れたその足で、本郷に住む碑轍のもとへ向かった。
 碑轍に尋ねるのは、焼死体のことでも偽札のことでもなく、〝あい〟についてだ。
 唐突に押しかけたが、特に嫌な顔をするでもなく、碑轍は跳の質問に答えてくれた。
「英語でLOVE。人を好くという意味だが、親が子を好く。男が女を好く。人が神を好く。など、幅広く使われる言葉だ。日本語にはぴたりと当てはまる言葉がないので、学者達は、〝愛〟という言葉を使うことにしたんだ」
 碑轍は、紙に筆で書きつけ、愛という漢字を跳に見せる。
 愛。碑轍やるまの話から考察すると、西洋社会ではキリスト教の思想を根幹としているので、愛という概念が重要視されているようだ。
 男と女。親と子。主君と臣下。神と人。それらの間の心情的結合を、一括りに表す概念愛。西洋文化を取り入れ、国際社会で上手く立ち回っていくには、理解しなければならないのだろうが、どうにもしっくりこない。愛という言葉自体は昔からあったが、西洋のラブのような使われ方ではなかった。執着に近い否定的な使われ方もしていた言葉だ。それに、日本語には、好き。慕う。慈しむ。なと、人の心の機微を示す豊かな表現があるのに、それらを一括りに愛とされるのも、いかがなものかと思う。
 文化、産業、思想だけでなく、心までが西洋化していってしまうのだろうか。それが世の流れとはいえ、跳には抵抗があった。
「愛は日本に根付くのでしょうか」
 碑轍は少し考えてから言う。
「少し前までは、攘夷とか言っていたのに、今は西洋文化の流入を楽しんでいる。愛についても存外すんなりと受け入れ、独自の発展をさせるのではないかな?」
 いつもは信頼している碑轍の分析だが、今回は首をかしげる跳だった。

 碑轍の家を辞して、跳は一人歩く。人がいない道を見計らって、小さい声で愛の使い方を試してみた。
「あなたは私の愛です」
 何か間違えている気がする。
「私はあなたに愛を持っている」
 これも違う気がする。
「私はあなたを愛する」
 何となくしっくりこない。
「私はあなたに愛を思っている」
 これはどうなのだろう。
 るまの顔を思い浮かべながら言ってみるが、どれもこれも自分の想いが言葉に乗っている気がしない。
 愛という言葉が、日本人の細やかな心情を伝えられる日は、こないのではないだろうか。



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