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第30話「陸上大会について(5)」
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本日最初のレースが終了し、見事1位でゴールした陸上部の先輩が観客席に戻ってきた。
先輩の顔には疲労を感じさせないほどの達成感と喜びが現れていた。
先輩が戻ってくるなり、秀一を含めた陸上部のメンバーは皆、先輩に対して称賛の言葉を送る。
「先輩、お疲れ様でした!かっこよかったです!」
「ゆっくり休んでください。ドリンクここに置いておきますね!」
「先輩、1位おめでとうございます!」
蛍山高校の陣地は他のどの学校よりも盛り上がっていた。
そして、次はいよいよ秀一が出る男子100M。
秀一は先輩と笑顔で何やら話をしているが、心の中では相当緊張をしていることだろう。
応援する側の俺ですら、今にも口から心臓が飛び出そうなほど緊張している。
当の本人の緊張は計り知れない。
また、それを他人に悟られないように平常心を演じている秀一は、ものすごいメンタルの持ち主だというのが見てわかる。
俺が秀一の笑う横顔を見ているのに気づいた榊原が口を開く。
「榎本君、緊張しているでしょうね」
「あぁ。少しでも緊張をほぐしてやれればいいんだが……」
その時、再び競技場内にアナウンスが流れる。
「 10時から男子100Mを開始します。選手の方々は準備に移ってください 」
アナウンスを聞いた秀一は「よし」と一言呟き、深く息を吸って吐くと着ていたジャージを脱ぐ。
それまで先輩に集まっていた視線や声が、今度は秀一に集まる。
「榎本、頑張れよ。普段通りに走れば絶対に勝てる」
先ほど1位でゴールを切った先輩が秀一に向かって言う。
勝者からの言葉は今の秀一にとって大きな力になるだろう。
「はい!絶対に1位でゴールしてみせますので、応援よろしくお願いします!」
秀一は緊張を振り払うように勢いよくそう言うと、不安をまるで感じさせないような笑顔を見せた。
「榎本頑張れよ!」
「自信持って!」
「応援してるぞ!」
陸上部の部員から次々と言葉をかけられる。
秀一はそれら全てに「任せとけ!」と応えると、ニカッと白い歯を見せて笑う。
すると、秀一の隣にいた朝霧が突然秀一の背中をバチン!!と思い切り叩いた。
「痛ってえ!!何すんだよ莉緒!」
秀一は突然の衝撃に驚き、後ろを振り返る。
「どぉ?緊張ほぐれた?」
振り向いた秀一に対し朝霧はそう言って、にししと笑う。
あれが朝霧なりの励ましなのだろう。
朝霧の意図を理解した秀一は、困ったように笑うと「あぁ、ほぐれた!ありがとな」と小さく呟いた。
すると、朝霧から喝を受け取った秀一と目が合った。
秀一は陸上部員たちに「ちょっとごめん」と一言伝えると、こちらに向かって歩いてくる。
そして俺と榊原の前で足を止めると真剣な表情をして口を開いた。
「悠、榊原さん。見ててね」
秀一は『何を』とは言わなかった。
けれど、俺と榊原にはしっかりと秀一の熱い想いが届いた。
「あぁ、見てる」
「えぇ」
それ以上の言葉なんていらない。
だから、俺たちもただそれだけを伝える。
秀一は真剣な表情から、いつも通りの周りを照らす太陽のような明るい表情に変えて「それじゃあ、行ってくる」と笑顔を見せる。
階段を下りて行く秀一に背中には、これまでの努力や想い、そして覚悟のようなものが現れていた。
秀一がトラック上に向かうのを見届けた俺と榊原は、朝霧の隣へ移動する。
「榎本、いい顔してたね」
朝霧が口元に笑みを浮かべる。
「あぁ。秀一なら大丈夫。あいつの頑張りは俺たちみんなが知っている」
「うん……そだね」
朝霧とそんな言葉を交わしているとトラック上に秀一が現れ、蛍山高校の陸上部員が一斉に声援を送る。
「「「榎本ー!頑張れー!」」」
声援を受けた秀一がこちらに向かって大きく手を振ると、秀一以外にも続々と他校の選手が姿を現わし始めた。
どの選手も皆真剣な表情をしていて、その目からは『絶対に自分が勝つ』という強い意志を感じる。
選手が登場するたびに観客席からは先ほど同様、弾けるような声援があちこちから聞こえて来る。
それぞれが異なる選手を精一杯応援している。
応援する選手が真っ先にゴールラインを駆け抜けることを祈って。
蛍山高校の陣地でも皆が拳を握りしめ、秀一の勝利を強く祈る。
その時、観客席の喧騒が一層強まった。
集まっていた報道陣が一斉にカメラを向ける。
何事かと思い選手の集まる方に目をやると、そこには『期待の新星』『未来のオリンピック候補』など様々なメディアで引っ張りだこの天才、山吹創の姿があった。
選手たちは山吹が放つ独特のオーラのようなものを感じ取っているのか、強張った表情でレース前から額に汗を滲ませている。
その中で唯一、秀一だけが笑っていた。
まるでこの時を心待ちにしていたかのように。
山吹はスタートラインに着くなり、周囲の視線を振り切って秀一の元まで移動する。
向かい合った2人は何やら言葉を交わしているが、周囲から湧き上がる声援で2人が何を話しているのか聞き取ることができない。
しかし、2人の楽しそうな表情を見る限り険悪な雰囲気になるような話ではなさそうだ。
俺はホッと胸を撫で下ろす。
会話を終えた2人はそれぞれのレーンに入り、各自軽いストレッチを始めた。
他の選手も先ほどのレース同様、各々のストレッチやルーティンを行う。
しばらくしてスピーカーから音が鳴った。
「 On your marks 」
競技場内にアナウンスが響く。
それにより煩いほどだった声援はピタリと止まり、観客席にいる皆が静かに勝負の時を見守る体制に入った。
そして、その合図を聞いた選手たちは各レーンのスタートラインに立ち、スターティング・ブロックに足をかけると、鮮烈に輝く太陽に照らされて焼けるように熱くなった地面に指を置き、ジッと白線を見つめる。
「 Set 」
選手が一斉に腰を上げる。
あと数秒で秀一の勝負が始まる。
俺が、朝霧が、榊原が、陸上部員が、観客が、静かに息を呑む。
聞こえるのは風の音と心臓の音だけ。
手には汗が滲み、今にも爆発しそうな緊張感が競技場内に漂う。
秀一の頑張りがもう少しで結果になる。
俺はぎゅっと拳を握りしめて心の中で叫ぶ。
……頑張れ!秀一!!
そして——
パンッ!!
競技場内に弾けるような乾いた音が鳴り響き、選手が一斉に走り出した。
観客席からは再び燃えるように激しい声援があちこちから溢れ出す。
選手たちは皆、ゴールラインだけを見つめ風を切って走る。
「いけぇぇぇぇぇぇぇ!!!榎本ぉぉぉぉぉぉ!!!!」
陸上部員が掠れるほどの大声で声援を送る。
50メートルを切ったところで選手のうち3人が1歩前に出た。
山吹と、名前の知らない他校の選手、そして秀一だ。
それを見た榊原が大声を上げる。
「榎本君、頑張ってぇぇぇ!!」
榊原の声は上ずっていなかった。
しっかりとしたよく通る綺麗な声で、秀一の耳にしっかり届くような気持ちのこもった声だった。
「榎本ーーー!!負けるなぁぁぁぁぁ!!!」
同じように朝霧も声が枯れるほどの大声を出す。
その声援を受け、3人のうち2人がさらに前に出る。
前へ出たのは山吹と秀一だった。
2人が横に並ぶ。
よし……!いける!
全力で駆ける秀一の顔には、今までずっと山吹に対して抱いてきた想いがしっかりと現れていた。
勝ちたい……!勝ちたい……!勝ちたい……!勝ちたい……!
観客席で見守る俺のところまでその気持ちが痛いほど伝わってきた。
そして、いよいよラストスパート。
2人はゴールライン目掛けて全力で駆ける。
駆ける。駆ける。駆ける。駆ける。
「いっけぇぇぇぇぇぇ!!!秀一ぃぃぃぃぃ!!!!」
気がつけば自分でも驚くほどの大声を出していた。
気持ちを抑えきれなかった。
堪えきれなかった。
こんなにも胸が高ぶるなんていつぶりだろうか。
顔が熱い。手が熱い。背中が熱い。胸が熱い。
俺にはここから全力で声援を送ることしかできない。
ならばせめて、この沸き立つ喧騒を切り裂き、秀一の耳にもはっきり聞こえるように声を出そう。
俺は叫ぶ。
「負けるなぁぁぁぁ!!!秀一ぃぃぃぃ!!!」
朝霧や榊原、陸上部員全員が負けじと声を上げる。
「榎本ーーー!!」
「榎本君!!」
「勝て!!!榎本ぉぉぉ!!!」
そして——
観客全員が見守る中、ほぼ同時に2人がゴールラインを通過した。
競技場内はざわめき出す。
「どっちだ!?」
「蝶川の選手が少し前に出ていたように見えたぞ?」
「俺には蛍山が前に先にゴール切ったように見えたけど」
蛍山や蝶川以外の陣地からそんな声が聞こえる。
「結果は!?」
陸上部員が声をあげ、電光掲示板の方を向く。
それにつられ俺たちもゴールライン上に設置された電光掲示板に目をやる。
そこには、 『 10.43 』というタイムと1位の選手の名前が記されてあった。
それを見て今日1番の歓声が競技場内に湧き上がる。
自分が1位になったと知った本人は喜びを爆発させ、両手を高く上げ、観客席で応援していたチームメイトも高らかに声を上げ、共に抱き合い、涙した。
しかし、それは蛍山高校の陣地から聞こえるものではなかった。
1位でゴールを切ったのは、蝶川高校1年 山吹創。
「よっしゃぁぁぁぁぁ!!!」
山吹は爽やかな笑顔で観客席に向かって声を上げる。
観客はそれに応えるように歓声の勢いを強める。
「……………」
それに対して、俺たちの中には誰一人として声を上げる者はいなかった。
皆、顔には悔しさが滲み出ている。
秀一はまだトラック上で膝に手を付き、体を使って呼吸を繰り返している。
顔は見えない。
ただ、秀一の影だけが痕を残すかのようにはっきりと黒く見える。
「榎本……」
朝霧がポツリと呟く。
その声には喪失感のようなものが含まれてあった。
秀一……
俺は秀一の後ろ姿に目をやる。
息を整え終わった秀一はタイムが表示されている電光掲示板をじっと見つめ、それからゲートの中へとゆっくり消えていった。
「榎本君……大丈夫かしら……」
榊原が不安そうに口にする。
「どう……だろうな……」
俺は秀一になんて声をかけてやればいいのか必死に考える。
すると、レースを終えた秀一が観客席へ戻ってきた。
「あっ……榎本、惜しかったな」
先輩が真っ先に声をかける。
俺はてっきり秀一が悔しさのあまり泣いていると思った。
しかし予想に反して秀一は、けろっとしたいつもの明るい表情をしている。
「いや~、やっぱダメだったか~!もう少しで勝てそうだったんですけどね」
先輩は少しほっとした顔をすると、「お前はまだ1年。また次があるさ」と励ましの言葉を送る。
それに続いて他の陸上部のメンバーも次々と秀一に激励の言葉をかけていく。
「すごく惜しかったな!」
「あの山吹とほぼ同着ってすごいじゃないか!」
「お前はよく頑張った!」
秀一はそれらに対し「あはは!ありがとう!」と満面の笑みで答えると、俺たちの元まで来て口を開いた。
「ごめんな~悠、莉緒、榊原さん。せっかく応援来てもらったのに勝てなくて……やっぱり山吹速いわ~」
悔しむというより、むしろ山吹の走りに感心している。
「榎本君!1位にはなれなかったけれど、それでもすごくよかったわ!私、思わず大声を出してしまったもの」
「そうそう!いい走りだったよね~!榎本、また速くなったんじゃない?」
榊原と朝霧は先ほどのレースを思い出しながら語る。
「ありがとう2人とも。しっかり声聞こえてたぜ!もちろん悠の声もな!」
秀一はそう言って白い歯を見せながら笑う。
「き、聞こえたのか……なんか恥ずかしいな」
「俺、悠の大声初めて聞いたぜ?頑張った甲斐があったよ」
恥ずかしいのは事実だが後悔はしていない。
実際、あのレースは俺が大声を出してしまうほど素晴らしいものだった。
今も胸に熱が残っている。
そして全員から励ましの言葉を受けた秀一は、突然閃いたように声を出した。
「あっ、俺ちょっとドリンク買ってくるわ。もう喉カラカラでさ」
「あれだけ全力で走ればな。俺たちはここで待ってるから早く買ってこいよ」
「サンキュー!んじゃ、ちょっくら買ってくるわ」
そう言って秀一は軽やかな足取りで階段を駆け下り、自動販売機へと向かっていった。
思ったより落ち込んでなくて少し安心した。
俺はホッと息を吐く。
「それにしても山吹は速いねぇ~。去年までは頼もしいメンバーだったのに敵になるとあんなに恐ろしいとはね」
朝霧がそう言って笑うと、榊原もつられて笑う。
「ふふっ。私、あんなに速く走る人初めて見たわ。『風を切って走る』って、ああいう感じのことを言うのね」
榊原はどこか感心したように呟く。
先ほどまで暗い雰囲気が漂っていた蛍山高校の陣地にもいつの間にか明るさが戻っていた。
***
しばらくして、第3種目の男子200Mのレースが始まった。
蛍山高校からは2名の選手が出場するらしい。
1人は俺たちと同じ1年生、もう1人は3年生だそうだ。
選手はすでにスタートラインに着いており、手足をぶらつかせたり軽く跳んでみたりしている。
「それにしても、榎本遅いねー」
ふと朝霧が呟く。
「そうね。もしかして、迷ってしまった……とか?」
「いやいや、さすがの秀一でもこんなところで迷子にならないだろ……多分」
俺は榊原の呟きにツッコミを入れる。
「羽島、ちょっと探してきてくれない?」
「ん?あぁ、いいよ。そろそろレースも始まるしな……それじゃあ、ちょっと探してくる」
朝霧に秀一の捜索を頼まれた俺はそう言って階段を駆け下りた。
どうせ、腹でも壊してトイレにでもこもっているのだろう。
そんなことを考えながら、秀一の向かったであろう自動販売機に向かう。
しかし、自動販売機付近には秀一の姿はなく、俺は近くのトイレに入る。
「秀一? いるかー?」
呼びかけてみるが反応はない。どうやらトイレにはいないらしい。
「一体どこいったんだあいつは……。まさか本当に迷子になってるんじゃないだろうな」
俺は秀一を探して施設内を走り回る。
しばらく走り回っていると、喧騒が遠くに聞こえた。
どうやらレースが始まったらしい。
俺は1度陸上競技場から外に出た。
すると、競技場の裏側。
雑草が生い茂り、全く手入れがされていないようなところにユニフォーム姿の秀一を発見した。
あいつ、こんなところで何してるんだ……
呆れた俺は秀一に声をかける。
「おい、しゅ—— 」
しかし、途中で声を出すのをやめた。
秀一は悔しさを堪えきれずに声を上げながら、大粒の涙を流していた。
口の端から嗚咽が漏れ出ている。
秀一の口からは悲痛の声が、言葉が、これでもかというほど溢れ出していた。
そうだ。悔しくないはずなんてない。
秀一は俺たちに心配させないように無理に笑顔を作っていたのだ。
そんなことにも気づかずに俺は……
榊原が転校してきた時もそうだった。
わかったようなつもりで何一つわかってなどいなかったのだ。
自分の無能さに腹が立つ。
何が親友だ。
友人の本当の気持ちにすら気づけずに、よく恥ずかしげもなく声をかけれたものだ。
俺は歯を噛みしめる。
そして俺は悔し涙を流す秀一の姿を見て、自分の胸がキリキリと痛むのを感じ取りながら、そっと観客席へと戻っていった——。
先輩の顔には疲労を感じさせないほどの達成感と喜びが現れていた。
先輩が戻ってくるなり、秀一を含めた陸上部のメンバーは皆、先輩に対して称賛の言葉を送る。
「先輩、お疲れ様でした!かっこよかったです!」
「ゆっくり休んでください。ドリンクここに置いておきますね!」
「先輩、1位おめでとうございます!」
蛍山高校の陣地は他のどの学校よりも盛り上がっていた。
そして、次はいよいよ秀一が出る男子100M。
秀一は先輩と笑顔で何やら話をしているが、心の中では相当緊張をしていることだろう。
応援する側の俺ですら、今にも口から心臓が飛び出そうなほど緊張している。
当の本人の緊張は計り知れない。
また、それを他人に悟られないように平常心を演じている秀一は、ものすごいメンタルの持ち主だというのが見てわかる。
俺が秀一の笑う横顔を見ているのに気づいた榊原が口を開く。
「榎本君、緊張しているでしょうね」
「あぁ。少しでも緊張をほぐしてやれればいいんだが……」
その時、再び競技場内にアナウンスが流れる。
「 10時から男子100Mを開始します。選手の方々は準備に移ってください 」
アナウンスを聞いた秀一は「よし」と一言呟き、深く息を吸って吐くと着ていたジャージを脱ぐ。
それまで先輩に集まっていた視線や声が、今度は秀一に集まる。
「榎本、頑張れよ。普段通りに走れば絶対に勝てる」
先ほど1位でゴールを切った先輩が秀一に向かって言う。
勝者からの言葉は今の秀一にとって大きな力になるだろう。
「はい!絶対に1位でゴールしてみせますので、応援よろしくお願いします!」
秀一は緊張を振り払うように勢いよくそう言うと、不安をまるで感じさせないような笑顔を見せた。
「榎本頑張れよ!」
「自信持って!」
「応援してるぞ!」
陸上部の部員から次々と言葉をかけられる。
秀一はそれら全てに「任せとけ!」と応えると、ニカッと白い歯を見せて笑う。
すると、秀一の隣にいた朝霧が突然秀一の背中をバチン!!と思い切り叩いた。
「痛ってえ!!何すんだよ莉緒!」
秀一は突然の衝撃に驚き、後ろを振り返る。
「どぉ?緊張ほぐれた?」
振り向いた秀一に対し朝霧はそう言って、にししと笑う。
あれが朝霧なりの励ましなのだろう。
朝霧の意図を理解した秀一は、困ったように笑うと「あぁ、ほぐれた!ありがとな」と小さく呟いた。
すると、朝霧から喝を受け取った秀一と目が合った。
秀一は陸上部員たちに「ちょっとごめん」と一言伝えると、こちらに向かって歩いてくる。
そして俺と榊原の前で足を止めると真剣な表情をして口を開いた。
「悠、榊原さん。見ててね」
秀一は『何を』とは言わなかった。
けれど、俺と榊原にはしっかりと秀一の熱い想いが届いた。
「あぁ、見てる」
「えぇ」
それ以上の言葉なんていらない。
だから、俺たちもただそれだけを伝える。
秀一は真剣な表情から、いつも通りの周りを照らす太陽のような明るい表情に変えて「それじゃあ、行ってくる」と笑顔を見せる。
階段を下りて行く秀一に背中には、これまでの努力や想い、そして覚悟のようなものが現れていた。
秀一がトラック上に向かうのを見届けた俺と榊原は、朝霧の隣へ移動する。
「榎本、いい顔してたね」
朝霧が口元に笑みを浮かべる。
「あぁ。秀一なら大丈夫。あいつの頑張りは俺たちみんなが知っている」
「うん……そだね」
朝霧とそんな言葉を交わしているとトラック上に秀一が現れ、蛍山高校の陸上部員が一斉に声援を送る。
「「「榎本ー!頑張れー!」」」
声援を受けた秀一がこちらに向かって大きく手を振ると、秀一以外にも続々と他校の選手が姿を現わし始めた。
どの選手も皆真剣な表情をしていて、その目からは『絶対に自分が勝つ』という強い意志を感じる。
選手が登場するたびに観客席からは先ほど同様、弾けるような声援があちこちから聞こえて来る。
それぞれが異なる選手を精一杯応援している。
応援する選手が真っ先にゴールラインを駆け抜けることを祈って。
蛍山高校の陣地でも皆が拳を握りしめ、秀一の勝利を強く祈る。
その時、観客席の喧騒が一層強まった。
集まっていた報道陣が一斉にカメラを向ける。
何事かと思い選手の集まる方に目をやると、そこには『期待の新星』『未来のオリンピック候補』など様々なメディアで引っ張りだこの天才、山吹創の姿があった。
選手たちは山吹が放つ独特のオーラのようなものを感じ取っているのか、強張った表情でレース前から額に汗を滲ませている。
その中で唯一、秀一だけが笑っていた。
まるでこの時を心待ちにしていたかのように。
山吹はスタートラインに着くなり、周囲の視線を振り切って秀一の元まで移動する。
向かい合った2人は何やら言葉を交わしているが、周囲から湧き上がる声援で2人が何を話しているのか聞き取ることができない。
しかし、2人の楽しそうな表情を見る限り険悪な雰囲気になるような話ではなさそうだ。
俺はホッと胸を撫で下ろす。
会話を終えた2人はそれぞれのレーンに入り、各自軽いストレッチを始めた。
他の選手も先ほどのレース同様、各々のストレッチやルーティンを行う。
しばらくしてスピーカーから音が鳴った。
「 On your marks 」
競技場内にアナウンスが響く。
それにより煩いほどだった声援はピタリと止まり、観客席にいる皆が静かに勝負の時を見守る体制に入った。
そして、その合図を聞いた選手たちは各レーンのスタートラインに立ち、スターティング・ブロックに足をかけると、鮮烈に輝く太陽に照らされて焼けるように熱くなった地面に指を置き、ジッと白線を見つめる。
「 Set 」
選手が一斉に腰を上げる。
あと数秒で秀一の勝負が始まる。
俺が、朝霧が、榊原が、陸上部員が、観客が、静かに息を呑む。
聞こえるのは風の音と心臓の音だけ。
手には汗が滲み、今にも爆発しそうな緊張感が競技場内に漂う。
秀一の頑張りがもう少しで結果になる。
俺はぎゅっと拳を握りしめて心の中で叫ぶ。
……頑張れ!秀一!!
そして——
パンッ!!
競技場内に弾けるような乾いた音が鳴り響き、選手が一斉に走り出した。
観客席からは再び燃えるように激しい声援があちこちから溢れ出す。
選手たちは皆、ゴールラインだけを見つめ風を切って走る。
「いけぇぇぇぇぇぇぇ!!!榎本ぉぉぉぉぉぉ!!!!」
陸上部員が掠れるほどの大声で声援を送る。
50メートルを切ったところで選手のうち3人が1歩前に出た。
山吹と、名前の知らない他校の選手、そして秀一だ。
それを見た榊原が大声を上げる。
「榎本君、頑張ってぇぇぇ!!」
榊原の声は上ずっていなかった。
しっかりとしたよく通る綺麗な声で、秀一の耳にしっかり届くような気持ちのこもった声だった。
「榎本ーーー!!負けるなぁぁぁぁぁ!!!」
同じように朝霧も声が枯れるほどの大声を出す。
その声援を受け、3人のうち2人がさらに前に出る。
前へ出たのは山吹と秀一だった。
2人が横に並ぶ。
よし……!いける!
全力で駆ける秀一の顔には、今までずっと山吹に対して抱いてきた想いがしっかりと現れていた。
勝ちたい……!勝ちたい……!勝ちたい……!勝ちたい……!
観客席で見守る俺のところまでその気持ちが痛いほど伝わってきた。
そして、いよいよラストスパート。
2人はゴールライン目掛けて全力で駆ける。
駆ける。駆ける。駆ける。駆ける。
「いっけぇぇぇぇぇぇ!!!秀一ぃぃぃぃぃ!!!!」
気がつけば自分でも驚くほどの大声を出していた。
気持ちを抑えきれなかった。
堪えきれなかった。
こんなにも胸が高ぶるなんていつぶりだろうか。
顔が熱い。手が熱い。背中が熱い。胸が熱い。
俺にはここから全力で声援を送ることしかできない。
ならばせめて、この沸き立つ喧騒を切り裂き、秀一の耳にもはっきり聞こえるように声を出そう。
俺は叫ぶ。
「負けるなぁぁぁぁ!!!秀一ぃぃぃぃ!!!」
朝霧や榊原、陸上部員全員が負けじと声を上げる。
「榎本ーーー!!」
「榎本君!!」
「勝て!!!榎本ぉぉぉ!!!」
そして——
観客全員が見守る中、ほぼ同時に2人がゴールラインを通過した。
競技場内はざわめき出す。
「どっちだ!?」
「蝶川の選手が少し前に出ていたように見えたぞ?」
「俺には蛍山が前に先にゴール切ったように見えたけど」
蛍山や蝶川以外の陣地からそんな声が聞こえる。
「結果は!?」
陸上部員が声をあげ、電光掲示板の方を向く。
それにつられ俺たちもゴールライン上に設置された電光掲示板に目をやる。
そこには、 『 10.43 』というタイムと1位の選手の名前が記されてあった。
それを見て今日1番の歓声が競技場内に湧き上がる。
自分が1位になったと知った本人は喜びを爆発させ、両手を高く上げ、観客席で応援していたチームメイトも高らかに声を上げ、共に抱き合い、涙した。
しかし、それは蛍山高校の陣地から聞こえるものではなかった。
1位でゴールを切ったのは、蝶川高校1年 山吹創。
「よっしゃぁぁぁぁぁ!!!」
山吹は爽やかな笑顔で観客席に向かって声を上げる。
観客はそれに応えるように歓声の勢いを強める。
「……………」
それに対して、俺たちの中には誰一人として声を上げる者はいなかった。
皆、顔には悔しさが滲み出ている。
秀一はまだトラック上で膝に手を付き、体を使って呼吸を繰り返している。
顔は見えない。
ただ、秀一の影だけが痕を残すかのようにはっきりと黒く見える。
「榎本……」
朝霧がポツリと呟く。
その声には喪失感のようなものが含まれてあった。
秀一……
俺は秀一の後ろ姿に目をやる。
息を整え終わった秀一はタイムが表示されている電光掲示板をじっと見つめ、それからゲートの中へとゆっくり消えていった。
「榎本君……大丈夫かしら……」
榊原が不安そうに口にする。
「どう……だろうな……」
俺は秀一になんて声をかけてやればいいのか必死に考える。
すると、レースを終えた秀一が観客席へ戻ってきた。
「あっ……榎本、惜しかったな」
先輩が真っ先に声をかける。
俺はてっきり秀一が悔しさのあまり泣いていると思った。
しかし予想に反して秀一は、けろっとしたいつもの明るい表情をしている。
「いや~、やっぱダメだったか~!もう少しで勝てそうだったんですけどね」
先輩は少しほっとした顔をすると、「お前はまだ1年。また次があるさ」と励ましの言葉を送る。
それに続いて他の陸上部のメンバーも次々と秀一に激励の言葉をかけていく。
「すごく惜しかったな!」
「あの山吹とほぼ同着ってすごいじゃないか!」
「お前はよく頑張った!」
秀一はそれらに対し「あはは!ありがとう!」と満面の笑みで答えると、俺たちの元まで来て口を開いた。
「ごめんな~悠、莉緒、榊原さん。せっかく応援来てもらったのに勝てなくて……やっぱり山吹速いわ~」
悔しむというより、むしろ山吹の走りに感心している。
「榎本君!1位にはなれなかったけれど、それでもすごくよかったわ!私、思わず大声を出してしまったもの」
「そうそう!いい走りだったよね~!榎本、また速くなったんじゃない?」
榊原と朝霧は先ほどのレースを思い出しながら語る。
「ありがとう2人とも。しっかり声聞こえてたぜ!もちろん悠の声もな!」
秀一はそう言って白い歯を見せながら笑う。
「き、聞こえたのか……なんか恥ずかしいな」
「俺、悠の大声初めて聞いたぜ?頑張った甲斐があったよ」
恥ずかしいのは事実だが後悔はしていない。
実際、あのレースは俺が大声を出してしまうほど素晴らしいものだった。
今も胸に熱が残っている。
そして全員から励ましの言葉を受けた秀一は、突然閃いたように声を出した。
「あっ、俺ちょっとドリンク買ってくるわ。もう喉カラカラでさ」
「あれだけ全力で走ればな。俺たちはここで待ってるから早く買ってこいよ」
「サンキュー!んじゃ、ちょっくら買ってくるわ」
そう言って秀一は軽やかな足取りで階段を駆け下り、自動販売機へと向かっていった。
思ったより落ち込んでなくて少し安心した。
俺はホッと息を吐く。
「それにしても山吹は速いねぇ~。去年までは頼もしいメンバーだったのに敵になるとあんなに恐ろしいとはね」
朝霧がそう言って笑うと、榊原もつられて笑う。
「ふふっ。私、あんなに速く走る人初めて見たわ。『風を切って走る』って、ああいう感じのことを言うのね」
榊原はどこか感心したように呟く。
先ほどまで暗い雰囲気が漂っていた蛍山高校の陣地にもいつの間にか明るさが戻っていた。
***
しばらくして、第3種目の男子200Mのレースが始まった。
蛍山高校からは2名の選手が出場するらしい。
1人は俺たちと同じ1年生、もう1人は3年生だそうだ。
選手はすでにスタートラインに着いており、手足をぶらつかせたり軽く跳んでみたりしている。
「それにしても、榎本遅いねー」
ふと朝霧が呟く。
「そうね。もしかして、迷ってしまった……とか?」
「いやいや、さすがの秀一でもこんなところで迷子にならないだろ……多分」
俺は榊原の呟きにツッコミを入れる。
「羽島、ちょっと探してきてくれない?」
「ん?あぁ、いいよ。そろそろレースも始まるしな……それじゃあ、ちょっと探してくる」
朝霧に秀一の捜索を頼まれた俺はそう言って階段を駆け下りた。
どうせ、腹でも壊してトイレにでもこもっているのだろう。
そんなことを考えながら、秀一の向かったであろう自動販売機に向かう。
しかし、自動販売機付近には秀一の姿はなく、俺は近くのトイレに入る。
「秀一? いるかー?」
呼びかけてみるが反応はない。どうやらトイレにはいないらしい。
「一体どこいったんだあいつは……。まさか本当に迷子になってるんじゃないだろうな」
俺は秀一を探して施設内を走り回る。
しばらく走り回っていると、喧騒が遠くに聞こえた。
どうやらレースが始まったらしい。
俺は1度陸上競技場から外に出た。
すると、競技場の裏側。
雑草が生い茂り、全く手入れがされていないようなところにユニフォーム姿の秀一を発見した。
あいつ、こんなところで何してるんだ……
呆れた俺は秀一に声をかける。
「おい、しゅ—— 」
しかし、途中で声を出すのをやめた。
秀一は悔しさを堪えきれずに声を上げながら、大粒の涙を流していた。
口の端から嗚咽が漏れ出ている。
秀一の口からは悲痛の声が、言葉が、これでもかというほど溢れ出していた。
そうだ。悔しくないはずなんてない。
秀一は俺たちに心配させないように無理に笑顔を作っていたのだ。
そんなことにも気づかずに俺は……
榊原が転校してきた時もそうだった。
わかったようなつもりで何一つわかってなどいなかったのだ。
自分の無能さに腹が立つ。
何が親友だ。
友人の本当の気持ちにすら気づけずに、よく恥ずかしげもなく声をかけれたものだ。
俺は歯を噛みしめる。
そして俺は悔し涙を流す秀一の姿を見て、自分の胸がキリキリと痛むのを感じ取りながら、そっと観客席へと戻っていった——。
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