アガルタ・クライシス ―接点―

来栖とむ

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 七月も終わりに差し掛かった日の午前、安藤は車の後部座席で書類を膝に乗せたまま、窓の外を眺めていた。市の中心部から番匠川に沿って車を走らせること二十分。フロントガラスを叩いていた雨音がだんだん小さくなってきている。
「やっと雨が弱くなってきましたね」
 安藤がつぶやくと、助手席に座る市の職員、岡本が振り返った。課長補佐という肩書きを持つ四十代半ばの男で、今回の調査に同行してくれることになっている。
「ええ、予報では午後には上がるそうです。でも、この辺りは今回の長雨でいたるところが崩れて大変なんですよ」
 窓の外を流れる番匠川は茶色く濁り、普段とは違う激しさで水が流れている。今年の夏は異常なほど雨が多く、各地で土砂災害が相次いでいると聞いていた。
「そうですか……大変ですね」
 安藤は曖昧に返事をしながら、隣に座る男に視線を向けた。
「ところで花巻先生、写真の方はいかがですか?」
 車内で資料を渡されてから、花巻吾郎はずっと写真を見続けている。まだ若い大学の研究者で、古代文字の解読を専門としているという。整った顔立ちと長めの髪が印象的で、安藤の娘と同じ年頃の女子大生たちにはさぞかし人気なのだろう。そう思うと、なんとなく面白くない気分になってくる。
「ええ、いくつかわかったことがあります」
 花巻は写真から顔を上げると、丁寧に説明を始めた。
「ただ、現物を見てみないと読み間違いの可能性もありますが……多分、『門のある小さな島を離れて南に向かった』と書かれています。この記号は方角を示すものですから、南で間違いないでしょう。それから『木を結んで漕いだ』とありますので、筏のようなもので移動したと考えられます」
 安藤は自分の手元の写真を見たが、模様が見えるだけでどこにそんな文字が書かれているのかさっぱりわからなかった。
「『波間』に『陽の光が照る』という表現もありますが……この写真で読める部分はそのくらいですね。実際に掘り出して、隠れている部分を調査しないと全体像は見えません」
 花巻は写真の端を指差しながら続けた。
「それと、この端にある記号のようなものと、石板の欠けた部分が青みがかっているのが気になりますね」
「青みがかっているというのは?」
「後で詳しくお話しします」

 やがて車は県道から外れて小川沿いの脇道に入り、軽トラックが止まっている空き地で停車した。
「到着しました。ここからは倒木もありますし、歩きになります。重機がまだ足りなくて、手つかずの状態でして……」
 岡本が申し訳なさそうに説明する。安藤は書類を鞄にしまうと、渡されたビニル傘を手に車から降りた。
 木々に囲まれた未舗装の道は長雨で砂利も流され、ぬかるんでいる上に倒木が行く手を阻んでいる。高い気温と湿度も加わって、安藤には歩きにくいことこの上ない。日頃の運動不足も手伝って、山道はあっという間に体力を奪っていく。
「まだ先ですか?」
 安藤は額の汗を拭いながら先を歩く一行に声をかけた。
「いえ、あそこに屋根が見えますでしょう? あの家の裏山になります」
 運転をしていた若い職員が木立の向こうを指差して答える。屋根はまだずいぶん先に見えるだけだった。
「はあ……まだ結構登るんですね」
 安藤がため息をつきそうになったとき、後ろから明るい声が聞こえてきた。
「いえいえ、こうやって自然の中を歩くのは気持ちがいいですね。少しジメジメしますが、空気も美味しいですし、街にいるよりずっといいですよ」
 振り返ると、花巻が楽しそうな表情でこちらを見ている。色白で北欧系のような彫りの深い顔立ち、長めでウェーブのかかった髪に眼鏡の奥の長いまつげ。初対面の人なら女性と間違えそうなほど中性的な美貌の持ち主だった。
「先生はお元気ですね。まるで山歩きが苦にならないみたいだ」
 岡本の世辞に、花巻は息一つ乱さず答える。
「ええ、山はよく歩くんです。仕事柄もありまして」
「先生のその細い体のどこに、そんな体力があるんでしょうねえ?」
 安藤が皮肉を込めて言うと、花巻は屈託なく笑った。
「さあ? 僕にもわかりませんけど」

「あそこです。あそこで発見されたんです」
 若い職員の指先が示す先に、何枚もの青いシートが、痛々しいほどに地面を覆っていた。家屋の裏に広がる畑には、裏山から流れ込んだ大量の土砂が押し寄せ、畝(うね)の形をかき消している。かろうじて土砂を免れた区画には緑の葉を茂らせた豆の苗が並んでいたが、今年の収穫が半減するのは目に見えていた。

今回問題となっている石板は、この土砂に混ざって見つかったのだという。ブルーシートは、削られた斜面と土砂の山の一部を隠すようにかけられているが、その一枚がめくれ、二人の地元住民らしき人物が、深刻そうな表情で何か話し込んでいるのが見えた。彼らの顔には、落胆と不安がにじみ出ている。

「深山さん、お待たせしました」
 岡本の明るい声に、畑の持ち主らしい二人は苦い表情で振り返った。
「岡本さん……なくなっちまった。きっと誰かが盗んだんだ」

 二人の話によると、一昨日発見された石板は市の指示でブルーシートの下に保管してあったのだという。ところが今朝見に来ると、シートが剥がされて石板は跡形もなく消えていたのだ。
 発見当時に携帯電話で撮影していた写真が、車内で見せてもらったものらしい。古い携帯での撮影のため解像度に限界はあるが、本部で分析すればもう少し詳しいことがわかるかもしれない。
 石板の盗難について地元警察に連絡を入れ、一息ついたところで岡本が紹介してくれた。
「こちらは文部科学省で文化財関係の仕事をされている安藤さんと、大学の花巻先生です」
「せっかく来ていただいたのに、こんなことになってしまって申し訳ありません」
 深山と名乗る男性は深く頭を下げた。
「いえいえ、頭を上げてください。あなた方が悪いわけではありませんから」
「それでも、他のものと一緒に片付けておけばよかったんです」
 その言葉に花巻が反応した。
「他にも何か出土したんですか?」
「ええ、指輪のようなものがありまして。小さいのでなくしてはいけないと思って、別に保管してあります」
「それ、今見せていただけますか?」
「ええ、もちろん」
 深山はズボンのポケットからビニール袋に入った指輪と、それが入っていたらしい箱の残骸を取り出した。
 花巻は鞄からルーペを取り出すと、その指輪を手に取って詳しく観察し始めた。
「この渦巻きのような模様が三つ並んでいるのは、トリスケルのようですね。ヨーロッパでは比較的よく出土するのですが、日本で見つかるのは僕が知る限り初めてかもしれません。本物だとしたら大発見ですよ」
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