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夜明け前の東シナ海上空は、まだ薄暗い闇に包まれている。西の空に沈みかけた月が最後の光を海面に投げかけ、代わりに東の地平線がうっすらと明るくなり始めていた。
「艦影補足。十時の方角」
P-3C哨戒機の機内に響く冷静な声。操縦席では、ベテランパイロットの田島三佐が計器を確認しながら機体を安定させている。
「今日で七十六日連続だな。よし、高度五百で右から回り込む」
田島の声には疲労の色が滲んでいる。七十六日間、毎日同じ海域で同じような監視任務を続けている。最初の頃は緊張感もあったが、今では半ば機械的に作業をこなしているような状態だった。
「機内記録、撮影の用意はいいか」
「もちろんです」
後部座席の若い隊員、佐藤二尉が機材を確認しながら答える。彼はまだこの任務に就いて三か月ほどしか経っておらず、毎回の飛行に真剣に取り組んでいる。
「よし、艦籍を確認次第呼びかけを行う。記録開始」
「記録開始しました」
「撮影用意……」
P-3Cは高度を五百メートルまで落とし、ゆっくりと右旋回を始めた。下方の海面には、灰色の船体が朝の薄明かりに浮かび上がっている。見慣れたC国の調査船『海龍号』だった。
田島は窓の外を見下ろしながら、ため息をついた。毎日毎日、同じ船が同じ海域で同じような活動を続けている。一体何を調査しているのか、正式な発表はない。だが、現場の人間として感じる違和感は日に日に強くなっていた。
「今日もまた、例の船ですね」
佐藤が写真を撮りながらつぶやく。
「ああ、もうすっかり顔馴染みだ。向こうも俺たちの顔を覚えてるかもしれんな」
田島は苦笑いを浮かべながら答えた。確かに、毎日のように上空を飛ぶ日本の哨戒機を、船の乗組員たちも見慣れているだろう。時々、甲板にいる人影がこちらを見上げているのが見える。
「でも、今日は何か様子が違いませんか?」
佐藤の言葉に、田島は改めて下方を見た。確かに、いつもと違う装置のようなものが見える。
「甲板に何かワイヤーのようなものが……」
「ああ、俺も気になってた。いつもより船の動きも違うな。定点で停止してる時間が長い」
P-3Cは海龍号の周りを大きく旋回しながら、詳細な観察を続けた。今日の海龍号は確かにいつもと違っていた。甲板には見慣れない機材が設置され、船体から海中に向かって太いワイヤーが伸びているのが確認できる。
「佐藤、あのワイヤー、しっかり撮れてるか?」
「はい、バッチリです。それに……甲板に潜水服を着た人がいますね」
「潜水服?」
田島は眉をひそめた。調査船に潜水士が乗り込んでいるということは、海底での作業を行うということだ。しかし、この海域で一体何を……。
「司令部に報告する。何か大きな動きがあるかもしれん」
田島は通信機に向かい、基地への報告を開始した。いつもとは違う今日の調査船の様子を、詳細に伝えなければならない。
東京の防衛省では、吉澤一等海佐が控え室で待たされていた。手には今朝方自衛隊機から上がってきた報告書が握られているが、先客があるという理由で三十分近く待たされている。
吉澤は焦りに似た感情を覚えていた。毎日のように同じような報告が上がってくるため、上層部も緊急性を感じていないのかもしれない。しかし、今朝もたらされたC国艦の動きは明らかにこれまでとは違っていたのだ。
潜水装備の確認、海底探査機と思われる機材の搭載、そして定点での長時間停泊。これらは全て、海底での本格的な調査活動を示唆している。
「一体何を探しているんだ……」
吉澤は報告書を見つめながらつぶやいた。公式には「海洋資源調査」ということになっているが、七十六日間も同じ海域で調査を続ける必要があるのだろうか。
やがて、わずかな話し声とともに扉が開いた。そして、吉澤の予想もしなかった人物が姿を現した。
「安藤?」
吉澤は驚きを隠せずに声をかけた。
「ああ、吉澤じゃないか。久しぶりだなあ」
室内に向けて一礼した後、扉を閉めて安藤は笑顔で答えた。しかし、その笑顔はどこか作り物のように見えた。
「やっぱり安藤だよな。お前、どうしてここにいるんだ。文科省にいたはずじゃないか」
「なに、野暮用さ」
安藤は曖昧に答えると、二言三言秘書官と話をした後、吉澤を振り返った。
「俺は今、地方に出向中なんだ。今日も会議を済ませたら、すぐ戻らなければならない。……ああ、でもな、来週はまた東京に来る。その時は一杯やろうや」
それだけ言うと、安藤は吉澤の返事も聞かず、秘書官から手渡された紙袋を手にして出て行った。
安藤は吉澤の高校時代の同級生だった。関西の進学校を卒業後、二人とも同じ大学へ進み、そして国家公務員となった。学生時代はよく一緒に過ごしたものだが、年齢が上がるとともに二人とも忙しくなり、最近は何年も会うことがなかった。
そんな安藤に防衛省で出会うとは。文部科学省にいるはずの彼が、なぜこんなところにいるのか。しかも、その手に持っていた紙袋の中に「機密」の文字が見えたような気がする。
吉澤は胸のざわめきを押し殺しながら、安藤が出て行った扉を見つめていた。友人の思わぬ登場に困惑を隠せずにいると、怪訝な顔をした秘書官に促された。
「どうぞ、お入りください」
吉澤は慌てて執務室へと向かった。
「艦影補足。十時の方角」
P-3C哨戒機の機内に響く冷静な声。操縦席では、ベテランパイロットの田島三佐が計器を確認しながら機体を安定させている。
「今日で七十六日連続だな。よし、高度五百で右から回り込む」
田島の声には疲労の色が滲んでいる。七十六日間、毎日同じ海域で同じような監視任務を続けている。最初の頃は緊張感もあったが、今では半ば機械的に作業をこなしているような状態だった。
「機内記録、撮影の用意はいいか」
「もちろんです」
後部座席の若い隊員、佐藤二尉が機材を確認しながら答える。彼はまだこの任務に就いて三か月ほどしか経っておらず、毎回の飛行に真剣に取り組んでいる。
「よし、艦籍を確認次第呼びかけを行う。記録開始」
「記録開始しました」
「撮影用意……」
P-3Cは高度を五百メートルまで落とし、ゆっくりと右旋回を始めた。下方の海面には、灰色の船体が朝の薄明かりに浮かび上がっている。見慣れたC国の調査船『海龍号』だった。
田島は窓の外を見下ろしながら、ため息をついた。毎日毎日、同じ船が同じ海域で同じような活動を続けている。一体何を調査しているのか、正式な発表はない。だが、現場の人間として感じる違和感は日に日に強くなっていた。
「今日もまた、例の船ですね」
佐藤が写真を撮りながらつぶやく。
「ああ、もうすっかり顔馴染みだ。向こうも俺たちの顔を覚えてるかもしれんな」
田島は苦笑いを浮かべながら答えた。確かに、毎日のように上空を飛ぶ日本の哨戒機を、船の乗組員たちも見慣れているだろう。時々、甲板にいる人影がこちらを見上げているのが見える。
「でも、今日は何か様子が違いませんか?」
佐藤の言葉に、田島は改めて下方を見た。確かに、いつもと違う装置のようなものが見える。
「甲板に何かワイヤーのようなものが……」
「ああ、俺も気になってた。いつもより船の動きも違うな。定点で停止してる時間が長い」
P-3Cは海龍号の周りを大きく旋回しながら、詳細な観察を続けた。今日の海龍号は確かにいつもと違っていた。甲板には見慣れない機材が設置され、船体から海中に向かって太いワイヤーが伸びているのが確認できる。
「佐藤、あのワイヤー、しっかり撮れてるか?」
「はい、バッチリです。それに……甲板に潜水服を着た人がいますね」
「潜水服?」
田島は眉をひそめた。調査船に潜水士が乗り込んでいるということは、海底での作業を行うということだ。しかし、この海域で一体何を……。
「司令部に報告する。何か大きな動きがあるかもしれん」
田島は通信機に向かい、基地への報告を開始した。いつもとは違う今日の調査船の様子を、詳細に伝えなければならない。
東京の防衛省では、吉澤一等海佐が控え室で待たされていた。手には今朝方自衛隊機から上がってきた報告書が握られているが、先客があるという理由で三十分近く待たされている。
吉澤は焦りに似た感情を覚えていた。毎日のように同じような報告が上がってくるため、上層部も緊急性を感じていないのかもしれない。しかし、今朝もたらされたC国艦の動きは明らかにこれまでとは違っていたのだ。
潜水装備の確認、海底探査機と思われる機材の搭載、そして定点での長時間停泊。これらは全て、海底での本格的な調査活動を示唆している。
「一体何を探しているんだ……」
吉澤は報告書を見つめながらつぶやいた。公式には「海洋資源調査」ということになっているが、七十六日間も同じ海域で調査を続ける必要があるのだろうか。
やがて、わずかな話し声とともに扉が開いた。そして、吉澤の予想もしなかった人物が姿を現した。
「安藤?」
吉澤は驚きを隠せずに声をかけた。
「ああ、吉澤じゃないか。久しぶりだなあ」
室内に向けて一礼した後、扉を閉めて安藤は笑顔で答えた。しかし、その笑顔はどこか作り物のように見えた。
「やっぱり安藤だよな。お前、どうしてここにいるんだ。文科省にいたはずじゃないか」
「なに、野暮用さ」
安藤は曖昧に答えると、二言三言秘書官と話をした後、吉澤を振り返った。
「俺は今、地方に出向中なんだ。今日も会議を済ませたら、すぐ戻らなければならない。……ああ、でもな、来週はまた東京に来る。その時は一杯やろうや」
それだけ言うと、安藤は吉澤の返事も聞かず、秘書官から手渡された紙袋を手にして出て行った。
安藤は吉澤の高校時代の同級生だった。関西の進学校を卒業後、二人とも同じ大学へ進み、そして国家公務員となった。学生時代はよく一緒に過ごしたものだが、年齢が上がるとともに二人とも忙しくなり、最近は何年も会うことがなかった。
そんな安藤に防衛省で出会うとは。文部科学省にいるはずの彼が、なぜこんなところにいるのか。しかも、その手に持っていた紙袋の中に「機密」の文字が見えたような気がする。
吉澤は胸のざわめきを押し殺しながら、安藤が出て行った扉を見つめていた。友人の思わぬ登場に困惑を隠せずにいると、怪訝な顔をした秘書官に促された。
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吉澤は慌てて執務室へと向かった。
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