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第八章:演じられた魔王黄金の檻 ~天下という名の牢獄~
第37話 甲斐の虎、来襲 ~最強の武田信玄と、海の胃痛~
しおりを挟む 比叡山焼き討ちの衝撃は、琵琶湖の水面を越え日本全土を震え上がらせた。
「第六天魔王、信長」
その悪名は、反乱分子を一時的に沈黙させるための最強の劇薬となった。
だが、劇薬には強烈な副作用がつきものだ。
恐怖は憎悪を生み、憎悪は最強の怪物を呼び覚ます。
「魔王・信長を討つべし! 仏敵を滅ぼすは、我らが大義なり!」
比叡山の僧侶たちの悲鳴に応える形で、ついに東の山々が鳴動した。
甲斐の虎、武田信玄
戦国最強の騎馬軍団を率い、百戦錬磨の軍略を持つ、正真正銘の化け物。
「風林火山」の旗印の下、彼が将軍・足利義昭の要請に応じ、京を目指して進軍を開始したという報せは、岐阜城をパニックに陥れるのに十分だった。
◇
「ど、どうする!? 武田だぞ! あの武田が来るんだぞ!」
岐阜城の奥の私室。
俺はうつけの仮面も、魔王の威厳もかなぐり捨てて頭を抱えていた。
歴史知識があるからこそ、余計に怖い。
俺の記憶にある「武田信玄」という男は、織田信長が一度も勝てなかった相手だ。
もし彼があと数年長生きしていたら、天下は武田のものになっていただろうと言われるほどの歴史のバグみたいな存在だ。
そして、これから起きる悲劇も知っている。
三方ヶ原の戦い
俺の同盟者である徳川家康が、完膚なきまでに叩きのめされ、恐怖のあまり馬上で脱糞したという、あのあまりにも有名な逸話が残る戦いが目前に迫っているのだ。
「お、終わりだ……家康が負けたら、次は俺だ……あんな化け物に勝てるわけがない……」
「落ち着いてください、殿。ウロウロされると目障りです」
部屋の隅で、海が山のような書状を捌きながら、氷のように冷たい声で言った。
彼女のデスク周りには、美濃、三河、遠江の詳細な地図が広げられている。
だが、よく見ると彼女の手元には、この時代には珍しい白い粉薬の包みが置かれていた。
「海だって、顔色が悪いじゃないか……! それ、空特製の胃薬だろ?」
「……当然です。胃の一つや二つ、穴が空いても不思議ではありません」
海は、苦虫を噛み潰したような顔で粉薬を水で流し込んだ。
「客観的に戦力を分析しても、まともに戦えば勝率は万に一つもありません。
武田の騎馬隊の突破力は、今の織田・徳川連合軍の防衛線を紙切れのように引き裂くでしょう。
それに、今の我々は、石山本願寺や浅井・朝倉の残党への対応で兵力が分散しています。手薄もいいところです」
「じゃ、じゃあどうするんだよ!」
「同盟者の家康殿に、死ぬ気で食い止めてもらうしかありません。
残酷ですが、彼を盾にして、時間を稼ぐのです」
海の声には、苦渋の決断が滲んでいた。
俺たちは大切な友人を、最強の虎の餌食として差し出さなければならないのだ。
◇
そして迎えた、元亀三年、十二月。三方ヶ原の戦い。
結果は、俺の知る歴史通りの……いや、それ以上の凄惨な惨敗だった。
俺が送った佐久間信盛、平手汎秀の援軍など、武田の赤備えの前では枯れ葉同然だった。
平手は討ち死にし、佐久間は逃亡。
家康軍は壊滅的な打撃を受けた。
早馬がもたらした報せは、絶望的なものだった。
『徳川殿、命からがら浜松城へ帰還。
城門を開け放ち、空城の計にて辛くも武田の追撃を回避せしものの軍は半壊。
三河の防衛線、崩壊寸前にございます』
報告を聞き、俺は天を仰いで椅子に沈み込んだ。
「家康……すまん……
俺がもっと早く、もっと多くの兵を送っていれば……」
自己嫌悪と恐怖で、吐き気がする。
信玄は、このまま三河を突破し、尾張へ、そして岐阜へ来る。
俺の首が物理的に飛ぶ音が、幻聴として聞こえてきそうだ。
そんな時、重苦しい空気が漂う部屋に場違いなほど明るい声が響いた。
ガラッ!
「だーいちゃん! 海! 家康さんへの慰問品、用意できたよー!」
空だった。
彼女は、自分の体ほどもある大きな木樽を抱え、ニコニコと入ってきた。
「……空、お前な、今はそれどころじゃ……って、なんだその樽? 酒か?」
「ううん、お味噌だよ! 三河特産の八丁味噌!」
「はっ? 味噌?」
俺と海は呆気に取られた。
「だって、家康さん、負けちゃってすごく落ち込んでるでしょ?
それに、なんか……その、怖い思いをして、お腹の調子も悪くなっちゃったみたいだし」
空は、あえて「脱糞」という言葉を使わず、オブラートに包んで言った。
彼女の情報網は、そんなデリケートな情報までキャッチしているのか。
「だから、故郷の味の濃いお味噌汁を飲んで、体も心も温めて元気だしてもらおうと思って!
あとね、この手紙も添えとくの」
空が見せた手紙には、彼女独特の丸文字(もちろんこの時代風に崩してはあるが)と、下手くそだが愛嬌のある絵が描かれていた。
そこには、苦虫を噛み潰したような顔で座り込む男の絵があった。
『負ける時もあるよね! 生きてれば次があるよ!
その悔しそうな顔、忘れないように絵に描かせておいてね。
泥だらけの顔も、逃げて帰ってきたことも、全部勲章だよ!』
……こいつ、家康があの屈辱的な「しかみ像(顰像)」を自ら描かせて戒めにしたという逸話を、逆に「励まし」として利用しようとしているのか?
それとも、ただの天然か。
「……ふっ、ははは!」
俺は乾いた笑い声を漏らした。
あまりにも緊張感のない、しかし核心を突いた優しさに、強張っていた肩の力が抜けたのだ。
「そうだな。家康はしぶとい男だ。味噌汁一杯で復活するかもしれん」
海もまた、ふっと表情を緩め、二杯目の胃薬を水なしで飲み込んだ。
「……そうですね。まだ、我々は負けたわけではありません。
家康殿が生きて時間を稼いでくれた。この『時間』こそが、我々の唯一の武器です」
海が、瞳にカミソリのような鋭い光を取り戻す。
彼女は、地図上の武田軍の進路を扇子で叩いた。
「武田の領国は山国。冬になれば雪に閉ざされ、補給は困難になります。
それに……忍びからの極秘情報によれば、信玄は長年の持病を抱えているとか。
この行軍の遅さ、慎重すぎるほどの陣立て……。老いた虎の体は、限界に近いと見ます」
「つまり、持久戦か?」
「いいえ、ただ待つだけでは足りません。
病身の老体に最も毒なものを、たっぷりと送りつけて差し上げましょう」
「毒?」
「ええ。『ストレス』という名の毒を」
海の唇が、三日月のような冷酷な弧を描いた。
◇
そこからの海の策は、陰湿かつ巧妙を極めた。
現代で言うところの「フェイクニュース」「情報操作」だ。
彼女は、京の公家、堺の商人、そして各地の寺社を通じて、徹底的な偽情報を流したのだ。
『織田信長、武田の侵攻を意に介さず、岐阜にて連日連夜の茶会三昧』
『南蛮渡来の珍味”金平糖”に舌鼓を打ち、「山猿ごときに京の雅が分かるものか」と嘲笑』
『家康を見捨て、すでに大量の黄金を持って京へ逃亡の準備か』
『信長、「信玄など老いぼれ、相手にする価値なし」と豪語』
これらは全て真っ赤な嘘だ。
実際には、俺は恐怖で夜も眠れず枕を濡らし、海は胃痛と戦いながら執務し、空は家康のために味噌を詰めていた。
だが、この情報は、真面目でプライドが高く、そして「義」を重んじる信玄を激怒させるには十分だった。
三河の陣中、報告を聞いた信玄は、持病の発作を押さえながら、顔を朱色に染めて激昂したという。
「おのれ、尾張のうつけ風情が!
この信玄が命を削って京へ上ろうとしているというのに、茶会だと!? 山猿だと!?
わしを、武田の誇りを愚弄するか!!」
怒りは血圧を上げ、血管を収縮させ、心身を急速に消耗させる。
海は、戦国最強の武将を、刀も槍も使わず、ただ「煽り」によって攻撃したのだ。
そして、天正元年、四月
信玄の陣から、突如として撤退の太鼓が鳴り響いた。
進軍が止まり、武田の大軍が甲斐へと引き返し始めたのだ。
「し、信玄、死す……!?」
その急報が届いた時、俺は執務室の真ん中で、全身の力が抜け、その場に大の字に寝転がった。
「た、助かった……」
天井を見上げながら、涙が滲んだ。
首の皮一枚……本当にギリギリのところで、歴史という名の運命が俺たちに味方した。
岐阜城の広間で、俺たちは三人だけで祝杯を挙げた。酒ではなく、空が淹れた温かいハーブティーだ。
「怖かった……本当に、死ぬかと思った……」
俺が情けなく呟くと、空が優しく頭を撫でてくれる。
「でも、耐え抜いたじゃん! 家康さんも無事だったし、大ちゃんの勝ちだよ!」
海は、深いため息と共に、空になった薬包紙をゴミ箱(屑籠)へと投げ捨てた。
「……運も実力のうち、と言いますが。
これほど心臓に悪い勝利は、もう御免です。
私の胃壁が持ちません」
「海も、よく頑張ったな。お前のおかげだ」
「ふん、当然です」
そう言いながらも、海の表情は柔らかかった。
最強の敵、武田信玄は去った。
だが、彼の死は戦国という時代のタガを完全に外すことになった。
後ろ盾を失った将軍・足利義昭の追放。
そして、室町幕府の事実上の滅亡。
俺は望むと望まざるとに関わらず、名実ともに天下の支配者としての道を、駆け上がらざるを得なくなっていた。
スローライフへの逃げ道は、出世すればするほど、皮肉にも遠ざかっていく。
「……次は、もっと強い城を造ろう」
俺は、温かい茶を啜りながら呟いた。
「誰にも邪魔されない、俺たちだけの最強の要塞を。
そこに引きこもって、毎日昼寝して暮らすんだ」
── 大地のその現実逃避めいた呟きが、後の絢爛豪華な「安土城」築城へと繋がっていくのだが、それはまだ少し先の話……今はただ、甲斐の虎が去った後の静寂と、生きていることの実感を、三人で分け合うだけで精一杯だった ──
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